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「ミスター・ピップ」 ロイド・ジョーンズ

大友りお 訳  白水社エクスリブリス  白水社

ピップはディケンズの「大いなる遺産」の主人公の愛称。場所は1990年代パプアニューギニアのブーゲンビリア島。島の独立を狙う革命軍と政府軍との戦いが始まる空白のとき、島に唯一残った先生?であるミスター・ワッツが授業を再開し「大いなる遺産」を朗読し始める。という始まり。

著者ロイド・ジョーンズはパプアニューギニアでもオーストラリアでもなく、ニュージーランドの作家。

この戦争では、旧日本軍の兵器が使われたという。またジョーンズがディケンズを取り上げたのは、ディケンズ作品で、よく罪人が流される場所に使われ、そして作品の場面転換の都合上のため主人公等が行く場所として、オーストラリア等が使われた、それを逆手に取るため、だという。


…でも、「大いなる遺産」、大昔に挫折してそれから読んでない…

父兄先生日

「ミスター・ピップ」…「大いなる遺産」の朗読のほか、ワッツの授業には子供たちの親などを呼んで、彼らが教えたいことを自由に語ってもらう、というのがある。カニの穴の天気予報とかフウセンカズラとかほかにもいろいろ…

 果たせぬ夢のいいところがひとつだけある。壊れた夢の欠片はまた拾い集めることができることだ。
(p69)

これはギルバートの父である漁師の授業から。釣り上げられた魚は果たせぬ海の夢を見ている、という。

ミスター・ピップとは誰か

作品は小さな区切りで細かく分かれているけれど、大まかに言えば今日読み進めたところは、第1部から第2部へというところ。
ゆっくり島の世界に入り込み不穏な背景とミスター・ワッツの小さな世界が語られるところから、レッドスキン兵(政府軍)が来て物語が急に動くところへ。マティルダが砂浜に書いた「ピップ」の文字からレッドスキン兵が、それを敵の革命軍だと誤解して始まる悲劇。そして教室にあったはずの「大いなる遺産」の本がなかった謎。

動き出す前、マティルダとミスター・ワッツとの対話が進み、そこからワッツとグレイスの過去が垣間見えてくる。

 ピップは孤児だ。孤児は、言ってみれば他国へ移住した人と同じなんだ。ピップはある社会のレベルから、もうひとつの社会のレベルへと移住していく途中なんだよ。洋服を変えたみたいに名前も変えて、それがピップの移住の手助けになるというわけだ
(p79)

ピップも名前を変え、グレイス(ミセス・ワッツ)も名前を変えたという。移住…少し前なら亡命と言っていたか…の心性が見えてくる。

あと気になるところは、ワッツと相対するマティルダの母親の悪魔話の付け足しがあったからこそ、後にレッドスキン兵を単純に憎むだけのことはなかった…とマティルダの後の回想が触れていること。またミスター・ワッツの子供時代のロンドンの思い出話があるのだけど、そこで子供達がその話を理解するために想像するのが「大いなる遺産」のロンドンであるということ。
(2016 12/28)

「ミスター・ピップ」について補足。移住・自由という問題系はオーストラリア・ニュージーランドというところに移り住んだ白人移民についても重ねているのではないか。それは作者ロイド・ジョーンズの出自でもある。(2016 12/29)

切れ端を繋ぐと…


「ミスター・ピップ」の補足その2とその後。

補足その2は、たぶん、マティルダはレッドスキン兵の士官をなんだか悲しげに描写しているということ。なぜこんなことを命令しているのか、自分ではわからないといった様子、なのだという。

その後、またミセス・ワッツが皆の思い出とともに埋葬され、ワッツの授業が再開された。「大いなる遺産」の本は燃えてしまったため、子供達の思い出した切れ端をワッツが繋ぎ止めて結んでいく、という作業。これは先のミセス・ワッツの思い出と同じ手法。
(2016 12/30)

鏡とアリと流木

半分弱残っていた「ミスター・ピップ」をなんとか年内に。というか読みを止めることができなかった、というべきだろうか。

村にやって来たランボーこと革命軍と村の人々は、七夜続くミスター・ワッツのピップ物語を聞く。それはまるで千一夜物語のように死と隣り合わせでありながら、皆で物語を編み上げていく幻想的な夜となる。ミスター・ワッツの生い立ちの話に、「大いなる遺産」や前の授業で話された父母達の話が混ぜ合わされる。

 それは、そこにいる私たちが貢献して作り上げたひとつの物語だった。彼は私たち村人が経験する世界を、私たちの眼前に繰り広げてくれているのである。私たちには鏡がない。私たちは自分たちが何者であるかを語る物語を聞き、あの焚き火で燃えてしまったと感じている何かをそこに聞くことができた。
(p208)

ただし第七夜は訪れず、来たのはランボー達を捕虜にしたレッドスキン兵と士官。そこでミスター・ワッツと彼を讃えたマティルダの母親が殺され、マティルダも士官にレイプされそうになる。その場面から。

 現実はどこか遠くにあって、そこにいる私と士官とには何の関係もないかのようだった。私たちが背を向けている間に起こった出来事は、どこか遠くの出来事のような気がした。足の親指の上を小さな黒アリたちが這っていた。アリは自分たちが何をしていて、どこへ行こうとしているかよく知っているようだった。自分たちがただのアリだとは知らずに。
(p225)

この事件後、マティルダは半ば無意識に洪水の川に流されて、流木に掴まる。その流木を「大いなる遺産」でピップを助けたミスター・ジャガーズと呼ぶ。村人のボートに救出されてから…

 ミスター・ジャガーズは悲しげに、しかし理解しているように見える。自分がただの流木にすぎず、この困難な水の旅の間、背中にしがみついていたマティルダは、不忠ながら、幸運で選ばれた者なのだと。
(p235)

鏡が何か、アリが何か、流木が何か、物語の暗喩であり、詩的表現であり、苦いユーモアであるのだろう。でも、それ以上の何かを担っているように見えてきてしまう。

マティルダが島を出てから…

では、「ミスター・ピップ」の、マティルダが島を出てからのトラウマから解き放たれていく部分。解説には、この部分が「興味がうすれた」としているレヴューもある、と書いてあった。

物語的には、ソロモン諸島に着いたマティルダは、父とオーストラリア・タウンズビルで再会し、大学を出てディケンズについて論文を書き、ニュージーランドにミスター・ワッツの元妻に会いに行き、英国でこの語りを書き上げて島に戻る、といったところなのだが。
レヴューの人はたぶんそんなにトラウマからはすぐに解放されないだろう、としているのだろう。その辺りは自分には想像するほかないのだが。

 彼は必要に応じて私たちが望む人になったのだろう。そしておそらく、世の中にはそういう人がいるものなんだ。私たちが作る空間にすっぽり入り込んで、隙間を埋めてくれる人たち。
(p263)

ミスター・ワッツのことをニュージーランド訪問後に回想しているところから。島にいた時と比べかなり冷静に人間を見られるようになったマティルダ。先生が必要だったから先生となり、ピップをレッドスキン軍に差し出さなくてはならなかったからピップと名乗る、そういう存在。こうしたマティルダの人物の書き換え、これも物語を紡いで行くということなのかもしれない。同じテクストは存在しない、すぐに書きかえられる物語。

 私が母さんの死を告げたとき、父は泣き崩れた。そしてそのとき、やはり尾ひれをつけた物語も必要なのだと知った。しかし、それは現実の人生にのみ言えることで、文学には装飾は要らない。
(p272)

こうしたなんか軽く?逆接で謎めいて読者を宙吊りにしていく文章はジョーンズの味みたいで愉しいのだが、ここも普通の考えだと現実と文学は逆なのではないか、と思ってしまうところ。内容ももとより、どちらがより大事かということに関しても。「要らない」と断言できるかはきついと思うけど、少なくともこの作品に関しては、装飾をかなり削り落としている感触は感じた。

さて、解放のされ方がどうか、というテーマだったのに物語論にそれているけど(笑)、自分的にはそこまで違和感は感じない。というか、やはりジョーンズの伝えようとしたかったのは、個人的な問題より、もっと大きな(といったらいけないかな)社会でどのように物語を紡いで行けるのかとかそっちにあると自分は思うから。(2016 12/31)

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