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「ラ・カテドラルでの対話(上)」 マリオ・バルガス=リョサ

旦敬介訳 岩波文庫
以前、「集英社世界の文学」で桑名一博訳があった。古本で購入していたものの、手がなかなかつけられなかった。で、岩波文庫から出たこの新訳。

対話の、始まり


  彼自身もペルーと同じなのだサバリータ、彼もまた、どこかの瞬間でダメになってしまったのだ。
(p15)


…と、この長編は始まる。ここの最初のページ、随分ダメになってるを連呼していて、その後も事あるごとに繰り返すのだが、作者緒言でも書いているように、この小説はマヌエル・アポリナオ・オドリア軍事政権(1948ー1956)の停滞時代を描いているから、まあ通奏低音みたいなものだろう。

  空は曇ったままで、空気はそれ以上になおさら灰色で、いよいよ霧雨まで舞いはじめたー肌に蚊が止まったみたいな、クモの巣が触れたみたいな感覚。いや、そこまですらいかない、もっとはかなく、もっと嫌な感覚。
(p21)


フンボルト海流の影響で南米西海岸はこんな日が多い…のかな。でも、蚊とかクモの巣とか、リョサも巧みだね。

次はp24の最初の段落。この小説のエクリチュール見てみよう。基本的にはここまでは語り手=主人公(一応等号にしといて)のサバラ(サバリータ)が自分に問い掛けるようなちょっと性急さも目立つ語りなのだが、なんかいろいろな次元の語りが特に断りもなく混ざり込んでいる。そんな感じ。このp24では「彼らは何も話さなずに食事をする」とあるのだけど、その後普通に読んでるとなんかいろいろ話してる?ヒントは「ー」の使い方かな。この「ー」に挟まれた部分は別の語りが一つ(前より少し遠くからの視点?)挿入されているのでは。

  まったくもって時間というものは人間を気づかないうちに飲みこんでしまうものなのだった。
(p37)


 

 コップを満たし、自分のコップをつかみ、話をしながら思い出しているのか夢見ているのか考えているのか、あちこちにクレーターができている白い泡の円を見つめる。そのクレーターの口は音もなく開いて、金色の気泡を吐き出しては、彼の手の中で温まっている黄色い液体の中に消えていく。
(p38)


安食堂でビールを飲むサバラと何十年かぶりに会うアンブローシオという先住民と黒人の混血の男。ビールの泡の描写が先の雨のところと並んでゾクゾクする、とともに、なんか彼とアンブローシオとの間にあった何か、それらさまざまな思いがクレーターのように生成し消えていく。前のページの時間論と合わせて、そこに並存していた時間も消えていく…

こうして昨日までに第1章49ページまで読み進めたのだが、この小説、「ラ・カテドラル」という酒場で二人が話し合う対話によって進行する、という前情報しかなかったけど、そこまで至るのがなかなか。
新聞記者のサバラは家に帰ると妻から愛犬を無理やり黒人2人組が連れ去ってしまったと訴える。野犬保管所に行き、愛犬見つけると、そういう街から野犬を連れて行く係の男と会う、それがさっき出てきたアンブローシオで、サバラと彼の父親との何か確執に何らかの関与をしているみたい。随分話していたみたいだけど、その内容には全く触れないで、最後は半分喧嘩別れになってしまう…このままでは対話小説にならないので、次の展開を期待…

(補足その1、最後まで読んだのだけれど、時間がかなり遅くなった(そりゃそうだ1100ページ以上も語っている(違う対話や回想も含んでいるけどね)以外には、特に喧嘩別れする要素はなかったけどなあ、それともここには最大の謎が絡んでいて、そこにサンティアーゴが触れたためなのかな→それについては下巻の最後を見てね。
(2020 03/18 補足終わり))

何の根拠もなく「ラ・カテドラル」ってまあまあの高い酒場だと思っていたのが崩れるし、読者への情報提示管理が絶妙だし。これも引き込まれますね。
(2020  01/03)

自由間接話法


下巻の解説読むと、第2章冒頭の「自由間接話法」の詳しい説明が載っている。この「自由間接話法」とはフロベールの「ボヴァリー夫人」で使い始め、ウルフらを経て、この小説ではかなり多用されている。「」付きの直接話法ではなく、地の文にはめ込まれているけれど、言った言葉が割と残存しているのが特徴。

  -ちょっと来てごらんソバカス、少し彼ら二人で話をしようではないか。二人は仕事部屋に閉じこもり、上院議員が、彼はずっと建築を学びたかったのだろうか?  そうなんだよお父さん、もちろんずっと学びたかったのだ。
(p50)


ここでソバカスと上院議員は息子と父親。最初のソバカスと呼びかけているところ、それからお父さんと呼びかけているところは「」はなくとも直接話法。でも「少し彼ら二人で…」の文は自由間接話法。現実に話されていたのはたぶん「少し私達二人で…」だろう。地の文にするなら「彼ら二人で話をしようと提案した」くらいかな。
次の「彼はずっと」のところもそう。最後の文は時制が「たかったのだ」と上の話し言葉的なのと混ざり合っている。

人称にしても時制にしても、今までの翻訳だと、日本語ではここに挙げたように結構違和感あるので、意訳していたことが多かった。でもこの翻訳では、訳者旦氏の決断により、この小説の構造と効果の根本であるこの自由間接話法を解消する方向にはしないこととなった。フロベールの小説を読んだ時に当時の読者が新しい技法に出会ってとまどった感触を味わってほしい。という方向。味わってみれば、新鮮で視線が激しく入れ替わり面白く読めるのだった…

あとp59とp84ー85のアンブローシオ(p84はサバラ)の言葉は、何気なく挿入してあるけど、前の第1章、要するに「ラ・カテドラル」酒場での外枠の語りが紛れこんでいる。ただp60のアンブローシオの言葉はチスパス(サバラの兄)への言葉だから、これはまた違う時点の会話。

…と、なかなか複雑なのだが、話自体は前読んだリョサの「子犬たち」みたいな馬鹿馬鹿しい青春性体験物語。この落差がまた魅力。
(2020  01/04)

第3、4章


第3章はオドリア政権支配者側の二人(この二人とアンブローシオは昔チンチャ(太平洋側の町)で仲間だったという。ここも(というかずっと?)、第1章外側のラ・カテドラル対話がところどころに埋もれているのだが、その「坊ちゃん」という呼びかけとは別に、もっと大きな割合を占める外側の語り「旦那」というのはどこの誰との会話だろう。アンブローシオが語っていて、相手はドン・フェルミン(サバラの父親)?

(補足その2、下巻にある第4部後半で、アンブローシオとケタが対話しているのだが、そこでアンブローシオはドン・フェルミンに迫られることの繰り返しの中で、たまには?それなしで話だけする、アンブローシオにも話させることがあった、とケタに語っている。たぶんその時の語りなのだろう、ここは
(2020 03/18 補足終わり))

第4章は、またサンティアーゴの青年時代、わざと?庶民が通う学校に行ってコミュニスト仲間に入る。第3章の父親に反抗して「乳搾りの娘」と結婚したドン・カヨもそうだったけど、この反抗はこの小説の大きな主題であることは確かだろう。

  要するに人間誰しも、自分の置かれた境遇に満足できないわけですね
(p156)


(2020  01/07)

「すると」


昨日は第5章。昔アンブローシオと「何か」あったアマーリアと「思い込みのアプラ党主義者」トリニダーとの悲恋物語。この章入って、エクリチュールのダイナミズムは増し、一段落、一文ずつ視点が変わっていく。

  …でもそのうち許してくれるわよ、と彼女を慰め、またあんたのことを求めて来るわよ、すると彼女は、あんなのもう大嫌い、死んでも仲直りなんかしないから、するとアンブローシオは、じきに彼らは喧嘩別れしたのだった、坊ちゃん、アマーリアは勝手に出ていって、その辺でまた男を作ったんです、するとサンティアーゴは、ああそうだ、アプラ党員だよね、するとアンブローシオは、それからだいぶ後になって、まったく偶然に二人は再会したのだった。その日の午後、リモンシーヨの家に帰ると、叔母は彼女のことを、ふしだら、非常識と呼び…
(p166ー167)


ここに引用した部分の最初と最後は、さっき書いたアマーリアとトリニダーの話なんだけど、「すると」の畳み掛けのうち、2番目の「すると」からは、酒場でのアンブローシオとサンティアーゴとの対話が表筋に出てきている。まあ、こういう外枠組みによる表筋の中断自体はままあるけど、一文の途中で入れ替わり、自由間接話法も織り交ぜられると、どちら側の臨場感も増す。それにじっくり読まないとどの時点の話なのかわからなくなってきて、上の文でも「まったく偶然に二人は再会したのだった」というのは、アマーリアともう一人が、アンブローシオなのかトリニダーなのかここだけだとはっきりしない…(通常読みだとトリニダーなんだけど、まだここまでの段階では、アマーリアとアンブローシオの間に何が起こったのか開示されてないから、アンブローシオなのかも)

表筋では、もうトリニダーが病気で寝込んで嘔吐を繰り返すようになってから、前よりアマーリアのトリニダーに対する愛情が強くなった、というのが、ちょっと不思議で印象的。あと、トリニダーと妊娠してた子供の二人を相次いで亡くして(後者は死産)から、ゆっくり立ち直り始め、町の世話役みたいなおじさんの部屋で話をし始めるとかいうあたりも。
(2020  01/26)

自分の中の虫

第6章はサンティアーゴのサン・マルコス大学生活続き。マルクス主義活動にのめり込んでいくサンティアーゴだけど、同時にそれに浸り切れない自分を見ている。

 その二年目だったんじゃないだろうかサバリータ、マルクス主義は学ぶだけじゃダメで、信じる必要があるんだと気づいたときだったんじゃないだろうか? たぶんおまえは、信じることができなかったせいでダメになったんだサバリータ。神様を信じることができなかったせいですか坊ちゃん? 何も信じることができなかったということなんだアンブローシオ。
(p204)


この章の、また小説冒頭にも出てくる「サバリータ」という問いかけ、そして小説冒頭につながる「ダメになった」という認識だけど、ここの「たぶんおまえは・・・」の文だけはひょっとしたらサンティアーゴではなく父親のドン・フェルミンの言葉なのかもしれない。このちょっと後には明らかにドン・フェルミンの語りが挿入されているし。
(2020 01/30)

  しゃべっているのは別の人だったな、と彼は考える、おまえじゃなかった。前よりも少ししっかりした声、より自然な声だったなサバリーター彼ではなかった、彼ではありえなかった。中立的な高みから、理解し、説明し、アドバイスしていて、これは僕じゃないと彼は考えていた。彼は何かもっと小さな、いじけたもの、その声の下で小さく縮こまっているものであって、その場を抜け出して走って逃げ去ろうとしているのだった。
(p221)


この文章の前の数ページに渡って、彼の中の小さな虫という表現が数回現れて、このアイーダのハコーボからの告白を告げる言葉を聴いているシーンでまた現れる。
ここの文章は、人称代名詞がころころ変わって畳み掛けているのだけれど、結局語っているのは、いつの時点の語りかは混在しているが、サンティアーゴ一人。めまぐるしさがリズムからも伝わるような。

それから、このページの最後の行の「当然だ」というドン・フェルミンの言葉、それから次のp222のアンブローシオの「見捨てるんですね」という言葉は、どの文脈から来ているのだろうか。逃げ去ろうという辺りからの連想で挿入されているようだけど。
(2020  02/01)

父と子


第7章。移行的な章なのか。断片が行ごとに入れ替わり立ち替わり、どこの話なのか手探りで読み進める。でもおぼろげにわかってくる。中心の筋はトリフルシオという男が刑務所を出所して、チンチャに働き口を紹介されて向かう。そこには、彼の妻であったトマサとその間の息子アンブローシオ(そう、このトリフルシオというのはアンブローシオの父親なんだ)に会う。アンブローシオはちょうど仕事探しに首都に向けて出発するところで、2リブラお金を父にあげたあと、リマに出て第3章にあったようなつながりで、今は政府内部に入りこんでいるドン・カヨの運転手になる…というもの。
(2020  02/03)

第8章

  この国じゃ、ダメにならなかった人間は、他の人間をダメにする側にまわる。だから僕は全然後悔してないんだよアンブローシオ
(p289)


  その点でも、オレとおまえはちがっている。若いころにこの身に起こったことなんか、オレの中からはもう消えてなくなっていて、オレにとって一番重要なことはこれから起こるんだ、とオレは確信している。おまえさんの場合、まるで十八歳のときにもう生きるのをやめてしまったみたいだ
(p299)


これはカルリートスがサンティアーゴに話している言葉…なんだけど、カルトーリスってどんな人物だっけ?

第9章
「ラ・カテドラルでの対話」は大統領選の前と後の交互進行に、前の章にあったトリニダーへの拷問と外枠対話等が絡む章。なんかドン・フェルミンが誰かの泣いてるのを聞いているのはどういう話なのか、まだよくわかっていない…
(2020  02/08)

第1部ラスト、第10章
ここは物語が割とストレートに進む。これまでの筋がなだれ込む。そのメインはサンティアーゴとその仲間の逮捕と(サンティアーゴのみの)釈放。もちろん、父親ドン・フェルミンの仲介で(そこで父親の隣にいるドン・カヨの姿をサンティアーゴは初めて見る)、なのだが、「陰謀企だてる時にはもう少し利口にやれ」などとドン・フェルミンは言う。随分余裕あるというか寛大な父親の言葉だな、と思っていたら、「家の電話が盗聴されていたのはサンティアーゴの一件の為ではなかった」という。その夜に父親の部屋に入ったサンティアーゴはドン・フェルミン自身がオドリアとドン・カヨを陰謀で遠ざけようとしていたことを話す。この一件でそれが立ち消えになったことも。
ここで、父と子は和解したように思えるのだが、これまでの章で切れ切れに語られてきたことから見て、その和解が続かなかったという展開になるのだろう。
とにかく、この380ページくらいまでで、全体の1/4…
(2020  02/09)

アマーリア、ドン・カヨ、サンティアーゴ…


「ラ・カテドラルでの対話」第2部第1章。4部ある部ごとに手法を変えている、とあったけど、第2部入ったらこれまでの細切れ挿入の重なり合いとは違い、3人の視点が、上でタイトルに挙げた順番で交代で語る。アマーリアが働く家の女主人オルテンシア(カヨの愛人)の入浴しているときろに立ち会う場面は、「継母礼賛」をちょっと思い出させる。肉体の感覚を大事にする作家でもある。
(2020  02/12)

  しかし、結局行くことはなかったんだよサバリータ、で今ここでこうして、まるで妊婦みたいに腹がよじれて、じたばたしてるってわけだ。沈没して《ラ・クロニカ》にたどり着く前、おまえは何になろうとしてたんだい?
(p442)


第2部、2、3章。上の視点にドン・カヨの運転手兼下働きになったアンブローシオの視点も加わる。
オルテンシアとセニョリータ・ケタはどうやら同性愛関係でもあるらしく、そこにアマーリアをも引き込もうとする。
ドン・カヨの筋では新聞の責任者に脅しをかけていて、解雇させると約束させていた記者というのが、サンティアーゴなのかカルリートスなのか、とその次のサンティアーゴの筋に緊迫しながら読んでいくと、それはカルトーリスの前歴だったことが判明する。この4つの筋は同時進行ではなく、斜めに歪んでいるわけだ。アンブローシオのは、他のドン・カヨの手下ともに言うこと聞かない人を殴ってる…なかなか登場人物も一筋縄ではいかない。
で、前に「カルトーリスって誰?」って書いたけど、ここでいろいろわかってくる。この小説はサンティアーゴとアンブローシオの外枠の対話がある(この第2部では忘れかけた頃に時々挟まれる)のだが、その内側の対話として、《ラ・クロニカ》の記者仲間のこの二人の対話が機能している。詩を書いていたというカルトーリスは、この対話の現在、詩はやめて、パリにも行くことはなく、アル中と麻薬中毒で沈んで行く。この小説内で強烈に印象的な場面になりそうだ。
(2020  02/16)

対話と反転とねじれ


アンブローシオがオルテンシアのところにいるアマーリアに逢いに来た場面から。

  彼は叱責される危険を冒してわざわざ会いに来ているのだが、おまえはそういう態度をとるのかいアマーリア。昔あったことはもう終わったことでありアマーリア、もう消え去ったことなんだ。最近知りあったばかりなんだって思ってくれればいいのにアマーリア。
「同じことをまたあたしにするつもりなの?」とアマーリアは、自分が震えながら言っているのを聞いた。「そうはいかないわよ」
(p494)


この章が始まってからずっとアマーリアの視点で描かれてきて、「彼は…」という文もアマーリア側からの文だと思って「おまえは…」というところもアマーリアの内面独白なのかと思っていると、次々現われる「…アマーリア」のリフレインはアンブローシオの言葉が地の文で現れている…から、何処から反転したの。果たして「おまえは…」の箇所はどっち?それとも双方に被っている?
続いての「」付きのアマーリアの言葉では、自分が言っているのを聞いた、と他人行儀な文になっているのが効果的。恐らく、さっきの「おまえは…」と同じで、アンブローシオを断っているアマーリアを認めない別のアマーリアがいるのだろう。

  「君の親父さんには、凡庸さに対する恐怖感があるんだよ」とクロドミーロ伯父さんは笑った。「僕と頻繁につきあっていると、伝染病がうつると考えているんだろう。…
(p511)


また別の対話相手、クロドミーロ伯父さん(たぶんソイラ夫人の兄だと)。自分も含めて実際に凡庸かそうではないかは別として、そういう凡庸恐怖感というのは誰にでもあるのではないかと思える。

  というのも、ときどき、僕も考えてみるんだが、僕には重要な出来事の思い出というのがひとつもないんだ。
(p511)


読んでいる自分自身にも当てはまっている気がするのだが…あれ、これに似たようなこと誰かが言ってませんでしたっけ。p299のカルトーリスの言葉かな。でも、サンティアーゴとカルトーリスとクロドミーロって、微妙にそれぞれ違っているようで。この辺は(も)後の展開に期待、要深読みポイント。

ちなみにこの第5章での並行筋のうち、ドン・フェルミンとドン・カヨの筋は他の筋より時間的にかなり前の筋のもよう。このねじれ感覚が快感になれば、この小説の流れにはまったといえるのだろう。
(2020  02/19)

毛穴の噴火口


  全身の毛穴が燃えあがるのを感じるのだ、肌の幾百万という極小の噴火口がじくじくと膿を吐き出しはじめるのを感じるのだ。
(p572)


相変わらずこういう肉感的な表現巧いんだけど、ここの節にはドン・カヨの公生活と私生活が裏表立ち替わり織り込まれている。読んでいてここもスリリング。他の節ではアマーリアとアンブローシオの結びつきとか、サンティアーゴの下宿を訪れた兄チスパスとか、それぞれに展開する、その背景にアレキパで起こった革命騒ぎが焦燥感を煽る。
(2020  02/25)

  彼はため息をつき、オルテンシアをどけて、立ち上がると、彼女らを見ることなしに階段をのぼった。突然実体をもった幽霊が、背後から飛びかかって、人を突き倒すのだ
(p614)


この文章こそ「突然」現われる。いきなり挿入されるここはドン・カヨの追放を暗示しているようにも思えるが、それ以外にもあるような。

  女たちは口をきかなければいいのに、と彼は考え、決意をこめて鋏を握りしめ、静かな一切りで、チョキンと、二つの舌が床に落ちるのが見えた。彼の足下に、ぴくぴくともだえる二つの赤くて薄べったい小動物が転がって、絨毯を汚していた。
(p620)


オルテンシアとケタの同性愛はこの作品のテーマの一つなのだが、最初は気づかれないように、しかし第2部の終わりのこの辺りまでくるとかなり大胆に中心に居座ってくる。で、第2部はいろいろな時点のいろいろな視点が並行して始まったのだが、最後はドン・カヨの追放・ブラジルへの逃亡(オルテンシアにも前もって知らせることはなかった)に焦点を合わせてくる。
(2020  02/26)

作者・著者ページ


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