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「寝ても覚めても夢」 ミュリエル・スパーク

木村政則 訳  河出書房新社

寝ても覚めても夢…


スパークの「寝ても覚めても夢」を読み始め。
原題は「リアリティーアンドドリームス」(現実と夢)。

主人公は63才映画監督。先妻との間の「振り返るほどの美人」の娘と、今のアメリカ大資本家の出の妻との間の堅物の娘。
というこれだけでなんかの映画みたいな設定の中で、「神になろうと」カメラクレーンの上に乗った監督ごとクレーンが倒れ九死に一生を得る(って字合ってる?)。
その後の監督を取り巻くさまざまな事件と、自作脚本映画と自らの現実との境があやふやになっていく監督のドタバタ喜劇…といったところ。作品自体が映画手法的だったり、オーデンやグリーンなどが実名で語られたり、神になろうとする視点は作者スパークも同じだけど作者はそれを徹底的に味わいつくしてやろうとしているのではと思ったり…

というわけで、これまでのところ監督が再び車椅子で撮影現場に復帰した6章まで。でもその間に、映画はタイトルも配役も内容もさまざまに変えられている。これには、天にいる世界の創造者「神」も同じ困惑を抱いているのかな。
そんなところ。
(2015 12/18)

麻酔にかけられた手術台の患者のような夕暮れ


物語の早いテンポに載せられて、ただ上っ面読みになるといけないので(既になっているかどうかはともかく)今日は11章までにしておく(笑)。

 転落事故から自宅療養の終了までは、一本の映画を撮っているような感覚だった。次々に現れる新顔を面接し、役を割り振っていく。ときには厳しい目で見て、ときには皮肉を飛ばし、ときには真剣に向き合った。トムにとって、この過程が映画の六割を占める。
(p78)


実際の映画作りがこのようなものかよくわからないが、これはなんか新しい社会環境に入った時の人の心理対応(それには読書という行為も含まれるのでは)そのものでは、という気も。さて、スパークの小説作りもこんな感じかな。そんな感じかも。

 ときどき自分が溺れかかった人間に思えるんだ。人生が頭の中をさあっと駆け巡る。
(p105)


監督トムのよき話相手のタクシー運転手デイヴに「記憶には侮れないところがある」と言われたトムの返答がこれ。だから記憶に溺れるというニュアンス。記憶が人間の内部ではなく外部にあるという感覚。

 トムは刑事のかすかな苛立ちを感じとった。あっさり別の生活に入っていける人種がいる。誘拐や殺人以外の線もありうるということが許せないのだろう。
(p113)


堅物の方の娘マリゴールドが行方不明になる。そこから物語後半が動き出すが、そうした中の一節。こういう「人種」はよくいろいろな小説に現れるが、どうだろう、実際には会ったことはないなあ。さてマリゴールドは果たしてそんな「人種」なのか、否か…
…この作品、いろいろな組み合わせの対話が軽妙に織り成すのが楽しいのだが、そんな中のだいたいは対話者以外の第三者についての語り。それを読者に象徴させるのが、トムの牽くエリオットの詩。

 さあ、出かけよう、君と僕
 夕暮れが大空に広がる
 麻酔にかけられた手術台の患者のように…
(p71)


今日はそんな夕暮れだったような…
(2015 12/19)

「寝ても覚めても夢」読了したけど


というわけなのだが、前の「死を忘れるな」より狐につまされた感じ。

最後にもまたクレーンが出てきて倒れて今度はジャンヌ(端役扱いに腹をたてて?監督夫妻を脅していた女優)が亡くなるわけだが、勝手にクレーンを動かした動機含め、なぜだかさっぱりわからない。一方では監督お気に入りのタクシー運転手デイヴ狙撃犯はスター女優の夫で失業中のケヴィンだったのだが、そんな筋的に重要なことがさらりともののついでに言われる、その語り口に驚く。

ジャンヌがクレーンに登る直前に会ったのは監督の妻クレア。今度撮影中の映画は、古代ローマ時代のブリタニア…なのだが、その兵士が未来を見ることができるという設定。その兵士役が男装して見つかったマリゴールドだったのだが、現実?に未来視できたのは実はクレアだったらしい。

解説にはクレアには暗い過去があるのではと会ったけど、なんかそれ以上に中心人物なのでは、と感じる。未来視の役を演じるマリゴールドが小括弧なら、全体(小説全体?)を未来視するクレアは大括弧。では監督自身は?
括弧をどちらかつけ忘れてしまった為にドタバタしてしまったのかな、この小説の神は?
(2015 12/21)

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