見出し画像

「犬売ります」 フアン・パブロ・ビジャロボス

平田渡 訳  フィクションの楽しみ  水声社

訳者平田氏の同僚だった人が登場人物となっている作品もあるらしい(この作品でも、作者のあとがきでの謝辞に出てくる)。

メキシコ、グアダラハラ生まれで、ブラジルにも住み、現在はカタロニア在住。上記作品、そしてこの作品はメキシコが舞台。タコス屋と読書会? アドルノの「美の理論」を生活信条にするタコス屋語り手(アドルノは「テオドール」、語り手は「テオドーロ」)? メキシコシティの古アパート(エレベーター待つのに何時間もかかる?)に住んでいる老人達の読書会。

第一部は「美の理論」


 エレベーターは、建物を二分しながら、ズボンのファスナーのように上がったり下がったりしていた。フランチェスカは、わたしをズボンのファスナーにたとえながら、あのひとったら、あたしの気をひこうとして、つきまとって離れないのよ、と周りにいいふらした。
(p15)

ここでのズボンのファスナーのような、同じような言葉を二度並べて使うのが、この作品を特徴づけているようだ。ページをぱらぱらめくるとそんな感じがする。(2021 04/18)


 初めに立てられた命題があれば、それに反する命題が生まれるものなのである。人生はそんなふうになっているのだ。
(p74)

 美術学校さ。二十世紀メキシコ美術を彩るすべての天才たちが、先生ないしは生徒としてすごしたところだ。むろん、それ以外の、わたしたちのような箸にも棒にもかからない輩や、つけ足しの連中、落ちこぼれた者たち、こっそりもぐりこんだ手合い、美術史に入れるような幸せな出会いに恵まれなかった、有象無象も通っていたよ。わたしたちは、周囲の情況に迫られたり、おのれの限界を認めたりして、いずれも志望を諦めなければならなかった。それから、根気よく凡庸さを押しとおして美術を生業にし、やむなく馬鹿げた人生を送っているやつらもいる。しかも、何が起ころうとも、ひたしら絵を描きつづけて、ついには気が狂ったり、病気になったり、夭折したり、美術に殉じたりする者もいるんだ。
(p127-128)

この小説の「主人公」、マヌエル・ゴンザーレス・セラーノという画家や語り手はじめとする美術を支えていた名も無き人々。この小説はそうした人々への思いで成り立っている。

 バス・センターでは、父がわたしたちを出迎えてくれた。身罷っているわりには、顔色はよかった。生きているわりには、ひどいていたらくであった。
(p150)

 父は亡くなっており、自分たちは夢の中に入りこんでいたのである。夢を見ているのは、母なのか、わたしなのか、はたまた姉なのか、それを知る必要があった。(p151)

別居していた(浮気が見つかったため?)父が亡くなったという知らせを受けて、語り手と姉が太平洋岸の町マンサニージョへ行った時の、父は本当に亡くなっていたのか分からぬ幻想的な情景。第二部の最後の方、父の遺灰を太平洋に撒き、それをむさぼり食らう魚の群れ、それからその魚を網で獲る漁師、という場面(p286)もこれまでの犬の主題の変容締めくくりになっていて印象深い。

第二部は「文学ノート」。こちらもアドルノ。

 「分かったかね」とわたしは尋ねた。「すべてを語る必要はなくて、小説にはたくさん空所を入れていいというわけだ」
(p210 ヴォルフガング・イーザーの理論を借用? ここでは小説学校生徒である「パパイヤ頭」を煙にまくために使われている)

 わたしたちの心の中には、また黒い天使が存在している。それは、暗闇の中で光り輝き、匂いを嗅ぎまわる犬、魔術、黒い月、亡霊、塵、毒物を通して、底辺社会と先験的に繋がりを持つ意識にほかならない
(p270 ジェイムズ・ヒルマンの夢に関する本から)

…とにかく、笑えるブラックユーモア、くすぐり盛りだくさん(メキシコ人だったらもっと大変なことになるだろう…)。アドルノの本を実生活で役立てる主人公…と言っても実際はゴキブリ叩くとかだけだったり。母親が飼っていた犬が死ぬと近所のタコス屋に犬の肉を貰わせて、その後家族でそのタコス屋へ行ったり。とにかく昨晩50ページくらい読んで、それで今日250ページ以上一気読み。いろいろ未読本待っているからそれも仕方がないのだが…

とにかく当分メキシコのタコス屋には行けないなあ…
(2021 05/01)

「犬売ります」の小説構造とフェルナンド・デル・パソ

補足
この小説の語り手は、「小説を書いていない」というのに、フランチェスカから小説書いてると言われる。それに語り手が初恋のマリリンのことを書いた直後に「綴りが違う」とか指摘されてる…最後の方で明らかになるのだが、どうやらフランチェスカは夜にこっそり語り手の部屋に忍び込み、(小説ではないものの、語り手がいろいろ書いている)ノートを覗いていたのだ。夢に出てきたマヌエル・ゴンザーレス・セラーノやフランチェスカに促されて、語り手は小説を書き始める…「あのころ毎朝…」

と、冒頭に戻って円環構造になるのは、「失われた時を求めて」や「これから話す物語」にも出てくるお馴染みの?手法なのだが、この小説の場合は円環とか外に出られないとかよりも、表と裏がよじれているような感覚。それは時系列によらない語っている現在と回想の過去とが入れ替わり出てくる語りとも相まって、小説の味わいを形成している。

アドルノとともにこの小説のキーとなっているフェルナンド・デル・パソ(1935-2018)。フランチェスカ達の読書会で取り上げていたのは「メキシコのパリヌーロ」という、ラブレー的だという、1230ページ、重さ3.5キロの小説。これはまだ邦訳ないが、今年(2021)またもや?寺尾隆吉氏により同著者の「帝国の動向」が出た。これも結構厚い(600ページ?)で、ゴキブリ退治にも使えそう(笑)
(2021 05/02)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?