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「ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観」 ダニエル・L・エヴェレット

屋代通子 訳  みすず書房

ピダハンの言語の謎


今日からはピダハンを。アマゾンの数百人しかいない民族ピダハン。その言語を習得し、伝道するのが目的…だったはずが…という報告。今のところ、ピダハンの言語には挨拶的表現がない(言葉より行動)というのが気になる。言葉の成り立ちもまず挨拶から…ってなんとなく思っていたが…
(2012 09/28)

マラリアといさかいと親族性交渉


昨夜から今朝読んだところの「ピダハン」は、妻と娘のマラリアとピダハンに殺されそうになった話。どっちも命に関わる事件で、言語の研究も大変だなあ、と思う次第。ただピダハン達の一見冷淡な行動も、著者は後で見解の修正を行っていますが…
(2012 10/02)

「ピダハン」を少しだけ。ピダハン語には親族関係を示す言葉があまりないそう。そして同胞かそうでないかに気を使う。著者は親族関係の語の少なさは親族性交渉の禁忌の少なさを意味するのだと考えています。総勢でも300人くらいのピダハンが外部を自分達から遠ざけ、その内部が全部同胞ということは…
そういう関係らしい。
(2012 10/04)

ピダハン語にないもの


ピダハン語にないもの。数、色、「すべての」「それぞれの」。色などは「血」とか他の語句を組み合わせているという。「すべての」という語がないことを合わせると、演繹という働きがないのか。
(2012 10/09)

直接体験


「ピダハン」の自然と直接体験の章を読み終えた。どうやらピダハン達は一度自分の視界から出ると、また同じものが視界に入って来ても違うものだという傾向があるみたい。対象物より自分の視界重視。こういう世界観というか認知傾向の中では個人の統一性など消え失せてしまいそう。この人々と現代人の間に、マコンドの入れ替わり名前みたいな状況があるのかな。またこの人達に錯視の実験やったら人間の錯視とは違う見え方したりして(マッチの炎の見方などから、そういうことを想像したりしてしまうけど)…
あと、精霊のショー?のところはやはり「密林の語り部」思い出したりする。
(2012 10/10)

カボクロとの関係


「ピダハン」は、他の先住民との抗争の章(ピダハンの生き方を称揚している箇所が多いこの本の中では例外箇所)に続いてカボクロの章に入る。カボクロとは、ポルトガル語を話す先住民族のこと。もっとも彼ら自身は、ピダハンのような人々をカボクロと呼ぶらしい。カボクロとピダハンとの関係は?
(2012 10/11)

ピダハン語


「ピダハン」はいよいよ著者の専門である言語についての部に入る。言語のチャネル…ある特定の場合に用いられる通常口語とは異なる音声的伝達手段…とでも言えばいいのか。まあ、思いつくのを挙げてみるとホーミーとかトーキングドラムとか、そういうもの。これがピダハンには5つ(通常語りも含め)あるという。こういうのって、文明化?されるといわゆる「芸能」ってのに残存することになるのか。

その後、ピダハン語の録音研究の話を経て、いよいよ言語の起源?へ…著者はチョムスキー(なんと研究室が向かいだったという)の理論にピダハン語は合わないのではないか、と考えているみたい…帰納と演繹か…核心に迫り始めたところ…
(2012 10/13)

リカージョンと言語


昨夜、「ピダハン」の言語の第二部を読み終えた。最大のポイントは、ピダハン語にはリカージョン(入れ子構造)がない、ということ。「ダンが買ってきた釣り針を持って来てくれ」という言い方ができない。「釣り針を持って来てくれ。ダンが買ってきた釣り針だ。同じものだ」という言い方になる。この文を入れ子にする働きは、チョムスキーによって生成文法の基礎とされ、この働きがない言語はない…はずだったけど…

著者はピダハン語に入れ子構造がない(他、別の特徴も)のは、ピダハンの文化が直接体験(伝聞)したものしか許容しない要請をしているからだ、という。しかし、これは彼らに抽象化の能力がないわけではなくて、それを言語に入れない、ということらしい(数もそう。彼らも指を折って数えるがその言葉がないだけという)。
そういえば、「密林の語り部」の語りは直接体験(伝聞)の形式だったような気がするけど、言い伝えのような過去のことも言ってたような気もする。

「ピダハン」読了


最後に一つ思うのは、著者の信仰・伝道が真面目で熱心だったからこそ、結果的に無信仰にまでなって家族まで失うことになったんだろうなあ…ということ。神の概念がないということと、恐れの概念がないということは、果たして等価なのだろうか。
(2012 10/15)

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