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「土星の環」 W・G・ゼーバルト

鈴木仁子 訳  ゼーバルト・コレクション  白水社


実は夜寝る前にちょっぴりゼーバルト「土星の環」を服用し始めている。途中で切るのが難しいこの本をどこで切るのかをも楽しみながら… 
(2014 03/12) 

ゼーバルトではレンブラントの死体解剖教室の話が出てきた。生徒達は解剖している死体を見ていると思いきや、実はちょっとずれた解剖図の方を見ているとか、この解剖は公開で行われ、見せ物というか処刑的な意味合いも残っていたのではとか。
(2014 03/13) 

鰊と人間 


ゼーバルト「土星の環」第2章から第3章へ。第3章ではいきなり?鰊のいろんなある意味グロテスクなトピックがたくさん。鰊の卵が全部成体になったら地球の質量の20倍になるとか、浜辺にうちあげられた鰊が何層にも重なったとか、鰊の死後少したって発光するとか…特に莫大な数の生と死をこれでもかと強調するのだが、これは例えば前の第2章に出てきたドイツへの空襲となんかオーバーラップする。そしてどちらもそれについて語る人がいない… 神にとっては鰊も人間も同じなのかも。
(2014 03/16) 

土星と燕 


「土星の環」だが、こんな文から。

 砂はすべてを征服する。 
(p11)


最初の方の文(ここはフロベールの夢の話)だが、今小説半ばまできて、ある意味全体を貫いている文ではないか、と思う。でも、この小説中の文の全部がそうである、と言えなくもないところがなんというか…文こそが砂と言ってしまおうか… 

 そのたびに幼い私は想像したのだ、この世界をバラバラにならないように繋ぎとめているのは、ひとえにこの燕が空中に軌跡を描いているからだ、と。 
(p71)


バラバラなエピソードだらけで成り立っているようなこの作品を繋ぎとめているのも燕だとすると…あ、タイトルの「土星の環」というのもそうなのかもしれない。バラバラな元衛星の破片を環にしているのは土星の引力。この作品において、燕や土星の役割を担っているのは、書き手である作者の意識であるし、読み手である読者の意識でもある。
(2014 03/18) 

コンラッドと太平天国の乱


「土星の環」5・6章は標題に挙げた通り、コンラッドと十九世紀後半の清朝の話がメイン。コンラッドもコンゴ行きくらいまでなので、どちらも「イギリス行脚」というには遠くてか細い糸でしかつながっていないけど、そのまた細いところをたどっていくのがゼーバルトらしいかな、と。

 良かれ悪しかれ、人はそこで自分の役を演じるほかはないのです 
(p114)


これはコンラッドの言葉。演じる、というのが、なんか心にしみて頷ける。自分探しとかいっても、何かに演じることを押し付けられているんだな、と。

ダニッチ中心の折り目構造

第6章は崖から海に落ちる町(今みたらハードカバーの表紙にシルエットが映っていた)ダニッチを境に、東洋と西洋が鏡に映ったような折り目構造になっていたことに気づく。同じ19世紀後半。蚕を崇めた西太后と、蚕のようだと比喩されるスウィンバーンと。
スウィンバーン(英国詩人)はある時フビライの大都を鮮明に夢見るが、それは北京に反映される。フビライの大都の夢と言えばコールリッジだが、この時代の西洋のオリエンタリズムの流行りだったのだろうか。ただの幻想?で留まらずに東洋に入り込んだのが前半で描かれた19世紀後半の中国だとすれば… そして真ん中には海に落ちていくダニッチの塔が… 
(2014 03/24) 

円環と死 

 それは同じ節を鳴らしつづける蓄音機のようなもので、機械の故障というよりは、機械に組み込まれたプログラムの致命的な欠陥なのだ。 
(p177)


比喩の面白さでこの部分を引いたが、このp177のところは半ページくらいは引用したいところ。で、この比喩が何を表しているのかというと、なんか前に来たことあるような風景や出来事、昔の人物なのに異様になんかその生を自分が生きたのではないかという感覚、それに襲われること。ゼーバルトはそれを死とも表現しています。この小説はそれに満ち溢れている。 ちょっと立ち止まれば、誰にでも体感できること。 
(2014 03/27) 

砂嵐


まずは柴田氏の解説にもあるこの言葉を。

 この世にとうとう慣れることができなかったと、そして人生は大きな、切りのない、わけのわからない失敗でしかない、と。 
(p207ー208)


ここは昨日読んだ、作者が初めての客だったアイルランドの民宿の夫人の言葉。うむ、と頷くほかはない。どうしてこうなってしまったのだろう… 今朝読んだところでは、作者が遭遇した砂嵐…砂といえば、この小説の冒頭に出てきた。さっきの失敗の人生が一粒の砂になり砂嵐となって舞っている感じ、かな。 そして砂はどこにでも入り込む。 
(2014 03/31) 

鰊と蚕


ゼーバルト「土星の環」をやっと読み終え。今日は9章の残りと10章。

9章ではイギリス東部を襲い、ゼーバルトの住まいの隣の庭園の木々を根こそぎ倒していったハリケーン。この小説中一番の巨視的視点にたった、まるで銀河の最遠方の縁に来たような、そんな気にさせる部分。

一方、10章は何故か?養蚕の話。なんで養蚕が出てくるのかよくわからないままに読み進めていくと、蚕がそれを利用しているはずの人類自体を逆に表しているようにも感じてくる。この仕組みは3章の鰊のところと同じか、と思っていると、鰊のところで出てきた教育映画への言及があって、これまた合わせ鏡の術だなと思う。

ただ、10章と1章、9章と2章、みたいにきれいに対称構造になっているわけではなく、いろいろずれを含んでいるのがこの小説のらしいところ。例えばさっきのハリケーンの部分は、ダニッチの海に崩れていく街と対応しているのか、とか。 とにかく、自分は解説の柴田氏と違って、この鰊と蚕のところがなんかこの小説の代表なのかなと感じた。後は砂。
最後はまるで小説世界全体が流砂に埋もれていくようなこんな文。

 …トマス・ブラウンは、どの頁であったかもう見つからなくなってしまったが… 
(p276)


最後に、柴田氏の解説からの引用を。

 悲惨と滑稽もまた、つねに「ほとんど一体となって生い育つ」のである。 
(p281)


エピグラフにあったミルトンの詩から導き出された文章。(「土星の環」というタイトルはベンヤミンとソンタグを意識しているとのこと) 
(2014 04/05)

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