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「ブダペストの世紀末 都市と文化の歴史的肖像」 ジョン・ルカーチ

早稲田みか 訳  白水社

古書ほうろうで購入(購入したこの年、新装版が出版、自分が購入したのは前の版)
(2011 12/17)

ブタペストの位置付け


第1章読み終え。この本のコンセプトは1900年を境に前5年後5年(1895−1905)のブダペストの都市文化を見ていこうとするもの。ブダペストはこの時代、保守的な村が大きくなっただけみたいなブダペストから、いわばアメリカ的な経済繁栄と即物的な文化の都市ブダペストに変貌していた、という。

「ウィーンは神経症的とするならば、ブダペストは精神病的であった」

その理由の一つとしてハンガリー人の精神とハンガリー語の明示性(ドイツの「深いところから現れるものに支配される」という考え方からは遠かった)が挙げられている。フロイトはブダペストが嫌いだった? ブダペストはウィーンからは何も習わなかった? 

それから紹介されているクルーディーという作家、ハンガリー国外にはほとんど紹介されていないというけど、なかなか面白い作家だと思う。実際の女性と、女性化した都市とをだぶらせて表現するなどの手法はなかなか面白かった。
(2012 01/07)

ヨーロッパで一番アメリカに近いブタペスト…


覚え書きのようなもの2つ。

ニューヨークとかロンドンとかいう数少ない大都市を除いて、19世紀末という時期には街の大通りを群衆が歩くことはイベントでもない限りめったになかったという。オルテガの「大衆の反逆」の冒頭からも引いている。人々は一日中自宅にいた。商店などの職場も居住スペースに隣接していたし、引っ越しなどの移動もほとんどなかった、という。

あと、この本の中で「この頃のブダペストはアメリカの街に似ていた」というのが、割りと言われているのだが、でも厳しい建築基準によって高い建物はほとんど建てられなかった。その為、ブダの丘などから見ると「家の海」のごとくに見えた、という。
そんな中、この世紀末端境期には、ハンガリーには珍しく巨大建築の潮流と楽観主義が現れた、のだそうだ。
でも、この頃にはまだ田舎街由来の雰囲気がぷんぷんしてた、ともこの本では強調している。そういった雰囲気は今のブダペストにも残っているのであろうか。この本片手にぶらぶら歩いてみたい。
(2012 01/15)

ハンガリーとジョイス


最近、週末になるとかじり読みしている「ブダペストの世紀末」。今日は第2章の最後と第3章の最初。
今、この本でテーマとしている1900年前後5年計10年という時期は、ハンガリー史でいうと、1867年のオーストリア=ハンガリー二重帝国成立の「妥協」(正式な独立ではないものの、ほとんどの自治を獲得したからそう呼ぶ)から、第一次世界大戦の敗北までの急成長や人口増加と、この期間の社会の歪みが半分くらいたってから徐々に現れてきた、それが並行していた時期。ただ、急成長の「歴史」が独走して歪みの「歴史」には気づいていなかった、そういう時期。
そういう時期、をある種のノスタルジーと、ある種の批判をもって描いているのがユリシーズであり失われた時を求めてであり魔の山で…

なんて、思いながら巻末の注見てたら、もっと先のところの注にジョイスとハンガリー文学との関わりの注があった…ああ、そうそう、ユリシーズの主人公?ブルームはハンガリー系ユダヤ人だった。ジョイスはトリエステで語学教師している時にハンガリー文学と接したらしい。トリエステは当時ハンガリー帝国内。そこでハンガリーの詩人アディ(だったかな?)を知ったり、ハンガリー語特有の膠着語(詳しく聞かないように(笑))からユリシーズの重層的語りが出てきたり、フィネガンズ・ウェイクの方にも影響あるという…そういう方向からハンガリー人研究者が研究した論文があって、翻訳も出ているみたい…読んでみたい。
それからトリエステという都市も面白そうである。ハンガリーからもイタリアからもバルカンからも…ちょうどその接点…ズヴェヴォもいるし…
(2012 01/29)

ハンガリーにおけるブルジョア階級と中小貴族階級


今朝読んだところはブダペストの階級構成のところ。タイトルには一般的な表現にしたが、なんか独自な呼称がいろいろある。自分的なポイントの一つは、ハンガリー人には商業とか職人とかを低く見るという伝統がある、というもの。そこにユダヤ人やドイツ人との違いなどが入ってくる。そういう新興ブルジョアと零細的な貴族(変な言葉だけどそういう人々が15世紀頃からいたらしい)が併存していた…というのが、この本の時期、1900年の状況らしい。

今、「併存」と書いたが、ここが自分的なポイントのもう一つで、この二つのなんだか反目もしそうな階級が割とお互いの生活様式を取り入れながらやっていた、というのが面白かった。ハンガリーでは(ポーランドでも?)ユダヤ人に対する反感は英仏独に比べて少なかった、好意的な感情もあったという。
(2012 01/31)

ハンガリーの立ち位置


「ハンガリーの世紀末」の第3、4章。オーストリア=ハンガリー帝国の関係と、イギリスとアイルランドの関係は政治的にはよく似ている、とルカーチ氏。なるなる…どっちもこの時期に古い自由主義思想が終焉を迎え、ナショナリズム独立運動が出始める時期。それを考えに入れながら、この間書いたジョイスとハンガリーの関係を突っ込んでみるとまた世界(世界の??)が広がりそう。

一方、当時のハンガリー国内を見ると、少なくとも11の少数民族が。自分達はオーストリアといろいろ交渉や反乱等していたのに?、ハンガリー国内のこういった少数民族には抑圧的。このうちクロアチアでは、その地域に(港町フィウメ以外)あまりハンガリー人が住んでいなかったので、(オーストリアとハンガリーの関係よりずっと限定的ながら)自治を認めていた。でも、クロアチアでもハンガリーに対し南のセルビアと協調して反旗をひるがえし始める。他の民族も隣国との関係を見ながらハンガリーに反乱を起こし始める。
そもそも、地理的にはまあある程度まとまっているこの当時のハンガリー領内において、いろんな民族が住んでいるのは、ハンガリー人の人口増加率が周りに比べて低く、またオスマン帝国の侵攻などもあって、外部からいろいろな人々を移住させたから、らしい。
(2012 02/01)

1900年頃の政治状況から見るハンガリー


「ブダペストの世紀末」第4章の最後まで。ここはブダペストというよりハンガリー全体の話が多い。
一番の基調にあるのは、この時期における19世紀的自由主義思想の衰退。要するにこの時期に民族主義と農業保護主義が出てきた、ということ。それはヨーロッパ全体あるいはハンガリー全体でも平均的に起こったのではなく、いろいろな差異があった。例えば、この時期の少し前くらいまで、ハンガリー帝国内で自分の帰属民族を知って(感じて)いない農民等が数十万人くらいはいたらしい。それがこの時期には、ハンガリー人は自由選挙をすれば、「無知」なスロバキア人やルーマニア人等が議会に流れ込んでくると危機感を感じていたし、他の民族側からすれば自分達も同等の権利が欲しい、という状況になる。

後はメモ的になってしまうが、昨日書いたイギリスとの類似性にかけてケインズとハイエク(この二人、性向的には同じような気がするが)の比較と現在の思想や状況との関係、反ユダヤ主義の古いタイプと新しいタイプ、ハンガリー在住のドイツ人に対するハンガリー文化(言葉も含む)教育、などなど、ハンガリー以外とも比較してみたい内容。
(2012 02/02)

1900年世代…


今朝の「ブダペストの世紀末」はいよいよ待望の?1900年世代の章。
まずはこの世代がいきなり登場してきたわけではもちろんなく、彼らへの教育が重要という話。中等教育のギムナジウムの功罪が非常に大きい。ギリシャ・ローマの古典から始まりハンガリー文学まで…こういう内容や様式自体は同じ時代の中央ヨーロッパで共通していたのですが、熱が一番入っていたのがハンガリーだという。その「熱」は民族的な熱。ポーランドやチェコはどうなんだろう、とは思うが…またルカーチ氏はナショナルとナショナリスティックを区別しているのですが…

次には1900年世代の三区分。コスモポリタンを目指す人、ハンガリー国内で民衆の中の隠れた素材を捜す人、それからハンガリー以外ではほとんど知られていない人…ハンガリーが強い(となんとなく思う)理系の分野は一番目、バルトークは二番目、まだ三番目のところまで行ってない…
書き忘れたが、1900年世代というのは、この本では1900年くらいに人格形成をした人達をさす。まあ、大雑把に。
(2012 02/03)

パトリオットとショーヴィニスト


今日の「ブダペストの世紀末」は1900年世代(第5章)から、問題の種(第6章)へ。
1900年世代の中で、文学の仲間?はブダペストに集まってきたけど、画家の仲間はハンガリーの田舎に移り住み、音楽の仲間は民謡収集の旅に出た。都市の大衆文化…映画やオペレッタ…も盛んになる。ここでもアメリカとの共通点が。
で、この表側では活気溢れる時代の裏側では、溝が目につき始めてきた。ブダペストとその他のハンガリー、ユダヤと反ユダヤとの。この少し前には、自由主義と愛国主義が同じように信奉されていた。でももうこの頃には、自由主義に疑いが持たれ、古い愛国主義(パトリオット)は新しい国粋主義(ショーヴィニスト)に変わりつつあった。当時の歴史家はこの現象を、前者は国を守ることに、後者は国を広げることに重点を置く、と説明している。オーストリア=ハンガリー二重帝国を解体し、汎ゲルマン主義・汎ハンガリー主義?となるのが、この流れ。背景には、都市・地方とも生活費のインフレで生活が苦しくなってきたことがある。
百年前の今、状況似ている気もする…
(2012 02/06)

ブダペストのその後とそれから


つい先ほど読み終えた「ブダペストの世紀末」について。
この本、再三再四にわたって「この本は政治史ではない」って書いておきながら?自分にとってはいろいろな政治史の見方を教えてくれた本となった。その辺はこれまで挙げてきたので、ここでは最終章「その後」を。
この本の設定年代は1900年前後5年、計10年なのだが、エピローグ的なこの章では「その後」を。その後と言えば、ハンガリーにとっては二度の敗戦、共産主義政権、ハンガリー動乱、そして東欧革命…とまさに激動であったわけですが、この本をルカーチ氏が書いたのは東欧革命以前(アメリカで)なので、当然東欧革命の話などは出てこない(訳は革命後なので、注には出てくる)。また、この本は2011年に新装されたので、そこにはひょっとしてルカーチ氏自身の「それから」コメントが載っているのかも?

細部では、第一次世界大戦後に政権を取った人達はハンガリーが敗戦国処理されるとは全く思ってなかったというところ、例のハンガリーにとっては屈辱的なトリアノン条約?後にどこかを引っ張ると以前の領土が出てくる仕掛けの地図があったというところ、ハンガリー研究者の草分け徳永氏がホルティに会って「気前のいい人だった」と回想したところ…など。ホルティに関しては、ルカーチ氏もどっちかというと好意的?? この人物も少し調べてみる必要がありそう。フランスのペダン(だっけ?)とでも比べてみるか…

おまけ:ホルティ余談


またもやウィキペディアでホルティを調べてみた。最初に共産主義政権から権力を奪取した時も、その後摂政になった時も、彼自身は「俺は軍人であって政治家ではない」と最初は断っているが、仕方なく…という形だったらしい。後者の場合など新聞記事で初めて知ったらしい。
で、ナチスドイツには懐疑的で、まあでも位置関係で枢軸国側になってしまった…でも、ナチスからユダヤ人身柄引き渡しを要求された時は「私は国民を守る立場にある」と要求を突っぱねた。
が、連合国側と接触していたのがナチスドイツに知られ(これがホルティ自身の策かはよくわからない)、ナチスとそのハンガリー版矢十字軍が入城する。その少し前には息子を誘拐されてもいる。で矢十字軍の代表が入ってきた時の言葉は、「私を縛り首にする紐は用意されているか」というものだったらしい。矢十字軍の代表も、もともと尊敬していたホルティの言葉に顔色を失い、暫くは入城しなかったらしい。
そんなこんなで、戦後は共産主義政権を嫌い、ポルトガルに移住、そこで亡くなった。東欧革命後、遺体がハンガリーに戻り、献花が絶えないのだそう。
親ナチス政権というイメージしかなかったが、意外に興味深い人物。回想録も書いていて、英訳もあるという…日本語で読めるのか?
(2012 02/07)

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