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「人間の条件」 ハンナ・アレント

志水速雄 訳  ちくま学芸文庫  筑摩書房

プロローグと第1章、第2章から、あれこれ

 人びとが行ない、知り、経験するものはなんであれ、それについて語られる限りにおいてのみ有意味である。
(p14)
 労働の枷から解放されようとしているのは労働者の社会なのであって、この社会は、そのためにこそこの労働からの自由を手にするのに値する労働以上に崇高で有意味な他の活動力についてはもはやなにも知らないのである。
(p15)
 結局、地上の人間に生命が与えられる場合の条件に加え、また一部分それらの条件から、人間は自分自身の手になる条件を絶えず作り出していることになる。
 世界の客観性ーその客観的性格あるいは物的性格ーと人間の条件は相互に補完し合っている。
(p22)


人間の働き方3タイプ
労働(生命維持・家庭・経済)、仕事(アレント用語の「世界」(個人を越えたものの生産)、活動(アクション、政治、公的場での発言)
活動ー仕事ー労働から仕事ー活動ー労働へ、さらに労働ー仕事ー活動へ(3つのうち、左の方が価値が高いとされる)

公的領域と私的領域
公的領域は政治(活動)の場・・・であるが、古代ギリシャ以後消滅、その後近代国民国家は「社会的なるもの」の登場とともに、私的領域(経済(家政))を国民国家全域に広げる、いわば大きな家庭。
というのが、解説含めたアレントの考え方の見取り図かな。

 隠されたものはすべて生命過程そのものと結びついており、近代以前には、個体の維持と種の生存に役立つすべての活動力を含んでいた。したがって、隠されていたのは「肉体によって生命の肉体的欲求に奉仕する」労働者であったし、肉体によって種の肉体的生存を保証する女であった。・・・(中略)・・・近代の始めになると、「自由な」労働は家庭の私生活の中に隠れ場所を求めることができなくなった。そこで労働者は、犯罪者と同じように、共同体から高い壁の背後に隠し去られ、隔離されて、たえず監視されるようになった。近代になって労働者階級と女はほとんど歴史の同時期に解放された。
(p103)


フーコーのいうパプティノコン型制度の現れを、逆に家庭の立場から表現するとこうなる、のかな。
(2013 01/01)

3つの階層?


「人間の条件」。労働・仕事・活動の区別はまあわかるけど、でもまだしっくりこないところも多い。あまりに古代ギリシャ(の書かれたもの)に寄りかかり過ぎでは?とも思ってしまうけど…
どうやらさっきの3区分はスケールの違いでもあるみたい。生産即消費の労働から、人間の一生と関わる仕事、そして人類(の一部)を引っ張っていく活動。下?の労働から階層を上がっていくけれど、逆に上の階層は下の階層の働きを必要としている。労働がなければ成り立たないのはすぐわかるけど、活動と仕事の関係は思考・言論・判断なるものは誰かに書き留められなくては形として現れないということからわかる。
で、まだしっくりこないのは特に仕事の「世界」との関わり、人間として関わっていく上での「物」「世界」との結びつき。まあ言ってみれば世界関係…

 歴史的に見ると、十七世紀以降の政治理論家は、富、財産、利得の成長過程に直面した。この着実な成長を説明しようとして、彼らの注意は、当然、成長過程そのものに引きつけられた。この結果、あとで議論しなければならないような理由によって、過程という概念が、新しい時代の中心用語となり、同時に新しい時代によって発展した歴史科学と自然科学の中心用語になった。
(p161—162)


ここもなんか重要なこといっているような気がするので引用してみたけど、ぱっとどこが重要かと考えると思いつかない・・・質より量、計量化、(自己の実感の範囲を超えた)数量化がその当時の人間の準拠枠を変えていくというような話だろうけど。一方、過程、数量化できるものは労働だけであるから、この準拠枠変化が労働の地位向上?へ大きな力を与えたのではあるまいか。勿論、科学的学問の発展へも同じく道筋を示したものだとも言える。
(2013 01/07)

仕事から労働へそして消費者社会


労働側では分業が進み、労働者は互いに交換可能になる。今まで「仕事」の分野とされていた耐久材(机とか)もどんどん「労働」になっていく。今では「仕事」は芸術家くらいか、と言えるほど(これはアートという言葉の変遷考えればわかる)。
一方、消費側では、労働社会は裏返せば消費社会。労働をどんどん機械化していくことにより、「余暇」が増える。消費側でも労働側と同じように短期サイクルで消費が進む。大衆社会、それから今のグローバリゼーションとかも説明できそう。一つの見取り図ではあるだろうけど、魅力的な見取り図ではある。

最大の消費行動とは


第3章「労働」を読み終えた。

 世界とは、地上に打ち立てられ、地上の自然が人間の手に与えてくれる材料で作られた人工的な家であり、それは、消費される物からできているのではなく、使用される物からできている。
(p197)


労働ー仕事、消費ー使用、過程ー世界、という図式。人間以外の動物は前者はできるが後者はできない、というのがアレントの主張。その人間独自の生命が、労働(自然)の円環に脅かされている、と警告する。

 社会は、増大する繁殖力の豊かさによって幻惑され、終わりなき過程の円滑な作用にとらえられる。
(p198)


家も自動車もそのほかもろもろも、消費のサイクルになってきていると言えばいえる。どんどん価格を下げる為に、企業は海外の発展途上国に「奴隷的な、でも現地の人からみれば魅惑的な)労働力を求め、また市場を求める。このサイクルはいつか止まらざるを得ないのではないか?止めない為に最大の消費行動である「戦争」を企画?する。
これに対する「世界」は「仕事」によって作り上げられる。その話は次章で。
(2013 01/09)

労働歌と仕事歌?


実は仕事の章を読み終えていた「人間の条件」、今日はその注の箇所から。労働歌は存在するが仕事歌は存在しない、というもの。確かにこの章でのアレントの議論ふまえると、労働と仕事を区別する方法として歌えるかどうかは使えるかも。もの作りの職人は歌っていないからなあ。

で、今日はそこから活動の章へ。活動や言論のそもそもの最初には、自分が何者かであるかの暴露があるという。この何者かはその人固有のもので、フーであってホワットではない。通常の人間理解において他者を人は「男である」「○○会社の人である」と何らかの属性によって理解するが(これは哲学的定義も同じ)、これはフーではない。こうしてみると(今気づくのもなんだが…)、アレントが挙げる3つの行動(労働・仕事・活動)は、人の区別ではなく、同一人の行動の取りうるバリエーションであるわけだ(もっとも、前章までの議論は労働者対職人という区別でやっていた感もある)。
(2013 01/15)

人は何をしているのか

 だれ一人として、自分自身の生涯の物語の作者あるいは生産者ではない。
(p299)


一見、えっと思う文章だけど、アレントによると、人々の活動は本人すらもわからないもので、それを「製作」する作者(この作業は仕事となる)が物語作者となるらしい。あと、アリストテレスは活動重視のポリスの中で、製作を重視した人とアレントは考えているようだ。
(2013 01/16)

平等と同一性


「人間の条件」の活動の章から今日は標題の話題を。平等というのはそれぞれの差異を認めた上である条件を等しくするもので、皆同じという同一性とは違う。アレントのいう公的領域では平等であって同一性ではない。一方、労働社会・消費社会では同一性(平等ではない)といえる。
人間が同一性に立ち向かう場面がもう一つあって、それが死とか神の前の平等(ではなく同一性)。どちらの同一性も平等とは異なり、各個人の孤立性が問題となる。ここいら辺、へーゲルまでの哲学と、マルクス(労働社会)・キルケゴール(神の前の孤立)の哲学との分かれ目かな?
活動のところは正直ピンと来ないところも多いなあ。これも労働社会にどっぷり浸かっている証拠、なのか。
(2013 01/17)

活動からの逃亡?


「人間の条件」から活動の章、真ん中辺り。アレントによれば、活動に関わっている人自身、或いは哲学者などが、活動の不透明な部分を嫌って活動から他の分野(だいたい製作、仕事となる)に変換させようとする誘惑にかられるらしい。こういった誘惑が古代ギリシャの僭主政治やプラトンの哲学王などに現れる、という。そしてそれは機能的にうまく行き過ぎるから問題なのだ、と。
さすがに「全体主義の起源」(未読)書いたアレントの指摘であるが、これが20世紀の全体主義や開発独裁制にどう繋がっていくのか、或いは変化している箇所があるとすればどこか。考えどころ、読みどころはそこだろう。
(2013 01/19)

製作と活動の問題点


標題について自分なりにまとめを。
製作(仕事)に関しては、そこに含まれる暴力性(テーブルを作る為には自然の木を切らなければならない)と、目的の為なら手段が容認されるところ。これがこの間書いた本来なら活動であるべき政治分野にすりかえられたらどうなるか…

 目的として定められたある事柄を追求するためには、効果的でありさえすれば、すべての手段が許され、正当化される。こういう考えを追求してゆけば、最後にはどんなに恐るべき結果が生まれるか、私たちは、おそらく、そのことに十分気がつき始めた最初の世代であろう。
(p359ー360)


さて、活動についての問題点は、一方で行為者は自由であるのに、もう一方ではその行為は制御不可能で不可逆的に進むということ。だから、一番自由なはずの活動が、一番不自由に見えてしまうという逆説が生まれる。だから、また、製作に抜け出ようとする…
(2013 01/21)

活動の2つの臨界点

 なるほど、人間は死ななければならない。しかし、人間が生まれてきたのは死ぬためではなくて、始めるためである。
(p385)


「人間の条件」の「活動」の章を読み終えた。あとは近代の章だけ…
活動の2つの限界点は(他の労働や製作がその外部から解決策を与えられるのに対し)自らの内部から出てくる。不可逆性に対しては「許し」が、不予言性に対しては「約束・契約」が…そしてこれらは活動自体の前提条件でもある多数者性があって初めて機能する。うーん、最近自分でも流されてばかりで、その流れに棹を立てることはほとんどしてないなあ…昨年読んだカントもこのアレントも筋道は違えど人間の独自性を考えてきたんだなあ。ちと自分が恥ずかしくもあり…
(2013 01/21)

先例のない発見はない


昨夜読んだところの「人間の条件」ですが、どっちかと言えば科学史的に面白かった。ポイントは標題に書いたもので、例えば地動説でも第一発見者とされている人の前にも、古代などでもそう考えていた人はいた。でもそれを証明する手立てがなかった。というところ。近代から始まった視点の相対化、宇宙の延長の中の一つでしかない(逆に言えば、宇宙のどの点で起こっている事象でも地球上で起こせる)の記述…などなど。
(2013 01/23)

懐疑と確信

 人間は、なるほど、与えられ啓示されたものとしての真理を知ることはできないが、少なくとも、自分で作るものは知ることができるというものである。
(p448)


根底にはデカルト的懐疑がある。アレントによれば、望遠鏡の発明によって、日常的経験と異なる世界が発見され、今までの与えられた自然は欺きの自然なのではないか、との懐疑が生まれる。その底なし沼のようなものからの救出が、自然との切り離し、自分の作り出す世界への確信。ここで、観照から活動そして製作への価値観の転倒が起こる。
製作は暴力を内に含む。自然から何かを奪い取り、エネルギーを放出する。
(2013 01/26)

西洋哲学史を見る時のアレント式見方


今さっき読んだ「人間の条件」からメモ。
プラトンが洞窟の比喩であの世とこの世の価値を転倒させてから、西洋哲学はずっとある価値観から反対のある価値観へと転倒させてきただけである、という箇所。転倒そのものが重要であり、その構成要件は何でもよかった、とまで言っている(p461付近)。
科学や哲学が「なに」「なぜ」から「いかに」へと重心を移した。過程の重視と、自分が作ることを通してでしか自然を理解できないという世界疎外(p465付近)。
観照という実践は、イデア・製作物のモデルを、実際の製作によって形にしないで、ひたすらモデルを思い浮かべることで美を追求する。こうした考えを中世では哲学者が製作者に呼び掛けていたらしい(p476付近)。
これなどは、今でもかすかにあるとは思う。
(2013 01/27)

世界と個


近代になって人間は個人の内省の中に戻された。そして、世界の一部であるという繋がりをなくし疎外された。それとともにキリスト教で強調された生命至上主義…と、考えていくと、近代以降のいろいろな動きが理解できるのかも。例えば衛生観念。近代以前は世界と個が静態的に結びついていた為に変えようがなかった病気が、世界と個が切り離された為外部から身を守ろうとする思想に繋がった。

「人間の条件」やっと読み終え

 今日の科学が与えている世界像は世界のリアリティではなく、なにか人間の精神がつくりだしたパターンのようなものにすぎないということである。私たちは世界をもはや永遠に理解できない地点まで不可逆的にきてしまっているのではないか、というのがアレントの根本的な懐疑なのである。
(p532)


訳者志水氏の解説より。今カオス理論とか複雑系とかいろいろ面白そうな科学があるけれど、そういう極大から極小まで同一性が見られるという見方は、上記文の典型的な現れなのかもしれない。
(2013 01/28)

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