見出し画像

「石の葬式」 パノス・カルネジス

岩本正恵 訳  白水社
(作品名は途中まで、作者名に至っては最後まで間違って書いていますが、読んでいるときのライブ感をそのままお届けしています。ご容赦ください(上記記事タイトルは合っています)。

石の葬列

何読むか5%くらい?悩んで、「石の葬列」にした。現代ギリシャの幻想的な連作短編集。その中でもやや長めのものと、掌編くらいのものが交互(くらい)に現れる。今のところは最初の短編(この本の話題では、さっき言ったやや長めのものを指すことにする)の標題作。意外なことに?のっけから大事件である地震が起こる…
(2012 07/06)

ギリシャの村の国勢調査

「石の葬列」はあんまり進んでない(10ページ)けど、急展開して悪魔的?展開に。妻が双子の娘を産んだ時に死んだのを恨んで、ニキフォロという男はその娘達を地下室に閉じ込め言葉も教えず最低限の生活しかさせなかった。村人がくれば曲芸みたいなことをさせる…ということで、村の中でこれを知らなかったのは神父と医者と公安局の人間のみ…探偵を気取っていた?神父はどんな気分?

娘と親の関係も胎内にいる間はかなりの生存競争関係におかれている、という話を思い出して興味深いけど、外部の人間がやってきて、それが国勢調査官で、いきなり挨拶で「今日は人間と悪魔を数える日です」とのたまうのも楽しい場面。さっきの娘の曲芸を楽しんでいる村人(現代日本ではすぐに警察沙汰だろう)もそうだけど、この国勢調査官もなんだか…ギリシャの村って、第二次世界大戦後もこんな感じだったのかなあ…
(2012 07/10)

結局、何を解放したのか…

「石の葬列」(冒頭の短編の方)を読み終え。筋的には、それこそギリシャ悲劇から続く古典的な復讐劇に、含蓄の含んだ言葉、エスプリ(フランスじゃないけど、ユーモアというよりこっち)を含んだ言葉…が絡み合った、映画にでもしてみたい短編だが…

復讐の終わったあと(そもそも娘達はニキフォロの最後を知っていたのか?という疑問も残る…小鳥商人の弔いは書いてあるけど…)、娘達は小鳥商人の飼っていた鳥を鳥籠から解放する。わかりやすい意味としては、自分達がニキフォロから決定的に解放された、というところなんだろうけど、どだろうか、娘達が解放したのはほんとは自分達の「人間的な」感情ではなかったか。へびに噛まれた時に知った、とされている。

それでは、この短編は復讐感情を批判する為に書かれたのか、といえば、そうとも限らない…

 芸術家はみんなそうだけど、鳥もかごのなかのほうがよく歌うんだ
(p47)

カフカも思い出してしまうが…それはともかく…人間的感情というものの二面性というか多面性をあぶり出しているのだろう…だからこその「古典的」悲劇性なわけで…
(2012 07/11)

あら、続きがあったのね…

(この日記は、昨日の日記と並行して服用してください(笑))「石の葬列」ですが、ちょこっと続きがあったみたい。そいえばニキフォロは生きていて、枠物語の枠で神父に話していたんだっけ…それもニキフォロの病は抗生物質で治りかけているらしい。まさに昨日言った古典的な筋から言えば、神父の言う通り「科学は神の邪魔をする」わけだが、そのニキフォロから煙草をもらった神父は?

そして、そもそも第二部の語り手は誰だったのか…ニキフォロ自身は娘達がジャッカルに食い殺されたという小鳥商人の女の言葉を信じているみたいだし…
(2012 07/12)

ペガサス号

ペガサス号は「石の葬列」の掌編。田舎の村々を結ぶバスの車掌と運転手コンビ。バスの話は前の短編にちょこっとだけ出てきたので、緩やかにつながる短編集ということになるのかな。
(2012 07/13)

あなたの来世はハエ

昨夜から今朝にかけて「石の葬列」から3編。昨夜読んだのは往年の競争馬を巡る話。いろんな要素が分解されてぐるぐる回りする、そういう話。

今朝の2編はどちらも死を巡る話(だよね)。さっき述べた競争馬自身もそうだけど、この短編集には死がありふれたように転がっているみたいだなあ、まあ本来的にはそうなんだけども…

そんな中面白かったのが、標題に挙げた「人間の来世はハエ」という説。ハエは今まで死んできた人間の数くらいたくさんいて、死体の周りや家の中をぐるぐる回るから、だとか…そして、さらに付け加えることには、「来世では、自分のまいた種を刈り取るのだよ」(p92)

これも聖書の言葉だよね。そか、ハエになるのか…
(2012 07/17)

ハエとクモ

「石の葬列」は「野獣の日」。どうしようもないくらい、陰惨な地主に陰惨な復讐劇。こういうのも日常的(毎日起こるわけではないけど、人々が納得するくらいには)なものななのかな。それより気になったのは、どの登場人物が言ったか(或いは地の文か)は忘れましたが、ハエにはクモが必要だという表現…昨日の人は死後にハエになる、というのと合わせると…
(2012 07/18)

衣装と夢

「石の葬列」から今日はケンタウロスの話とステラの夢の話。この辺から、前までの古典劇か神話を思い出させるような村の現実を描いたものから、場所は村であるものの幻想的な明らかに現実離れした感のある話になっていく。もっとも、作者の中ではどっちも同じなのかも。

ケンタウロスの話は古代ギリシャ神話の神々もしくは怪物が、ジプシー(作中の表現)のサーカス団の見せ物になっているというもの。ここでキーになると思われるのが衣装という表現。衣装を着る着ないで神話と現実に入れ換わる?

この話のラストでケンタウロスがハエを潰してから(くどい?)、次の話になる。今までの登場人物もちらほら出てくる。どこまでが夢なのかわからなくてもどうでもよくなる心地よい印象。でもここでも科学とか出てくるし…人間のやること考えることなんて、今も昔もごたまぜにしても変わらないさ…っていう、作者の思いかも。
(2012 07/19)

葬列じゃなくて・・・

すみません。今さっき「石の葬列」ではなくて「石の葬式」であることに気づきました。今までのことはなかったことに(昔教科書で習った「夏の葬列」のタイトルがこびりついてしまった為かも)・・・

さて、そんな「石の葬列」改め「石の葬式」から今日は3編。「消えたカッサンドラ」「汝、癒えんことを願うか」「医者の倫理」。最初のは前に読んだケンタウロスと同じくサーカスもの? 村の外部にいて幻想的な埃をまくという点でも、短編小説集の構造的にも、外縁的な位置づけの作品。後の2つは村の主役級?である神父と医者の話。思わず「?」をつけてしまったくらい主役っぽくない主役だが・・・どちらかというと後者の話の方が好きかも。なんかさらりと言ってるけど衝撃的なオチ。前者もなかなかユーモアあって楽しいのだが、車椅子の老人を立たせるという大仕掛けをするんならちょっと素直すぎるのかも、とも思ったり。でも、それもまた味?

えっと、この辺で、作者の名前も言ってなかったことに気づく。パノス・カルジネス。1967年生まれ。ギリシャで生れて、1992年に工学を勉強する為にイギリスへ留学。鉄鋼関連の仕事に着くも、後に創作科に進み、2002年にこの作品でデビュー。と解説にはある。この作品は英語で書かれている。それと、工学やってたというのが、なんとなくこの作品の醸し出す雰囲気に一味加えているかも。さっきのさらりとした味とかはそういう一例?
(2012 07/22)

想像力の欠如

「石の葬式」は写真家来訪の話とオウムにホメロスを教える話。後者の最後の方に、登場人物の想像力の欠如の為に、両腕が部屋の壁につきそうになり、天井が頭につきそうになった…という表現があった。なんか今の自分のことをいわれているような気もするが…
(2012 07/23)

いろんな人物・事柄再登場の編

「石の葬式」は「収穫の神の罪」。の、前半部分。この短編は冒頭の「石の葬式」と同じくらい(この短編集では)長めのもので、標題に書いた通りに今までの登場人物や出来事の名残があちらこちらに出てくるのも楽しい。ストーリーはどこかマルケスの「予告された殺人の記録」思い出させるような感じ。時期は村の収穫の祭礼なのだが、この年は干魃であったり、村自体が今年で吸収合併されたり、政府からの年次計画は5年前から全く同じだったり(どこかの会社の企画書みたいに…ただこれを言いたい為にここまで伸ばしてたりして(笑))…そんな背景、で(後半部分に続く)…
(2012 07/24)

二重映しの感覚

「石の葬式」は「収穫の神の罪」(の後半)と「いけにえ」。「収穫の神の罪」では主人公(なの?)の村長の言葉(や思ったこと?)にひかれた。祭礼に集まった村民をみて船酔いをしている船の船長みたいだと感じたり、肉屋に撃たれた時に「この村は戦場よりひどい、簡単に人が死ぬ」とこの短編集…ひいては神話の(人間社会の?)世界の総括みたいな言葉を言ったり…

で、次の「いけにえ」に移るわけだが、全く違う話(娘を殺してしまった種牛を仕方なく殺す父と子の話)なのに関わらず、父の名前がディオニッシスという名前なこともあって、前の短編とのつながりというかオーバーラップを感じてしまう。

なんか深読み過ぎるかもしれないが、作者は人間社会と神話世界との共通を感じていて、キリスト教はなんか人間社会に貼り付いた些細なエピソードなんだ、と思っているのかも。そう考えると、神父の描き方にもそれは読み取ることができるのではないか、と。
(2012 07/25)

「冬の猟師」と「応用航空学」

々編の雨がそのまま雪になったのか、という背景の中の「冬の猟師」。猟師(なのか?)自身も貧しいみたいだけど、この谷間の村は別格みたい。雪は吹雪から静まり、そして前にオウムにホメロスを教えた男は、やっと晴れた冬の朝、教会の鐘楼から自作の航空装置で飛び立つ…その結末やいかに…
(2012 07/26)

ハエ再登場の巻と「石の葬式」読了

300ページ弱の小説をこんなにかけて、やっと「石の葬式」を読み終えた。「四旬節最初の日」と「アトランティスの伝説」。短編集全体にオチをつける役割の「アトランティスの伝説」はもとより、「老嬢ステラの昼下がりの夢」の後日談でもある「四旬節最初の日」もいろんな人物や伏線が再登場してまとめの短篇という感じがする。

まずは、船長再登場?

 看守長は沈んだ船の漂流物の船長になったような気分だった。
(p265)

ギリシャの小説といってもこの小説の舞台は海から遠く離れた山間の谷間。そこでこんなに海とか船長とか出てくる理由は(じつは最後の短篇で明らかになるのだけれど)、でも、船長は船全体を取り仕切る役なのに、前もここも取り仕切ることのできない情景になっているのはどうしてだろう。この短編集自体もきっとそうに違いないけど全体を一人で統制するのは所詮無理なのだ、という作者の人間観がこういう表現生んだのかも?

続いて、ハエ再々登場?

 どうしてハエは、入ってくるくせに出ていかないのかしら
(p278)

ハエは人の魂(もしくは生まれ変わり)だとすれば、人の情念というか怨念みたいなものがいつまでも消え失せずに留まり、その数は増えるばかり、ということをこのステラのセリフは言わんとしているのか、どうか。

そうした情念・怨念が最初の短篇以来ずっと描かれてきた「悲劇」を規定していて、その情念・怨念が生れ出るところの言及もこの短篇にあったような気がするようなしないような。で、そうした情念・怨念はたとえ「アトランティスの伝説」で村全体がダムの底に沈んだとしても居残り続け、それが英国に渡ったカルジネス(長編小説「迷路」も読んでみたい・・・小アジアの砂漠を彷徨うギリシャ軍部隊の話が現実と幻を織り交ぜて描かれる・・・テイストはこの「石の葬式」とあまり変わらないかも?)にこの短編集を書かせた、ということで、一回りしてまとめ。

ハエ取り紙買ってこようっと・・・

おまけ

この短編集で一番登場回数の(たぶん)多いイェラスィモ神父は、マンゾーニの「いいなづけ」の神父の現代版かも。「四旬節最初の日」では「いいなづけ」と似たような立場に置かれるし。現代になった分、小心者からこすくなった(こすっからしいって言うよね?)けど、でも彼がいないと村は語れない・・・という点では、カトリックとギリシャ正教という違いはあるものの、南欧の小さな村の情景という点では共通項かも。
(2012 07/29)

(著者名カルネジスらしいよ、カルジネスじゃなくて…)

(あと、原題は「ささやかな不道徳」というものらしい。神話的要素をもつこの作品とはなんか違うような気もするが、そこにはカルジネス改めカルネジスの宗教批判の眼差しがある…関係ない? ともかく、この原題では日本の読者には全くピンと来なかったことは確かだろう…
なんか、他に訳されているかな、とも思って調べてみたけど、なかった…)
(2020 07/12)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?