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「ドン・キホーテの旅 神に抗う遍歴の騎士」 牛島信明

中公新書  中央公論新社

批評を内包する小説 
牛島信明氏の「ドン・キホーテの旅」ちらりちらり読んでいる。「ドン・キホーテ」ほどいろんな読み方できる小説はないと思うが、その中に「作者始め登場人物達が自分の行動を内省し批評する小説」という読み方があるそう。
何せ後編では、前編の形式論(入れ子形式の短編導入について、など)や、矛盾(サンチョ・パンサの盗まれたロバが、何の言及もなく戻っている、など)について、登場人物達が語り合う、のだから。 そう、この小説は対話から成り立っている、というのも牛島氏の本に出ていた。
(2009 10/09) 

第7章「旅人ドン・キホーテ」で、中世ヨーロッパの神学者というサン・ヴィクトルのフーゴーという人の「教育論」という本を引き合いに出している。その中で人間は己の故郷・祖国に対する捉え方に関して3タイプあるという、説を述べている。
(p157・・・から) 

1 自分の故郷・祖国を美しいと思う人 (いまだ軟弱な初心者・・・とサン・ヴィクトルのフーゴーは述べている(以下同じ))
2 どのような土地でも自分の祖国だと思える人 (すでに強靭な人間)
3 全世界が自分にとって異土であるような人 (完璧な人間)

ドン・キホーテが3番目の「完璧な人間」であることは確かであろう、と牛島氏は述べている。ならば、ドン・キホーテにとっての祖国は彼をこのような狂気に導いた騎士道物語にあるのか・・・と考えてみると、それもなんか違うのでは、と思えてくる。どこかの公爵がドン・キホーテを招待して、ドン・キホーテをからかう為に自分の城に騎士道物語の世界を造り上げてしまう、その時、ドン・キホーテはかえって淋しそうに見える。

デュルケームのいう「アノミー」的な状態、芥川龍之介の「芋粥」状態、何かのマニアが憧れの何かを手に入れてしまった時の感じ・・・それだけではないのかもしれないが。
恐らく鍵は、後編第22章の「モンテシーノスの洞窟」の中にあるのだろう、ドン・キホーテが「人生の意味」を見たという・・・こんなところで告白しておくと、自分はまだ「ドン・キホーテ」を前篇途中(岩波文庫で2巻まで読み終わって3巻目の途中まで)で保留中(挫折とか、放棄とか言わないところが自分のコソクなところ(笑))。 

結局、自分がこのサン・ヴィクトルのフーゴーの説のところを取り上げた最大の理由は、この自分も「全世界が自分にとって異土であるような」感覚を持っているからであって(笑)、そのことをもってして自分を「完璧な人間」であるなどということはもうとうないのだが(笑)、そこのところが「自我」なるものの出発点なのかもとも思ったりもする(そもそもヨーロッパ中世と今とでは「故郷」の感覚が違うだろうけど)。
(2009 10/10)

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