「現代イタリア幻想短篇集」 ジョヴァンニ・パピーニほか
竹山博英 訳 国書刊行会
モラヴィアの短編
図書館で借りた「現代イタリア幻想短編集」では、カルヴィーノ・モラヴィア・ブッツァーティなど自分が知っている作家を一通り読んでみたが、いやはやモラヴィアの短編のぶっ飛びかたは半端じゃない。長編と調子が違う(笑)。 モラヴィアのこういうの集めた短編集ないかなあ?
(そういう短編集出た。「薔薇とハナムグリ シュルレアリスム・風刺短篇集」アルベルト・モラヴィア 関口英子訳)
主にファシズム政権下で書かれたモラヴィアの「シュルレアリスム・風刺短篇集」全54編から15編をチョイス。「パパーロ」と「清麗閣」は「現代イタリア幻想短篇集」にも収められている(後者は「壮麗館」となっている))。
(2009 03/12)
ボンテンペッリとランドルフィ
貸出2回目の「現代イタリア幻想短編集」から、昨夜はボンテンペッリとランドルフィの短編を読んだ。前者が「巡礼」、後者が「ゴキブリの海」。あんまりこういう既知なものへ結びつける捕らえ方はよくないのだが、前者は始まりと終わりのない「タタール人の砂漠」、後者は海に出たカフカあるいはシュルツ…といった感じ。
前者は戦争中ファシズム政権に半ば協力した格好になった自分の反省を現した作品、後者の「ゴキブリ」は幻想で船長になっている子供の脳内部にあるナニモノか…と、想像すれば、自分にはすぐ「ミクロの決死圏」という映画が連想される。なんか家族でこの映画だけは揃って見てたからなあ、何故か…
ランドルフィに戻って、この人のみの短編集を前に読んだはずなのだが、実をいうとその時にはあんまり印象がなかった。だから、また読み直してみたいなあ。ボンテンペッリの方は他に翻訳されている作品はあるのだろうか?
(2009 04/29)
本日、池袋ジュンク堂にて購入。たぶんまだ読んでない短篇が少しだけ残っていたはずなのですが、どれだっけ(笑)。
(2010 11/27)
マルレバとラペンドゥーサ
昨日は「鰯の自伝」(マレルバ)と「リゲーラ」(ラペンドゥーサ)を読む。「鰯」の方は、人間である現実の世界と、スペインのビスケー湾で鰯として生活している夢の世界が、次第に逆転していくというもので自分好みの作品なのだが、「リゲーラ」はちょっと異なる。ギリシャの異教の使いであるセイレーンと性交したギリシャ古典学者の話。(ちくま文庫版「カフカセレクション」の中にも、セイレーンとオデッセウスの掌篇があったっけ)
(2010 11/28)
パラッチェスキ
昨日の朝読んだ現代イタリア幻想短編集のある作家(3か4番目)は、イタリア未来派に属したのち、参戦主義の未来派(マリネッティ)と別れ、リアリズムな文体に戻った…その頃の作品が掲載されている。でも、擬音語が主役である…などに未来派運動の名残を感じる。(パラッチェスキの「禁じられた音楽」)。
(2010 11/30)
サヴィニオの「閉じられない感」
今日はサヴィニオの「「人生」という名の家」を読んだ。この人画家のキリコの実の弟で主にパリでシュルレアリスムの芸術家と親交を持ったという。母と同居している家を出て、とある家に迷い込んだ青年は、この広い家の中で常に同じ曲の繰り返しがヴァイオリンで奏でられる中、常に誰かがすぐさっきまでいた形跡を残す部屋に次々に入り込んでいく。
なんだか、「閉じられ」ていないのは、この作品中の家の中だけでなく、この人の作品(これしか読んだことはないけれど)全体に言えることではないだろうか?と考えてみる。それはこの作家が人間の精神世界を常にそのような開かれた存在とみているからではないのか?などと考えてみる。 物語内容は「タタール人の砂漠」と共通の部分あり。こういうテーマはイタリアの共通文化というか通奏低音みたいなものだろうか?ひょっとしたら・・・ イタリアに限らないと思うが、まだまだ知らない作家、でも自分には興味を惹かれる作家というものがたくさんたくさんいる。
(2011 03/09)
補足:サヴィーニオ
「ファシズム、そして」和田忠彦著 より
サヴィーニオ(こちらの本の表記に合わせる)は画家キリコの実弟で前に「現代イタリア幻想短篇集」の中の「「人生」という名の家」を読んだことがある。最初はフランス語から創作を始め、ツァラやピランデッロとのそれぞれに短い交流期間を経て、怪物のような絵画を多く描くようになる。こういうファシズムとは相容れない「無国籍者」は前に感じた「閉じていない」感に通じるのかも。
(2016 07/10)
作者・著者ページ
(「アルゼンチン蟻」収録)