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「現代経済学 ゲーム理論・行動経済学・制度論」 瀧澤弘和

中公新書  中央公論新社

まえがき
序章  経済学の展開
第1章  市場メカニズムの理論
第2章  ゲーム理論のインパクト
第3章  マクロ経済学の展開
第4章  行動経済学のアプローチ
第5章  実験アプローチが教えてくれること
第6章  制度の経済学
第7章  経済史と経済理論との対話から
終章  経済学の現在とこれから
あとがき
参考文献

第3章まで

 このように、ゲームに複数均衡があることで、異なる社会で異なる制度が生じうることの説明ができるようになるのである。
(p67)

 この分析は、事前の観点から見て最適な行動と事後の観点から見て最適な行動とが乖離していること(これはマクロ経済学で、「時間的不整合性」の問題として分析されるものである)を明快にわからせてくれる。
(p74)

 現在のマクロ経済学は、現実の経済の振る舞いを数理モデルで再現するために、意思決定理論、ゲーム理論などで得られたさまざまな成果を取り込むことに貪欲な総合芸術を志向しているとも言えるのである。
(p105)


ケイジンアンかマネタリストか、という対立はもう過去のもの。両者が協力、刺激しあって新たなモデルを追っているという。ゲーム理論はまだわかる(内容が理解できているという意味ではない)が、意思決定論とか制度論とかはまだピンときていない。

第4章

 実は人間の意思決定をどのように捉えるべきかという問題は、長い歴史を持っている。興味深いことに、それは、そもそも人間は不合理であるという事実の理論的探求よりも、どのような意思決定の仕方が「合理的」なのかを探求する歴史であった。
(p132)

 行動経済学は、人間の不合理性を明らかにすることによって、逆に人間にとってどうしても手放すことができない「合理性」への問いを際立ったものにしているように思われる。
(p133)

合理性という概念自体が経済学(的思考)から出てはいないか。そうなると議論は循環しそうだけど…

第5章

 経済学での実験方法の活用は、その目的も手法も多様であって、単純に法則発見的なものと規定することはできない。これは単なる憶測でしかないが、将来は逆に経済学での研究のあり方が物理学での研究のあり方を再考するうえでの範例になるかもしれない。
(p168)

そうなったら実に面白そう…今はどちらもシュミレーション使った計算理論的実験が多いだろうし。
(2019 12/19)

第6章

 過度の成果主義的動機づけに対して、次のような心理学からの批判があることは古くから知られてきた。金銭的報酬という形で外的に動機づけすることは、しばしば、仕事そのものに対する興味という内的な動機づけを弱くしてしまうという、心理学実験の結果である。
(p193)

 制度間の補完性の度合いが強いほど、一つの分野で制度改革を行ったとしても、それが他の分野の制度変化を伴わなければ、最終的に経済システム全体の変革が達成されるまでのコストが高くつくということである。
(p206)

心理学や政治学・社会学など隣接学問領域との接点でもある。自分などはこれ(特に後者)が経済学の領域だという認識すらなかった。

第7章

 つまり、われわれが創出する人為的環境は、一方で人間が一個人の経験を超えて学習することを可能にしてくれる。しかし他方では人間の学習の方向を制約する。つまり、制約により可能性を拡大するというパラドクシカルなことがそこでは起こっているのである。もちろん、このプロセスは社会の多様化を孕みつつ展開する。
(p217)


「ダグラス・ノース  制度原論」より。この人、グローバル経済史でも西洋の勃興を「所有権」という制度に着目していた。

 そして、多数存在する均衡のそれぞれは異なる信念に支えられている。マグリブ商人とジェノヴァ商人が採用した戦略は、同じ繰り返しゲームの異なる均衡戦略であり、どちらでも表面的に実現するのは協力行動であるが、その協力のインセンティブを支える反事実的な部分に対する信念が異なっている。
(p221)


このアブナー・グライフのマグリブ商人とジェノヴァ商人の歴史研究とゲーム理論を総合した議論は面白く、ここで引用したような興味深いところもあるけど、キリスト教徒=個人主義的という図式はどうなのかな。まあ、それはここの説明だけではどう取り扱われているかわからないけど。

最終章

 社会理論家ヤン・エルスターは、社会科学は普遍的に成立する法則を把握する段階にはなく、社会現象を説明するために、小規模あるいは中規模のメカニズムを解明することに専心すべきであると述べている
(p248)


社会科学の適用範囲。ジョン・サールの「存在論的に客観的/主観的」、「認識論的に客観的/主観的」の議論も興味深い。

 社会科学は存在論的には主観的で、認識論的ノースは客観的な議論だという。
(p255)

 (全てを自然科学的に解明できるという)自然主義的な研究が)人間の本性を単純化して捉えてしまうことで、社会におけるわれわれの自己理解に変化を与え、それがわれわれの社会制度を変化させるという遂行性が作用する
(p260)


そのことを踏まえた暗いユヴァル・ノア・ハラリの見通し。

 しかし、今日では、自然科学的観点からは自由意志の存在は否定されてしまっている。彼はビック・データのシステムがわれわれよりもわれわれ自身のことを知るようになり、われわれは自分に関する重要な意思決定を行う権限をアルゴリズムに委ねることになるだろうと予測する。
(p261ー262)


自由意志の問題。今は決定論寄りに振れている時期か。最後はヘーゲルやディルタイの自己遂行性を含めた社会科学の可能性を示唆している。
(2019 12/22)
(自分の文章、ほとんど今、後付けしたので、薄っぺらい…とにかく、今の経済学の広がりを実感できる一冊…)

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