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「鷲の巣」 アンナ・カヴァン

小野田和子 訳  文遊社

フランスに住んでたイギリス女性でカフカの影響を濃厚に受けているという作家。作家名は、自分の作品からの登場人物の名前を、法的に改名してつけたという。
(2015 11/12)

アンナ・カヴァン「鷲の巣」スタート。しばしば言及される(本人も意識している)カフカが不条理性だとすれば、こちらは不確定性。引用はまた後で。

カヴァン引用、服用


昨夜読んだ「鷲の巣」から。

 まるでいつもの理性のある自分といきなり絶交し、その自分が影のなかにひきこもってしまって意思疎通のしようがないといったふうだった。その一方で、もうひとりの″わたし″が、どこかべつの、すべてのものの外観が人を欺き、頭のなかの思考までが、曖昧さを帯びた不可思議なレベルで指揮を執っていた。
(p12~13)


16ページの文に従えば、この二つのわたしは併存しているわけではなく、どちらかが出ている時はもう片方は引っ込む…とかそんな感じ。
作者はモルヒネなど射ちつつなんとか精神状態を保っていたらしく、ここにはそれが素で出てきている感じ。
(2015 12/01)

同時に存在しえぬもの


しばらくお休みしていたアンナ・カヴァンの「鷲の巣」。冬の都会(ロンドンとかパリとかそんなイメージ)から汽車で1日かけて夏の岩山の街へ。またもや現実と幻の境をさ迷いながら、その2つは同時に存在しえぬものと認識している主人公。ただ、その辺も怪しくなってくる。

 世界が斜面の上にあり、なにもかもがすっと滑ってわたしから少し遠ざかる感覚。
(p43)


ひょっとしたら、こんなずれを利用して、現実と幻、同時に存在しえないものも並立するのでは。先の冬から夏への移行もそうだし、駅にいたはずの人混みが急にいなくなるのも、何かこうした断層の仕業では…
(2015 12/07)

プログラム小説?


「鷲の巣」を読み進めた…けど、なんかだんだん記述が怪しくなってくる。鷲の巣と呼ばれる邸宅?内には入れたけど、不安になりいろいろな思いが交錯する主人公(すいません、管理者が「彼」と主人公を呼ぶまで、主人公をカヴァンと同じく女性だとなんとなく思っていました)。
その主人公は魔法瓶の中身をコーヒーだと最初からわかっていたり、はたまた止まっていたはずの腕時計が数ページすると朝食の時間を指し始めたり…こういう些細な誤りは瑕疵ではなく、計算された誤り、もしくは主人公自身の夢の中に存するもの(夢の中なら魔法瓶の中身も勝手知ってることでしょう)。

変なのは主人公だけでなく、鷲の巣の他の住人も同じ。ここで出てくる秘書の女性は名前を(秘書でペン使うから)ペニーと呼ばれていると怒り出す。なんだかこの鷲の巣って何かのコンピュータプログラムかなんかで、ペニーってのも変数名なのでは、とか管理者がアドミニストレーターと呼ばれていることもあり(管理者もシステムには逆らえないらしいし)思っていると、ペニーこと秘書が金色の屏風の前で突然姿を消す。屏風はディスプレイか、変数の値が変わったのか。
そして、そのすぐ後で、また階段を行く秘書が現れる…

そして、自分のこの印象は物語が進むにつれ、深化するのか置き換わるのか、置いていかれるのか。
(2015 12/09)

お情け…


「鷲の巣」続き、だいたい半分くらい。
いろいろあったけど、とりあえず2つ。

 わたしは、絶え間ない轟音とそこに句読点のようにかぶさる半狂乱のクラクション、そしてあたりに満ちる混沌、混迷の空気にすっかり惑わされていた。まるで、絶えず波が打ちつける大海のただなかの小さな岩に立っているようだった。
(p126)


あれ、こんな都会だったんだ…とも思うけど、それはともかく日常的にこんな状況になったらたまらないだろうな、カヴァンという作家はそういう状況を生きていたんだろうな、とも思う。
上記は主人公が街に出掛けた時の記述だが、次は鷲の巣に戻ってきてから。

 この屋敷は、わたしが存在するのをただお情けで許してくれているだけのような気がした。
(p133)


屋敷だけでなく、多分この世に生を受けたこと自体も…
…この小説の重要な装置である肖像画についてまだ何も触れてなかったけど、これは何か自分内部のもう一つの入り口のような気がする。巧く言えないけど。
花売りと秘書は親子?
(2015 12/11)

ついに管理者登場。その前の滝のような白い豪雨にしても、管理者が主人公のスケッチ持っていたことにしても、全てはこの自他の境界も自我の同一性も不十分な主人公の頭の中で展開しているのでは、現実のものなど何もないのでは、という気がしてくる。
白い豪雨はこの本のカバーイメージ…
(2015 12/13)

雨と虫


「鷲の巣」最後の滑り込みでざっと読み終え…とならないように、今回は10章で止めておいた(笑)

 空から落ちてくる生ぬるい大きな雨粒は、ぼってりふくらんだ、のろい虫のようで、最初はまばらにものうげに降っていたのに、ホテルの入り口に着いたとたん、ブンブン唸りをあげる大群に変わっていた
(p192)


少なくとも自分は、雨粒を虫に例えた比喩は初めてみた。この小説では自然や外界も主人公の精神状態を強く映し出しているので、このようなところも印象深い…というか、切れ目がない…
次はかなり長い引用になるよ。

 外部の出来事は、わたしが自分の鋳型に無理やりはめこむまで、なんの形もとっていないのだから、どんな形をとるかはわたしの責任なのだ。人生に、不公平と失敗というパターンを押しつけたのはこのわたしだ。それを変えようとしても、もう遅い。自分でつくりだしたパターンでやっていくしかない。細部の手直しはきくかもしれないが、全体の設計そのものは変えようがない。それで、わたしの存在という問題を解決していくしかない。
(p206~207)


カヴァン自身の「解決」方法だったのかなあ、この小説は。
個人の人生もそうだけど、人類(他の動物種も)全体も、自らが作り出した文明と人間関係の集積からなる社会の中で、限られた手駒で少しずつ生きて(変えて)いくしかないのだろう。窮屈だけど。

あら、終わりが2種類ある小説?


「鷲の巣」を先程読み終えたのだが…
第11章はこれまでと異なり「内なる夢」と副題がついている。最初の木の実の幻想のあと、なんだか振り出しの極寒の街に戻っている…初めのうちは1度目の管理者との出会いを後から回想しているのかなと思っていたけど、なんか違う。
どちらが夢か現実か、主人公と管理者との筋の行き先が二手にわかれているみたい。大ループと小ループ。確かなのは、どちらも主人公の神経が過敏で強迫観念に捕らわれているところ。

 わたしを周囲に縛りつけるものはなにもない…ただ敏感な知覚の巻きひげがあるだけだが、それをこの暖かい部屋の優雅なたたずまいから苦痛覚悟で引き離さなくてはならない…
(p238)


(2015 12/14)

そうそう、小ループと大ループの行き来について。
どちらも主人公は同じである意味自由?に行き来できるのか、と思いきや、小ループ(11章)の管理者が「そういう名前のものは前にここで働いていたが、君は違う人物だ」と言われる。とすれば、大ループ(1ー10章)の何処かで主人公は何かを失くしてしまったのでは。それはもう元に戻らない取り返しのつかないことなのでは。 
こういう結末の小さな綻びの表記が恐い心情を生み出す…
そしてこの小説、自分がきづいてない別の綻びが至るところにあるような気がする… 
(2015 12/15)

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