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「汝、人の子よ」 ロア=バストス

吉田秀太郎 訳  ラテンアメリカの文学  集英社

汝、人の子よ


ロア=バストスの「汝、人の子よ」を昨日から読み始め。パラグアイの作家。
今のところテーマは「人の死は他のものの中に生きる始まり」といったようなところ。地方の村の年代記でもあり、鉄道が引かれ動き出したところ。
(2017 01/26) 

完全なる不毛 

 期待を捨て切らぬまま現実を容認する一種のあきらめにも似た醒めた心境なのである。 
(p41) 


逃げた「先生」を待ち望むマリア・レガラータという少女の描写。ラテンアメリカでよく見かける諦念の眼差しはこのようなものだろうか。

 畑に作物どころか草一本育たないようにと、塩を撒くことはできます。しかしね、土地を完全に不毛にすることはむずかしい。古い種が突然、雨で出来た穴に…あるいは虫けらの作った穴にくっついて、そこからうっそうと茂るということもあるわけです。人間だって同じことですよ。
(p47)


これは密告して警察署長になった男の言葉。どっちかといえば敵役のこうした言葉が後に予言的意味を持つというのが深い。
ところで、今書いたところは第2章のロシア革命逃れた医者?の章なんだけど、この作品、奇数章はある同じ語り手の語りで、偶数章は…書き方は三人称なんだけど…どこの視点?読み始めの印象よりも技巧にも凝ったものがあるみたい。
(2017 01/30) 

「汝、人の子よ」も地道に進んで第3章。第2章の外国人医師?の1シーンを列車内の違った視点から。 
(2017 02/01) 

ジグソーか枝か


「汝、人の子よ」は昨夜で第5章のマテ茶栽培農園からの脱出行が終わり。この元レンガ工場の反乱指導者の一家が、革命で破壊された鉄道車輌に住み着く人達みたい…と、各章でつながるポイントが各々ある。でもつながり方はパズルみたいに面ではなく、ある一点で枝分かれしていく感じ。これからもこのままなのか、それとも枝が絡まって面になっていくのか… 

パラグアイって、19世紀後半にブラジル・アルゼンチン・ウルグアイの三国と戦争するまでは南米でもかなりの豊かな国だったって知ってた?
(2017 02/03) 

昨日の続き。第6章は第5章のマテ茶栽培農園脱出行の赤ん坊の20年後。前に書いたように偶数章は共通の語り手なので、そこで話の枝が交差するとともに、親子関係なので面的つながりもできた。 物語論?に通じそう(でなくてもこの作品の構造のキーになりそう)な表現もあったので、またいずれ。
(2017 02/04) 

パラグアイ関連本


「パラグアイを知るための50章」田島久歳・武田和久  明石書店

チーパ(こちらではチパ)のカラー写真もある。
ロア=バストスの章見てみると、文字を持たないグアラニー語を取り入れるためのいろいろな技を使っているという。そういう視点は今までなかったなあ。 
(2017 02/05) 

物語論?と鏡の中の語り手


「汝、人の子よ」前に物語論?かもというところを引くとか言いながら、そのまま放置…だったので、ちょっとここで思い出してみる。

 私の目の前で肉と骨の生身の人間として彼が動いているのを見ながらも、それでもなおその物語は依然として信じられぬ馬鹿ばかしい幽霊の物語であった。たぶんそれがまだ完結していない物語だったためであろう。 
(p124)


最初の文の後半部分と次の文がなんだかうまくつながっていない気がするのだけど、そここそがこの論?の鍵。 

ここでの「彼」は前の章でマテ茶農園から脱出した生まれたばかりの赤ん坊をつれた革命家夫婦の、赤ん坊の二十年後。彼、クリストバール・ハラがここからのメイン登場人物。今日読んだところでは敵中堂々侵入しダンスを踊るという大胆かつ印象的な行動を。ちょっと前の捕虜護送列車を開けさせた女逹の場面とともにシネマティックな箇所。

一方先の文を語っているのはミゲル・ベラ中尉という奇数章の語り手。それが次の章入ると囚われの身で、仲間(ハラ)を売らないようがんばっている?のに、なんか下の方からは評判悪い…という微妙な人物。バストス自身の思い入れもありそうなだけに、奇数章の語りの変容、偶数章の描かれ方、とどうなっていくか、読みどころ。 この小説、文量的に多いのかどうかよくわからない… 
(2017 02/07)

「汝、人の子よ」たぶんクライマックス直前まで …


というわけで、今のところp232まで。 クリストバール・ハラと従軍看護婦サルイーらの前線への任務。

 彼女はさっぱりとしたすがすがしい気持ちになっていた。古い切り株から新しい芽が吹きはじめるのを感じた。負傷者が手術で手足を切断された後も、なおしばらく手や足が体にくっついているように感じるのとどこか似通った感じだった。 
(p202)


幻肢体験というのが実際にあって、それを利用したリハビリもあるというけれど、娼婦まがいのことをしていたサルイーの生活にもなんらかの切断面があったのだろう。 そして給水車、衛生車は、敵機の襲来、味方の水泥棒の襲撃、落伍者などの障害を経つつ、先に進む。

 人は絶えず変るもんだよ。だけどそれは本人によって大切なだけだ 
(p230)
 むしろ彼女の言葉は楽しそうだった。グワラニー語に悲しい言葉はない。言葉はみなまるで今できたばかりで、老化する暇などなかったかのような響きをもっている。…(中略)…彼女は『永い眠りになるでしょうね』とグワラニー語で言ったが、この言葉には手足を伸ばしてくつろいだ感じ、蠅に鼻先をくすぐられながら楽しい夢を見るという至極のどかなイメージが溢れていた。 
(p231)


中略のところは原語(ただしグワラニー語には文字は存在しない為、スペイン語アルファベットに当てはめた表記と思われる)。
言語が世界観に影響すると言ったウォーフではないけれど、グワラニー語の世界では決して近代戦争は起きなかったのかなと、前線間近にいながらもここではグワラニー語のパラレルワールドに入り込んでいると… 
たぶん、この夜が開けたら最後の何かが起こる日になるのだろう。 その時、サルイーの新生がハラに何かをもたらすかも。
(2017 02/13)

「汝、人の子よ」読み終えと引用2つ

 仮借のないさまざまな出来事の絡み合った茂みを切り開いてゆくこと、その棘で肉体を引き裂きながらも同時に、そうしたものを受け入れることで強くなる遺志の力によって変えてゆくこと以外に。 
(p234)


作品最初の楽器作りと医師の二つの話に象徴される、キリストの荷姿がここで想起される。

 彼らにとって生に対する渇きがいわば砂漠の中の磁石の針の役割を果たしている。そして人の心こそあらゆる砂漠の中で最も神秘的で乾燥した限りない砂漠なのだ。 
(p261)


最後に登場する「戦争の英雄」のビジャルバ軍曹のなれの果て、これもかなり印象的なところ。いつしか戦争が心の中心に居座りそれを執拗に追い求めるようになった。この人物にとっては、戦争が上記引用文の磁石にあたる。
ただ全ての人がそういった磁石を持ち合わせているだろうか。例えば、この語り手。彼はそうしたものを見失った結果として、最後に上の軍曹の息子が暴発した弾丸に当たって命を落とした… 

補足:作品構成と主題の交差 前に面と枝という例えしたと思うけど、読み終わって振り返れば、最初に全体の象徴主題を掲げ系譜をたどり、続いて(重複しつつ)ハラとベラという二人の主題を引きずる物語の系譜をたどり、作品後半でチャコ戦争を背景に次第に交差していく二人の主題をじっくり追う、そんな感じかな。

あとはロア=バストスの自画像に近いとされるベラ中尉とその結末には、国を追われブエノスアイレスに亡命していた作者自身の感情が流れ込んでいる。 …ということで、実は今年2017年はロア=バストス生誕100年でもあったのだ… (さっき気づいたのだけど…) 
(2017 02/14) 

ちなみに2005年4月に亡くなってます。 
(2017 02/15)

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