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「夷狄を待ちながら」 ジョン・マックスウェル・クッツェー

土岐恒二 訳  集英社文庫  集英社

南アフリカの作家クッツェーの「夷狄を待ちながら」を読み始めた。解説にはブッツァーティ「タタール人の砂漠」に似ている、とあったが、なんだかそれより(さすがに)不気味そうな気配が最初っから濃厚…拷問の話だし…
(2010 06/08)

作品全体の鍵?

クッツェー「夷狄を待ちながら」の第1章を読み終わった。現代とか他の具体的な時代をイメージしているのではなく、様々な時代や場所のエッセンスがいろいろ混ぜ込まれて純粋培養したような感じがする。
(この一因として、民政官が趣味?でやっている砂漠の中の遺跡発掘のことがあげられよう)

 私はある意味で事情を知り過ぎている。そうしてこの事情通という病からは、いったんそれにかかってしまうと、もう回復の道はないらしい。
 結び目は環をえがいてそれ自体へと戻るもの。私は末端を見つけることができない。
(p51)


上の文では、語り手である民政官の性格がわかるような気がする。細かいことにも気がつき、気にかかってしまう。そうして、この語り手の運命も?下の文は今のところ名何のことだがさっぱりわからない。前後の文を見てみてもよくわからず。こういった文は作品のラストまで行ってもう一度読んだら重要な鍵でした・・・ということが多い、のでよーく覚えておこうっと。
(2010 06/09)

 彼女と私とのこれらの肉体は、希薄な、ガス状に拡散した、中心のない、あるときこちらで渦を巻いていたかと思うと次の瞬間には別のところで濃密化し、凝結するかと見えるが、また同時にしばしば平べったい、のっぺらぼうの空洞でもあるらしい。
(p79)


この架空の時間と場所の物語は、一見現在の南アフリカを描写しているように見えて、あるいは過去の(おそらくヨーロッパ人が進出し始めた頃の)南アフリカ、あるいは古代中国、そして目を宇宙に転じ銀河とまた別の銀河との衝突を見ている、のではないかと思える。こうして時空を様々に移り変わる?のがクッツェー流?
(2010 06/14)

二つの空虚


「夷狄を待ちながら」の続き、第2章後半。一番始めに語り手である初老の民政官が夷狄の少女にあった記憶がどうしても出てこない。この少女を町で拾ってお気に入りにしている(具体的にどんな関係なのかは実際に読んでみてください)のだけれど。

一方、夢では、少女が雪で作る現在住んでいる城塞都市と全く同じ街に人がいない…なんだか空虚な雰囲気が漂う。昨日読んだ中にも「のっぺらぼう」という言葉が出てきたが、まさにそんな感じ。
この先、物語に何が残るのか?
(2010 06/15)

第3章 夷狄の居住地に行く探検行

「旅」ということで?幻想的な表現が多く出てくる(気がする)。

 われわれの住んでいる媒体は空気ではなく砂となっている。魚が水中を遊泳するように、われわれは砂のなかを泳いでいるかのようだ。
(p137)
 そこでわれわれはまだ湖をあとにしていなかったことに気づく。湖はここ、われわれの足元に、あるいは何フィートもの厚さのある層の下、またあるときは薄黄緑色のもろい塩の薄膜の下に、広がっているのだ。この死んだ水の上に太陽が最後に照り輝いて以来、どれほど長い年月が経っているのだろうか。
(p139)


砂に沈んだ湖?アフリカ南部なら、あるいはそういった場所が実際にあるのかもしれないが・・・
でも、実は何か(誰か)の脳内を歩いている、という気もしてくる。それが、この後出てくるつかず離れずの12人の夷狄を描く表現につながっていくような気も。

 あるいはおそらく、これまで言葉に表現されなかったことだけが生き抜かなければならないというのが真相かもしれない。
(p148)


どこかで言葉にしてあったらもうその生き方には意味がない(できない)、というのか。まあ、その考えに賛成とも反対とも言わずに、語り手はじっと考えていくのだけれども、そうしていくとその言葉は不透明になっていき意味を失っていった、という。
それは、カルヴィーノの「難しい愛」の詩人の話の「黒」に対する「白」なのか。雪が降るシーンと合わせて。
(2010 06/17)

 そういうわけで私は依然としてあの女の姿をめぐって旋回と急襲をくりかえし、女の上につぎつぎと意味の網を投げつづけている。
(p185)


昨日の朝読んだ所から。この後ですぐ出てくる烏を連想させる、とともに言語行為の成り立ちを説明しているかのような文だ。
今日は老いた民政官が勾留され、そこからの逃避行のところ。ここでは自由とは何か、についても考慮されているらしい、確か。
(2010 06/22)

甦るカヴァフィス

 せめてこれだけは、もしそれが言われることがあるとしたら、言わせて欲しい、もしいつか遠い未来に、われわれがどんな生き方をしたかに関心をもつ者が現れるとしたら、ここ、光の帝国の最果ての辺境の入植地に、その心においてけっして夷狄の番人ではなかったひとりの男が存在していたということを。
(p234−235)


意地の悪い読み方かもしれないけれど、この物語が直接下敷きにしていると思われる南アフリカ植民地初期時代に、果たしてこのようなことを考えていた人物がいたかどうか?いなかった可能性の方が高いかな?という気もするが、そこを信じるのがクッツェーの信念なのだろうか? 

ここら辺りにおいて、「タタール人の砂漠」より、ローマ帝国の崩壊?を扱ったカヴァフィスの詩の方に立ち位置が近いという気がますますしてくる。

p246からの節は、この小説最大の読みどころかもしれない、たぶんそうだろう、老民政官が夷狄の遺跡から出土した木簡を(勝手に)読むところ。特にp251の1ページにはこの小説の成り立ちや、クッツェーの小説論にもなりそうな、メタ小説についての記述と耳をすませば聞こえてくる無名の死者の言葉を聴くのだという思いが綴られている。

・・・と第5章にも突入し、一つ気になったことがある。
この語り手の老民政官はどんなに拷問で身体が弱っている時にも、滞りなく語りを読者に送ってくる。そんな余裕ないだろう?と率直に思うのであるが、かといってこの語りが回想でできているとも思えない。この民政官がこの後全快して立ち直るとも思えないし、思い出そうとする語っている現時点での苦労が全く出てきていない。不思議な語りである。
ひょっとしたら、語り手は耳をすましているクッツェー自身? 昔この場所にいて、拷問から立ち直ることができないで死んでいった者の叫びを再構成(時代を越えたメタ記述含む)しているのでは? まあ、この先老民政官がどうなるのか、まだよくわかっていないのであるが。
(2010 06/24)

帝国に侵入してくるものは・・・

 そのときクライマックスがやってこようとしているのを感じるー遥か遠い、かすかな、まるで地球の反対側で起こった地震のような。
(p334)
 そうしてクライマックスがくる。遥か遠い海上で一瞬光ってたちまち消えてしまう雷光のように。
(p335)


やったらめったらクライマックスが来てるが(笑)、これは娼館?でのこと。老民政官・・・年老いた男ってこんな感じ?まだ私にはわからない(笑)。ただ、表現的には繰り返し効果もあり面白い。

ということで、「夷狄を待ちながら」を読み終えました。この小説の一つの味であるどんなときも置かれた立場を批判的に見る現在形語り口は、やはり意識的なもの。

 現在形の語りに読者が感じるのは、完結してしまった出来事ではなく、まだ完結していない出来事を自分もまた体験しているという感覚ではないかと思う。読者はいわば宙吊りにされたまま、判断停止に追い込まれ、ただ語り手の言葉を追うしかない。
(p354)


と解説で福島富士男氏が述べている通り。宙吊りといえば老民政官になされた拷問のひとつにそんなのがありましたが、小説の読者の姿をもそこで映していたのかな?
あと解説からもう一つ。

 彼は帝国の官吏であり、彼の言葉は帝国の虚偽の歴史を反復するほかないからだ。ジョル大佐の拷問を受けた夷狄の娘を介抱する彼は、結局自分とジョル大佐とは帝国による支配の両面ではないのかと思う。
(p350)


だからこそ、老民政官は自分が集めた遺跡から出土した木簡を埋め戻して、夷狄が侵入してきたら彼らが歴史を再構成するだろう、と思う・・・わけか。
この辺、かなり現代的課題を秘めている。結局、この小説内で夷狄が町を襲うところは出てこないのであるが…

さてさて、帝国を人類全体、夷狄を他の動物、そうだなあ例えばゴキブリや鼠あたりにしてみたらどうだろう? ゴキブリや鼠は歴史を再構成するのだろうか・・・
しないだろって安易に考えてはこういう小説読んだ意味ない。少なくともゴキブリや鼠に拷問はかけてますね。でも、いつか、きっと・・・(ゴキブリや鼠が人類を襲う・・・)。鼠といえば、グラスの「女ねずみ」もありましたっけ。でも、それよりなにより架空のエリザベス・コステロという老女性作家を創りあげて動物権利擁護の講演などさせているのはクッツェー自身・・・
・・・(ゴキブリや鼠が人類を襲う・・・)
・・・(ゴキブリや鼠が人類を襲う・・・)
・・・えーっと、考えるのやめとこ(笑)。小説内のセリフ(さっきの老民政官の相手をしていた女の)をさっと引いて終わりにしよっと。

 未来のことを思い煩うには人生はあまりに短いもの。
(p336)


(2010 06/26)

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