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「ジンメルコレクション」 ゲオルグ・ジンメル

北川東子・鈴木直 訳  ちくま学芸文庫  筑摩書房

収録作品
愛の哲学断章
女性心理学の試み
現在と将来における売春についての覚え書き
女性と流行
いかなる意味でも文学者ではなく
取っ手
橋と扉
ヴェネツィア
額縁-ひとつの美学的試み
肖像画の美学
俳優の哲学
重力の美学
社会学的美学
社会主義とペシミズム
生の対立と宗教
ゲルハルト・ハウプトマンの『織工たち』
ベルリン見本市
よそ者についての補論
近代文化における貨幣

読み順は例によって?バラバラ

「ベルリン見本市」

 文化が発展すると、仕事はますます特殊化し、一面化し、担当分野にますます狭く限定されるようになる。ところが、こうした生産の細分化に対応して消費が細分化されることはけっしてない。むしろ逆だ。現代人は、あたかも、分業によって仕事が一面的で単調になってしまったことを、受容と享受の面で埋め合わせしようとしているように見える。
(P238-239)


本当にそう言えるのかはまだじっくり考えてみないとわからないけれども、興味深い指摘。ジンメルが今のオタクみてもこの言葉は撤回しないかな。しないだろうな。たぶん。
(2017 07/30)

「いかなる意味でも文学者ではなく」、「取っ手」

前者は前読んで途中かなと思ったけどそこで終わってた掌編。文学者を断念したというジンメルだけど、ここまで書けたら充分だと自分などは思うがなあ。「取っ手」の哲学なんて書けるのはこの人くらいだろう。 

 感覚器官による感受を通じて身体性は魂へと求心的に接近し、意志にもとづく刺激伝達をつうじて魂は身体世界へと遠心的に出ていく 
(p82)


これ入力してて気づいたんだけど、「通じて」と「つうじて」は使い分けているのかな、それとも特に意味のない不統一なのかな。それはともかく、p82の前半の記述が水差しにおける「取っ手」の立場を、後半の記述が「注ぎ口」の立場を示している…この箇所、メルロ=ポンティに読ませてみたい。
(2018 01/05)

ジンメルの女性論1(「愛の哲学断章」、「女性心理学の試み」)


「ジンメルコレクション」から放置していた(?)女性論を2編。「愛の哲学断章」と「女性心理学の試み」。実は読んだ順は逆。

  ある感情の強度と深度はその感情の「永続」としてしか表現できないと考え、もし感情が一定しか続かないと、その力は弱くて真実でないと考えるのは、おそらくは心の視覚が犯す不可避の錯覚でしょう。
(p16)


結婚という制度に必ずしも対応しない愛の形がある、ということ。

 女性の心的なエネルギーは、ひとつの統一点を中心にして密に集まるのですが、それだけに、ある刺激が与えられるといっそう全体が激しく揺れ動くのです。
(p23)

 女性として完璧な存在になったときに、本来なら個人的でないこと、個性をもたないことが、完全に個人のありかたとなってしまうということです。
(p28)


男性と女性では自由というものも異なる。類的存在の性格から個性が滲み出るということらしい。男性の分化的思考に対して、女性の統一的流れの思考、こういうもの言いを画一的と捉えることも可能かもしれない。100年以上前の論考だということを差し引いても。
(2018   01/08)

ジンメルの女性論2(「売春についての覚書」、「女性と流行」)


男性の性格的・精神的(あんまり書いてなかったけど経済的)成熟がどんどん遅くなり、身体の性的成熟がかなり先行するから、売春というのはある程度必要なものである。ところが「良俗社会」はそうした社会の存立を知ろうともしないで売春(売春婦)を批判している。婚姻制度、一夫一妻制がある限りは売春は無くならない。
また、この論考は貨幣論を併設している。貨幣制度が未発達の社会では、売春というものが、自分の中のかけがえのないものだと思われているものが、他の何か具体的な(かけがえのない)ものとの交換になり、社会からは批判されない。貨幣の没個性的、汎用交換性が自分のものをなんでもないものと等価でもよいということを導いてしまい、批判されてしまう。

後者は短い論考。男性の方が各分野に分化し多様性があり、女性は統一性を持っている。という考えは第1部の他の論考にも共通するのだが、果たして本当なのか。ながら作業が女性は得意という面からも女性の方が分化さてているような気がどうしてもするのだけど…
(2018 01/09)

「橋と扉」、「ヴェネツィア」、「額縁」

  地上の生は、いかなる瞬間にも、たがいに結ばれていない諸事物のあいだに橋を架け、扉の内側にも外側にも同じように立ち、その扉をくぐって、自己目的的存在から世界へと乗り出し、そしてまた世界から自己目的的存在へと戻っていく。
(p98-99)


「橋と扉」より。

  ゴンドラのテンポとリズムは、まさに歩行者のそれだ。そしてまさにここに、人々が昔から感じ続けてきたヴェネツィアの「夢のような」性格の本来の発生源がある。
  だからこそ私たちは、つねに一定の印象が持続すると、催眠状態に陥るのだ。中断することなくひとつのリズムにさらされると、私たちは非現実的なものの朦朧状態へと落ちこんでいく。
(p108)


「ヴェネツィア」より。
世界と自己の関係とその象徴を担う「橋と扉」、テンポから夢とヴェネツィアの関係を探る「ヴェネツィア」。
(2018  01/10)

ジンメル全体と部分
第二部終了。部分と全体というこのコレクションを統一するテーマがわかりやすく提示している「額縁」冒頭のp114の文章。
(2018  01/11)

  ものの性格を最終的に決めるのは、それが全体であるか、部分であるかということだ。ある存在が、自足し、自己完結し、自分自身の本質から出た法則のみに規定されているか、それともひとつの部分として全体の連関のなかにおかれ、力と意味の源泉をもっぱらその連関から得ているかーこれが魂とあらゆる物質的なものとの違いであり…(以下略)…
(p114)


芸術作品とそれ以外との違いでもあるらしい。
(2018   01/14)

「肖像画の美学」

 芸術の守備範囲と最終的意図は内的なものにではなく、外的なものにあるからだ。 
 芸術家にとっての魂とは、外見を照らすすべての光が集まる焦点のことにほかならない。 
 いろいろな特徴間の連関が、ある一定の焦点に絞りこまれ、納得のいく必然性に達するやいなや、ひとつの魂としての様相を帯びるようになること、さながら可視的な要素間の関係のなかから魂が結晶のように析出してくることー言うまでもなくこれこそ芸術家の造形にとってもっとも高い価値をもつ出来事だ。 
(p142)


芸術は対象内部の魂は対象外。外側から構成し続けて、擬似魂を描き出せばいい、というのが基本かな。
(2018 01/16)

「俳優の哲学」

 偉大な芸術作品は一見、さまざまな関心のうちからひとつの関心だけを取り出して、それを高めているように見える。しかしそのとき、他の関心の高まりがいわば恩寵のように転がりこんでくるのだ。 
(p162-163)


これは「肖像画の美学」にも共通する、視覚上その他の効果を研ぎ澄ませていくうちに対象の「魂」を見いだすことが可能になるという議論。
(2018 01/21)

「生の対立と宗教」、「よそ者についての補論」

 それは、愛情と疎外感、屈辱と享楽、陶酔と後悔、絶望と信頼が、経験世界の関係のなかでは、あたかもまったくの断片のように入り乱れ、たがいに無関係に並立しているように見えるのと同じだ。しかしそれらを、いわばこの世的なものの平面を超えて延長していくと、ばらばらに見えた線がひとつの点に集まる。
(p215-216)


これは前者から。この外挿してできる点が宗教の形成点だとジンメルは言う。この議論見て行くとジンメルは神は形式によって形成されるものという視座に立っているように見えるが。

 ここで言うよそ者とは、これまでよく言われてきたように、今日来て明日去っていく人という意味ではない。むしろ今日来て明日とどまる人ーいわば潜在的放浪者という意味だ。
(p248)


これは後者。よそ者の起源は行商人に始まる。そして同地の社会からの客観性により、第三者機関としての裁判権や、親しい人には言いにくいことも言えるということからの懺悔(ひょっとして情報産業とかも)なども、よそ者が行なったり取り持ったりすることが多い。 
近代社会はある一定以上の「よそ者度」がないと成立しないのでは。 
(2018 01/28)

「近代文化における貨幣」

貨幣が導く近代化2つの道
「ジンメルコレクション」なんとか今月中に読み終えた。最後は「近代文化における貨幣」

 貨幣によって直接的な相互理解の土壌が作られ、行動基準の均一化が生じた。これが十八世紀以来、文化史、社会史のなかできわめて大きな役割を果たしてきた、あの普遍的に人間的なるものという観念の発生に絶大な貢献をなしたにちがいない 
(p270)

 近代化の諸潮流は一見相反する二つの方向へと流れこんだ。ひとつは、平均化へ、きわめて均一化へ、もっとも離れたものを同一条件のもとに結び合わせ、より包括的な社会圏を生み出す方向へと。もうひとつは、もっとも個性的なるものの形成へ、個の独立性へ、個我形成の自立をめざす方向へと。 
(p271)

 近代の生活には貨幣という形で、人生という機械を永久機関と化す制止不可能な車輪が与えられた。 
(p285)


ジンメルは貨幣の登場を悲観的だけでなく、肯定的な立場でものを見ている。p271の後半は「かけがえのない個人」という概念が、かけがえのある抽象的な貨幣との対比で出て来たという。 
解説ではブロッホの言葉から「ひょっとしたら、流れること、旅すること」の哲学であるという指摘がとりあえず引いて置くところ。 
(2018 01/30)

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