「ジョイスのための長い通夜」 大澤正佳
青土社
このタイトルは丸谷才一氏からいただいたそう。江東区しまぶっくにて千円で購入。
(2019 12/06)
墜落と再生
p21まで。
「フィネガンズ・ウェイク」。伝承バラッドの名前からアポストロフィだけを取り払ってタイトルに。またフィンなんとかという伝説の人物がアイルランドにはいて、そのフィンがアゲイン→フィネガンズとか、イタリア語などのフィン+アゲインとか。ジョイスの生涯のテーマである墜落と再生がここにも現れている。フィネガンズ・ウェイクの4つのサイクルはヴィーコの論から影響を受けているらしい。あとは、ここにもポントゥス・ピラトゥスが立ち現れている…とか。
(2020 01/09)
(2020 01/11)
エピファニーと神話
エピファニーというのは(顕現)、いつも目にしているものが、ある時「それが何であるかを一瞬のうちに認識する」(p59)。それはメモ書きのような「エピファニー集」から「スティーヴン・ヒアロー」そして「若き芸術家の肖像」へと変化していったのだが、最終局面の「若き芸術家の肖像」では「エピファニー」という言葉は消えているという。一方循環の方はヴィーコの歴史循環説を参照している。
ベケットのジョイス論(最近で復刊した?)から。「フィネガンズ・ウェイク」の言葉の氾濫はこうして起こっている。
これはコラムから。ちょっとマニアックな話題というべきか。「ウェイク」の翻訳中、何かの未整理カードが出てきてそこに「gran」と「d」が抜けていたのを見た顛末から。「球形の鏡」云々は江戸川乱歩か何かの短編から。
(2021 01/03)
第二部「フィネガンズ・ウェイク」論
第二部の最初の論文「「進行中の作業」のための覚書」。この「進行中の作業」とは、「フィネガンズ・ウェイク」に仮についていた名前。トリエステにおけるズヴェーヴォとジョイス。既に2作もの作品を残していながら、船舶塗料会社に勤務して細々と暮らしていたズヴェーヴォを励まし、書き上げた「ゼーノの苦悩」を激賞したジョイス。彼は、「フィネガンズ・ウェイク」の川女主人公にズヴェーヴォ夫人(リヴィア)の名前をつけ、ダブリン、リフィ川の色を彼女の紅い髪に因んで形容した。
次の「水の言葉」は、「フィネガンズ・ウェイク」全体の「テストケース」、先述のリフィ川を擬人化させたアナ・リヴィア・プルーラベルの章の推敲経過。
同じことをエドマンド・ウィルソンは「重ね書きのパリンプセスト」と言って、改訂の間、「トランジション」版とゲイジ社版の間で止めるべきだった、という。ウィルソンも、ジョイスがこのリヴィアを川の変容で川らしくする文体ということはわかっていたので、これはもはや好み?の問題かも。
ジョイスは止まらず、文体や単語の選択だけでなく、単語内の文字配列までに手を入れる。
(2021 01/04)
「夢言語のチャップリン的身振り」
チャップリンの映画を見るジョイス。チャップリンのチグハグな衣装、姿勢とチグハグ語。
「ジョイス語のドラウマ」
パンとは語呂合わせのこと。語呂合わせと吃りは隣り合わせ。
(2021 01/06)
「三聖唱の怨念」、「『フィネガンズ・ウェイク』の一夜」…
「フィネガンズ・ウェイク」には三聖唱が13回現れる(クライヴ・ハート「フィネガンズ・ウェイクの構造とモティーフ」調べ)。三聖唱とはあのミサなどで唱えられる「サンクトス」のこと。これが13回変容されて用いられるわけだが、これにはエリオットの「荒地」で出てくる「シャンティ」を受けているという。エリオットをライヴァル視していたジョイス、ライヴァルとは元々川を挟んだ反対側の住人という意味から来た言葉で、そうなるとリフィ川の選択女ともつながる。
(2021 01/07)
「フィネガンズ・ウェイク」は「ユリシーズ」のモリーの「イエス」を受け継いで始まる、モリーの夢、あるいは夜の書であるわけだが、「ユリシーズ」の6月16日のように特定の日付に位置付けられないかという研究がいろいろある。
(2021 01/08)
上記01/08に読んだ、「ジョイス随想2」。ビートルズとジョイス、ライト・ヴァース(小歌)と「ユリシーズ」、そして「SOS」。
最後の随想から。
やりかねない…とか言いながら、8年差の事例を入れるかな?
(2021 01/11)
第三部はアイルランド文学史のスケールで。
アイルランド詩人トマス・キンセラの講演「アイルランド作家」から。キンセラはイェイツ以後のアイルランド詩人の第二世代。第一世代はパトリック・キャヴァナとオースティン・クラーク、第三世代はシェイマス・ヒーニー。第二世代となると、イェイツの影響が薄れ、彼に批判的な論調も見えてくる。
「歩行者の自然な足取り」というのは英国の英語話者のような単一言語話者を言う。それに対しアイルランドでは二重言語化が主に19世紀に起こる。そいえば、オブライエンの「ハードライフ」は綱渡りの通信教育?が出てきて、カバーが綱渡りだったな。
『ケルズの書』は中世にキリスト教が入ってきた時のアイルランドの書。ジョイスはアイルランドを離れ、ヨーロッパを放浪していた時もこの『ケルズの書』を持ち歩いていた、という。
(2021 01/12)
「ターラへゆく道 亡命者ジョイス」
1904年10月自発的亡命。西部出身の妻ノラは携帯用アイルランド。1906年ローマ行き。「老婆の屍体を観せて生計を立てている男」としてのローマ、そしてダブリン。
結婚前のノラと関係していたと一時帰国(1909年)していたときに告白した旧友コズグレイヴ。1911年ジョイス夫妻を崇拝してたプレツィオーソがやがてノラに接近する。ジョイスはずっと見ていて最後に詰問する。芸術家は、自身を俳優として自己に隠れじっと見る。結婚生活から「亡命」し、ハムレットの亡霊となったシェイクスピア(「ユリシーズ」第9挿話)。
ジョイスは「肖像」の中で芸術家を
と位置づけている。
(2021 01/14)
アイルランドの先達、後輩。ワイルド、スウィフト、ベケット、ヒーニー。
ここのダンテ『神曲』を、ホメーロスの『オデュッセイア』第十巻にすれば、そのまま『ユリシーズ』第十五挿話に当てはまるという。そこで働くスウィフト作品は『優雅な会話』。紋切型会話を詰め込んだ「優雅と洗練の吐き気を催させる決算日」なのだという。
ベケットは処女作がジョイス論「ダンテ・・ブルーノ・ヴィーコ・・ジョイス」(1929)。このタイトルの「・」一つが間の一世紀を表している。ベケットは当時「フィネガンズ・ウェイク」の「アナ・リヴィア」の章の仏訳に参加してもいた。それまであまりアイルランド的伝統とは無縁だったベケットは、ここ(パリ)で、「ウェイク」によってアイルランド体験に目覚める。
『ウェイク』には、ヴィーコ理論だけでなく印度哲学、イェイツやブレイクの歴史観など様々なものが使われているが、半ばジョイスの「示唆」(いつも物事の半分だけを誇張する?)により書かれたこのベケットの論文によって、ヴィーコ理論は『ウェイク』解釈に必要以上に重視されてきた、と大澤氏。
ヒーニーは1939年、北アイルランドのデリー生まれ。1966年第一詩集『ナチュラリストの死』刊行。1972年、南(アイルランド共和国)に移住する。自身の詩集の他、7世紀の王スウィーニーをテーマとした中世アイルランド詩『スウィーニーの狂気』の英訳もしている。
ジョイスについての言及も多い。例えば第三詩集『冬ごもり』(1972)の「伝統」という詩は
と始まり、
と結ぶ。ここは『ユリシーズ』第十二挿話で、ブルームが「市民」の人種差別的言動に対して言った言葉が引かれている。
(2021 01/16)
トリエステと吉田健一とジョイス
昨日は第三部最後のアイルランド演劇(四人でやる前衛劇とか楽しそう)と、ジョイス随想3の一本目。で、今日はその随想の残り。
「トリエステのジョイス」…ジョイスが通算11年住んでいたトリエステ。トリエステはやや小さめのダブリンのようである、と大澤氏は言う。
ジョイスがヴィーコを知ったのもこの時期。
「吉田健一さんと『フィネガンのお通夜』」…
(「頂門の一針」とは痛いとこつく戒めとかいう意味、蘇軾から)
吉田健一とリーヴィスの、ジョイスの言語実験に対する応答、大澤氏が垣間見た吉田健一の陰鬱な顔、そして吉田健一自身の通夜。
(2021 01/18)
第4部、ジョイスの先輩、ジョイスに影響を与えた芸術家の話…
(最後のアントニー・バージェスは除いて。)
イギリス世紀末絵画のピアズリーとジョイス。「音楽と絵画を同時に自分の文学空間にとりこもうとするジョイス自身の芸術観」(p307)。絵画は黒と白のピアズリー、音楽は、そして諸芸術の綜合はワーグナーから継承された。もちろんジョイスは世紀末芸術とは正反対の方向性を取りながらなのだけれど。
それにしても、ジョイスとワーグナーか。全く別物だと思ってたけど、『若い芸術家の肖像」では『ジークフリート』の小鳥の歌が出てくるし、『ユリシーズ』第15挿話で泥酔したスティーヴンが娼家で叫ぶ「ノートゥング」とは『指輪』に出てくる聖剣の名前。彼は剣ならぬステッキを振り回し娼家のシャンデリアを叩きこわす。
前に挙げたベケットのジョイス論の言葉を受けて…挙げてなかったかな、ジョイスの作品はなにものかについて書かれたものではなく、そのなにものかそれ自体なのだ、というもの。
(2021 01/19)
ズヴェーヴォ、ドイル、キャロル
今日読んだのは、この三人の先達。
ズヴェーヴォは前にも出てきた通り、トリエステで彼の英語教師にジョイスがなり、彼の作品を認めてそして「ゼーノの苦悩」をうみださせたのだが、一方ジョイスもズヴェーヴォから影響を受けている。それはちょうどスティーヴンとブルーム(ズヴェーヴォもユダヤ人)の関係でもあったようだ。
この章の後半は「ジアコモ・ジョイス」という短編について。これは、ジャコモという名前がイタリアでは好色家の代名詞みたいなように使われ、ある女性に対する様々なスケッチとして前の「エピファニー集」の続編のようにも読める。
『ユリシーズ』のブルームの部屋の本の中に、コナン・ドイルの『スターク・マンローの手紙』がある。これはドイルの著作であるが、ホームズものではなく宗教的な自伝的作品。一方、ジョイスがイタリアで読んでいた中には『コロスコの悲劇』がある。これまたドイルの宗教的作品。
第一次世界大戦後のドイルは、彼の中で今まで危うく均衡していたこの二つが徐々に宗教性へと引っ張られていくことになったのだが、それを引き継いだのがジョイスであった。『ウェイク』のカバン語にはドイルも詰め込まれている。
そしてキャロル。ジョイスが1920年代になるまでキャロルを殆ど読んでいなかった(あと、ラブレーも)というのはかなり意外。しかし読んでからはこの先達をも自分の作品に巻き込む。ジョイスの立場をジェイムズ・アサトンは「南極点に到達してアムンゼンの旗をみつけたスコット大佐」となぞらえている。
(2021 01/20)
ウィンダム・ルイス
(アニタ・ルースというのは、ジョイスも読んでいた「紳士は金髪がお好き」の作家、大衆作家と言っていい(?))
『時間と西欧人』という本の第11章が上の「小児崇拝寸評」であり、その次の第12章がウィンダム・ルイスの「〈時〉の子供たち」。ここでウィンダム・ルイスは、ベルクソンの時間概念とそこから派生する小児崇拝を批判する。空間側に立つウィンダム・ルイスと時間側の争いということにもなろうが、ジョイス個人的には、もともとウィンダム・ルイスが友人でもあったということもある。ここで時間とか意識の流れとか、小児(幼い頃の記憶・圧縮)とか、ウィンダム・ルイスが批判する要素は、彼の思惑を外れ20世紀を特徴付ける要素となっていく。
自分にとって意外でまだ完全に承服できてないのは、このウィンダム・ルイスとルイス・キャロルが一体化したものが、ジョイスの仮想敵となったというところ。ルイスという名前はともかく、言語遊戯をキャロルに先越されたという意識と上述のウィンダム・ルイスは一括りになるのかな。こればっかりはジョイスに聞いてみないとわからないけど。
エリオットとジョイス
再び登場、エリオット。ちなみにジョイスとエリオット引き合わせた時に、先述のウィンダム・ルイスもそこにいたみたい。またイプセンとの出会い(手紙やり取り)が、ジョイスをアイルランド内から脱却させたという指摘も。
エリオットは自分を物真似鳥に見立て、またヘンリー・ジェイムズ論で「ヨーロッパ人には不可能な、ほんもののヨーロッパ人になる」ことを論じる。ここで出てきたのが、前に「ヘンリー・ジェイムズ傑作選」で読んだ「ほんもの」。「ほんものよりもほんものなにせもの」がそれ。
一方ジョイスはヨーロッパを放浪しつつ、眼は常にアイルランドに向き、妻や弟などもそばにいた。彼とアイルランドの距離は、対象を離れてみる必要な距離であった。
この両者は『ユリシーズ』と『荒地』の時に最も接近し、また離れていくことになった、とまとめている。
その次の短めの章もまたエリオットとジョイス。今度は実践編?
前の三重唱もその一つの共通点。また『フィネガンズ・ウェイク』で主人公が夜の公園でキャッド(下司)に言われる「やっとお会いしましたが、いささか遅きに失したようですね」というやや慇懃無礼なセリフ。これはジョイス自身がイェイツに言ったとされる言葉なのだが、次の瞬間、主人公がジョイス自身らしき人物に変わり、「間抜ケリオット」に同じ台詞を言われることになる。歴史は繰り返す&自虐的だなあ。
(2021 01/21)
プルースト
「同じものを目指していながら、違う道を行く」ジョイスにとってプルーストとはそのような存在だったらしい。この章では主に花と性活動についての共通点を探している。
この二人は一度少しだけ会っている。その時の話題はジョイスによると「フランス松露はお好きですか」というものだったらしい。
アントニー・バージェスほか
バージェスとは「ブルジョワ」に通じる名前。
ジョイスを師と仰ぐバージェスであるが、それはここでは文学と音楽の融合という点に現れている。二つの交響曲を含む90曲もの曲を作曲し、50冊に及ぶ小説や評論などの著作を「音楽家になりそこねた小説家の作品」と語っている(この辺、クンデラとも比較したくなる)。『ナポレオン交響曲』という小説は、小説全体をベートーヴェンの交響曲第3番に対応させ、曲の8小節が小説の3ページにあたるように作ったなど、ジョイス譲りの偏屈ぶり。
作品テーマではこの小説は(フィネガンズ・ウェイク』と共通する。『フィネガンズ』はアイルランドの大地を父に、流れるリフィ河を母に見立てる。『ナポレオン交響曲』はナポレオンが大地、ジョゼフィーヌが水。ナポレオンはロシアの雪(水)に敗れ、ウォータールー(水)に敗れ、大西洋という水に取り囲まれたセント・ヘレナ島に流される。
最後はジョイス随想4から「ジョイスがラブレターを書くとき」
ジョイスの若者らしい過激な手紙に対し、当惑するノラ・バーナクルの手紙はコンマ落ち。これが『ユリシーズ』第18挿話のモリーの独白へと変わるのだな。
(2021 01/23)
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