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「幻想の未来/文化への不満」 ジークムント・フロイト

中山元 訳  光文社古典新訳文庫  光文社

千葉市都賀のトルバ堂書店で購入。
(2014 09/06)

フロイトの「幻想の未来」を少しだけ読む。人間は文化を破壊する欲動を持っている、と大戦時のペンミスティックな時期の論調。
(2015 08/06)

宗教の起源と社会化


フロイト「幻想の未来」を40ページくらいまで。 
戦時下に書かれただけあって書き出しはかなりペンミスティックなんだけど、本題の宗教の話に入ってきた。と、ここまで「個体発生は系統発生を繰り返す」を援用してしまうのはどうかなあ、と今の視点では思うけど、それでも、幼児の社会化と宗教の起源を比較する試みに耳を傾けると面白い視野が開けてきそう。 
今まで恐怖の対象だった父=自然・神を、保護してもらう相手にすり替えた時、心理学的に何が起こるのか。 
(2015 08/09)

宗教とは強迫神経症である


…という結論も、マルクスの阿片説と同じで強烈ではあるけれど…
まあ、とにかく「幻想の未来」

 大衆は科学的な思考の産物はうけいれるだろうが、科学的な思考が人間の精神にもたらすはずの変革は、大衆の心の中では起こらないのである。
(p81ー82)


前に大戦時と書いたけど実は大戦間(1927)の著作…かなりやはりペンミスティックだなあ。この後、神を大衆が信じなくなれば文化に対する抑止力もなくなって…と続く。
なら、宗教は是非とも必要なものであって、宗教を改めるべきというフロイトの意見と相違するのでは、と思うが、もう神を誰も信じなくなる日は近いという。
ちなみに強迫神経症とは、例えば寝る前に細々とした身辺整理しないと眠れないみたいな症状だけど、それをキリスト教のミサと共通するとフロイトは見ている。そして、神経症が精神分析等で解放されるように、宗教も啓蒙の力で解放されるべき…という見通しはカントの影響だろう。
(2015 08/11)

心の中の旧い建物とコントラスト


「文化への不満」から。

 人間の心の生のうちでは、ひとたび形成されたものは滅びることがなく、すべてのものが何らかの形で保持されるのだと考えるようになった。
(p135)


この後ローマの都市遺跡のイメージとのアナロジー(フロイトってアナロジー好きだよね)など出てきて、その説明が続く。自然物理的な世界では同一の時空間に違うものが存在することはあり得ない(まあ、最新物理学は別にしておいて)が、心の中の世界ではそれがどういう形でかはよくわからないけどよくあり得る、という。
でなければ、紅茶に浸したマドレーヌ食べたくらいで過去の光景がよみがえりはしないわな(笑)
(2015 08/13)

快楽を求め不快を避ける個人個人の策略のいろいろについて。芸術から神経症まで。幸福というのはずっと継続しているだけでは感じられず、何らかのコントラストを経験しないと発動しない。またここでも主題の宗教は集団妄想を強制する道であると指摘。
(2015 08/16)

快楽原則とその放棄方法


まずは前に書いたコンストラストの文引用を。

 もっとも厳密な意味での幸福は、強くせきとめられていた欲求が急に満足させられるときに生まれるものであり、ほんらい挿話的な現象としてしか現れないのである。快楽原則が望んでいた状況も長続きすると、気の抜けた快適さをもたらすにすぎないのである。わたしたちは、激しい対照だけに快感を覚えるのであり、快を覚える状況はごくわずかのあいだしか享受できないものなのである。
(p149—150)


「覚える」という漢字自体がこのことを示してくれているような気も。前に書いたプルーストのマドレーヌ体験もその典型例だろうけど、せき止められている→溢れて流れてくるというのがこの快の図式の構図で、ひょっとしたらこの快の根本には渇いた喉を潤す水を飲む時の身体的イメージが結びついているのかな、どうだろうか。
続いて

 文化が欲動の放棄に非常に強く依拠していること、あくまでも欲求を満足させないこと、欲動を抑圧し、押しのけ、その他の方法で抑えることを前提としている
(p193ー194)
 それに欲動に満足を放棄させることには危険が伴う。その欲動の放棄に何らかの代償を与えないと、リビドーの配分において深刻な障害が発生することを覚悟すべきなのである。
(p194)


今までのところのまとめっぽいので挙げてみた。
政治・社会的問題と、精神分析的現象との類似性はこの論文の中核の問題に対してはかなり有効ではないか。ここのところは「社会」とは何か、社会形成の問題とも密接に絡み合うところ。
こうした危険とはいついかなる時でも常に隣り合わせなことを把握しておかなければならないだろう。
(2015 08/19)

超自我の起源

 自我に向けられた攻撃欲は、超自我として自我のほかの部分と対立している部分に取り込まれ、これが「良心」となるのである。
(p246)


超自我が他人的な性格を持つことはなんとなく実感できるけど、攻撃欲ね。
(2015 08/20)

「文化への不満」今のところは幼い頃の厳格な外部の父親性が、内面化されたのが超自我だという論。厳格過ぎるのも甘やかされ過ぎなのも、元々の攻撃欲求が変に抑圧されやすいという。
(2015 08/25)

モーセと一神教(抄)


昨夜で一応「モーセと一神教」(抄)を読み終えて、講談社古典新訳文庫のフロイト集は後は注と解説のみ。
で、この論文はユダヤ教の一神教成立をも精神分析的手法、特に潜伏という考え方を使って説明しようというもの。
そんな中から純粋に精神分析の話題の文を少し。

 小児健忘の時期が、この性的な活動の早期の開花期と一致していることは、心理学的には無意味なことではないはずである。
(p337)


無意味どころかフロイトの核心部ではないか、という気もするのだけれど…この時期の外傷(トラウマ)がその後潜伏期を経て、思春期や成人期に回帰する。それと同じようにかなり前のモーセの教えが復活した、という論旨らしい…こっちの方はよくわからないけれど。

カニバリズムとトーテム饗宴とキリスト教


「幻想の未来/文化への不満」今日で読み終え。
キリスト教でパンと葡萄酒をキリストの身体として受領する、その儀式は原始期の原父殺しのカニバリズム(人肉饗食)につながり、トーテミズムのトーテム饗宴と同じものだという。この指摘は当時ですらよくあるものらしい。原父を殺し、その肉を食べた兄弟のアンバランスという図式。
(2015 08/27)

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