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「女ねずみ」 ギュンター・グラス

高本研一・依岡隆児 訳  文学の冒険  国書刊行会

語り手とねずみ

今朝はグラスの「女ねずみ」の第1章を読んだ。
人類滅亡後、人間の出したゴミに棲むという女ねずみの注告というかおしゃべりに、「わたし」は「いや、人類はまだ滅亡していない」と訴えかけるのであるが、この「わたし」なる語り手、誰だろう?神?
(2009 09/14)

ギュンター・グラスの「女ねずみ」より、ある子供の証言。 

 ぼくは、人間たちが十分に不安を持たないからねずみが不安を抱くようになったんだ、と思います。
(p64) 


不安すら抱かなくなって、自己の欲望にまっしぐら・・・のように見える現時点の人類。その姿勢はこの作品が書かれた1980年代より21世紀最初の10年である現在の方が、加速度的に強まっているかのようにも思える。ねずみを見倣え・・・って、ねずみって何者?・・・前の日記では、語り手は誰?って書いたような気がするけど、今日は語り手の夢の中でお相手をする女ねずみとは誰?・・・と思う。人間の精神の暗いところの象徴かもしれない。近代になって「正常な社会」から「狂気」を区別し、現在ではそれを社会成員から隠蔽しているところの「狂気」「精神の奥底」、ノアの方舟は近代発? 
・・・こういう作品って一気読みできないんだよなあ(笑) 
(2009 09/17)

今日は「女ねずみ」の第9章。その前の第8章で作者が女ねずみと見る夢の中で核戦争が勃発し、人間は他の生物ともどもいなくなってしまう。そんな中、第9章では地中に潜り生き延びたねずみ達は、なんと夜行性から昼行性となり農耕まで始める。この核戦争後唯一死ぬことがなかったオスカル(「ブリキの太鼓」の主人公)の祖母をねずみ達は崇拝する。祖母は何を表しているのだろうか?全てのものの母。
あと、もう一人死ななかった人間がいる。それが語り手(作者?)で、これは物語の始めからずっと地球の外周を回っている宇宙カプセルで、「地球、応答願います!」と語りかけている。人類という物語の始原に位置するオスカルの祖母と、物語を語るがずっと外側で物語に関与しない作者…これはさまざまな物語に関わる二つの立場・側面を言っているのか?
でも、作者も夢から覚めれば、物語中の人物なんだよね、人類という物語の。
(2009 10/18)

繰り返されるフィルム

  ごらんのように、世界は私たちに目新しいものをほとんど見せてはくれません。ひょっとしたら、私たちはあれやこれやと、また時に意表をつくように逆向きに並べ替られるくらいで、ー(中略)ー前もって製造された小人なのです、私たちは。
(p238)


この小説には終わりになったらすぐ始めに戻って…の繰り返し…の連続フィルムが連続して(笑)出てくる。p309で出てきている「両手を切られた女の子」の童話(この話を自分は知らないのだが)の女の子の映像とかが代表例。
だいたいが、この小説自体がそういう構造をしている。グリム童話、バルト海のクラゲ、教会絵画の贋作作家マルスカート、「ブリキの太鼓」のオスカル…など題材をみじん切りにして他と混ぜ合わせ、次から次へと繋がっていく、まるで多産のねずみみたいに(巧く繋がった(笑))…

  終わりを迎えようとしている物語ばかりだというのに、マルスカートの物語はいつも改めてまた始まろうとしている。
(p259)


(2009/10/20)


「女ねずみ」読み終え…だが、ラストぐらい夢の中の肯定的風景が描かれるのかな?と思っていたら、最後まで歴史の再現繰り返し…だった。いんちきな現実はまたいんちきを産み…人間の歴史とは無数のいんちきの数珠繋ぎに他ならない、という見解なのか、自分もそう思うが。あとは、物語にどれだけ期待するかどうか。
(2009/10/22)

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