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「〈文化〉を捉え直すーカルチュラル・セキュリティの発想」 渡辺靖

岩波新書  岩波書店

文化相対主義の陥穽


昨夜から「〈文化〉を捉え直す」を読んでいる。著者渡辺氏はアメリカ合衆国を中心とした文化人類学者で文化政策の立案などもしている。著者はNHK国際放送審議会の委員長もしていたという。
本人曰く双方の見方を両立することが重要なのだそう。アメリカのコミュニティ研究や「文化と外交」などこれまで著作も多い。 

文化の中でも個人の安全保障や生きる権利といったカルチュラル・セキュリティに焦点を当てている…それはどのようなものなのか。 

 行為者は構造の前に無力ではない。構造を内面化し、構造に対して様々なゲームを仕掛けてゆく能動的な主体でもある。そして、そのゲームにおいて「文化」をめぐる従来の境界線を編み直し、組み替えてゆくプリコラージュ(器用仕事)こそは、創造性の原点であり、変わりゆく環境に対する適応力の源泉とも言える。 
(p30~31) 
 文化相対主義の概念と、異なる文化や「人種」の尊厳を回復するための議論は、極度の苦しみを永続させている行為主体によってやすやすと取り込まれ、都合よく利用されてきた。 
(p78~79ポール・ファーマー「権力の病理」より)

 

後者は例えば西アフリカなどのイスラム圏の一部で行われている女性器切除などの問題でよく指摘される。このファーマーやアマルティア・センなどは、こうした相対論の陥穽を厳しく追及する。その他、ここで取り上げられているコンゴのレアメタル採掘やキルギスの誘拐婚とか、知られていない最底辺のことがまだまだある。 

第3章のパブリック・ディプロマシー(官民合わせた交流や援助や情報発信などのソフトパワー)は、上に挙げた「文化と外交」で取り上げられている。
(2017 01/15)

文化人類学の応用について


というわけで、「〈文化〉を捉え直す」を今さっき読み終えた。

自分にとっては、第2章の文化の安全保障、第3章のパブリック・ディプロマシー(ただしこれに関しては同著者の「文化と外交」の方が詳しいのか)、それにさっき読んだアメリカ始めとする文化人類学の動向という辺りが興味深かったところ。最後の箇所から少し。

 米社会をフェアに理解するためにも、文化人類学を取り巻く米国の知的=政治的状況を客体化する必要性を強く意識した
(p185)


構築主義(その文化の本質ではなく、その文化が出てきたプロセスを考える)やポストモダン思想、カルチュラルスタディなどの影響が、どこの国や地域でどれだけあるかとかそこまで考えようとしたこともなかったなあ。

で、いろいろな実例その他は、自分的には広げすぎに感じて、一つ一つの例は興味深いけど、全体的配置がよくわからなかった。例えばスキヤキミーツはなぜよくて、妻有ビエンナーレはなぜ問題がある?のか…とか。

というわけで、なんかふっきれない何かが残る中、後は引用(それも文献引用中から)2箇所で。

 私は以前から現在にいたるまで、自分の個人的アイデンティティーの実感をもったことがありません。私というものは、何かが起きる場所のように私自身には思えます…(中略)…私たちの各自が、ものごとの起こる交叉点のようなものです。
(p161 レヴィ=ストロース「神話と意味」から)


あのレヴィ=ストロースが、自分自身のアイデンティティーの実感がないのだという…アイデンティティーというのは実は影絵みたいなもので、何を映すか、何が映るか、によっていかようにも変容するものではあるまいか。そう考えていくと、例えば漫画やドラマなど、でどうして強烈な「キャラ」が描かれやすいのかという説明にもなりそう(つまりそういう人工的なものにしがみつきたいという願望もあるし、わかりやすいから利用されやすいということでもある)。

 社会科学はすでに決着した課題には少数の宮殿護衛者を配置するだけにして、より多くの力を社会神経学、行動経済学、進化心理学、社会後天的遺伝学といった、およそ自然科学と社会科学が交叉する領域に移転すべきである。
(p194 ニコラス・クリスタキスの言葉から一部改変)


そして、その学部を解決の度合いに応じて随時解体統合していく、という。これも自分には全くなかった視点。
(2017 01/16)

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