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「時は老いをいそぐ」 アントニオ・タブッキ

和田忠彦 訳  河出書房新社

円と井戸


今日からタブッキの「時は老いをいそぐ」を読み始め。前は追いかけていた作家の一人であるが、意外に久しぶりでもある。
緩やかなつながりを持つ連作短編集らしい…まずは最初の「円」から。

そのおばあさんの姿が埋められた井戸みたいな記憶の底から浮かび上がってきたのだ。
(p13)


どうやらこの短編の語り手(いや、なんか語っているわけではなさそうだから…想い手?)の祖母はベルベル人の地からやってきた人らしい。埋められた井戸というのが強烈な印象残すけど、それは水出なくなって捨ててきた砂漠の村の井戸のことでもあるし、子供のいない想い手自身のことでもある。でも馬達が円を描いてギャロップする幻想的な後半部分では、ベルベル人の地のことを全く知らない想い手にもベルベル人の太鼓が内側から聞こえてくる。
でも、前半部分と後半部分、井戸と円のつながりが自分にはあんまり感じられない…穴が空いた感じ。連作短編集の最初だから、全体への謎かけみたいなものだろうか?どうだろうか。
(2012 05/14)

背中と井戸


またしても井戸。なんか「井戸を巡る断章」とでもした方がよさげな「時は老いをいそぐ」。今日は二つ目の「ポタ…」(ポトかも?)を。テーマ的にも、話題の移り変わりが相互浸透的な手法にも、なかなか難しいものがあり一筋縄ではいかない作品で、こういうのは眠い中で読みたくは(本当は)ないのだが…語り手(今度は語っているだろう…)の背中の正確な一点から身体全体に投射する痛みというのが、リアルでし(笑)。それと井戸とはどういう関わりがあるのか…
(一番印象的なのは夜を迎えるシーン)
(2012 05/15)

壁から脂へ


「亡者を食卓に」。このタイトルはアラゴンの詩からとったもの。この作品は前の2作品よりやや筋がわかりやすい。ここからが東ヨーロッパ彷徨実践編?なんだろうか。
で、元東ドイツのスパイの老人が住んでいるベルリンを彷徨したら、昔彼の標的だった男(解説によるとブレヒトらしい)の墓の前に来ていた、という物語。
作品冒頭の路面電車のガラスに分断された自分の姿、あるいは壁のあった頃に郷愁を感じているなどの昔…今の時代は、彼にとっては皆身体の中から脂ぎっている時代だと見えるらしい。
そんな彼もスパイされてたらしいけどね。
今回はこんなところ。
(2012 05/17)

二重写しの謎


今朝は「将軍たちの再会」を読んだ。核の物語はハンガリー動乱で敵味方に別れて戦った将軍2人がモスクワで3日間を過ごすというもの。別の人が書けばものすごく感動的にしてしまうようなこの素材を、物語論とか語る場の情景などでずらしながら、まるで素材をできるだけ隠しておこうとするかのように語る。
で、結局、ハンガリーの将軍がモスクワで出会った相手側は、自分と二重写しみたいな人間…そんな人物が実際いるのかどうかとても気になる…そいえば、前の作品のスパイとブレヒト(と、しておく)の関係もそういうものではなかったか。ペソアも含め、タブッキにとってこうしたテーマはもっとも核にあったものだったのだろう…
(2012 05/18)

想起のいろいろ


「時は老いをいそぐ」の中でも掌編の「風に恋して」。間奏曲的な役割かも?
まずはこんな文から。

 空の碧が一角にのぞいた隙間を埋めていた。
(p109)


建物の間の空を見上げた時の表現。なんかいいなあ。視点を逆にした表現とも言えるし、絵画的表現とも言える。うまく言えないけど。
この文はもう結末直前にあるのだけど、その結末は聞こえてきた女の歌声につられて古いバラッドが男の口から出てくる…というもの。

 あの誰も歌うことのなくなった歌、歌っていた人びとはみな死者となって、その題名も、時代もわからなくなってしまったーそんな歌だったかもしれない。
(p107ー108)


引用は前後するが、そういう歌が直接知らない男から出てくる…想起というものの不思議さ…この本の謝辞でタブッキは耳を澄ませることを心がけたというようなことを書いてますが、それはそういう歌を聞き取りたかったから…
舞台はナポリ?(まあ、どこでもいいのだけれど…)
(2012 05/19)

フィルムのない映画祭


今朝は「フェスティバル」。トリコロールの監督(早口言葉みたいに言いにくい名前の人)と、その弟子の脚本家に捧げられています。

 ただ、八百長と承知していてもひとがのってしまうのは、いつか勝ち札が手元に廻ってくるかもしれないと期待をかけるせいです。
(p116)


ここなどは、賭けとか博打とかにおいて、変動比率スケジュールというシステムにより欲望が増幅されているという心理学の話を思い出す。期待というもの、希望というものはこうやってでしか生まれてこない…人間社会なんてほとんどが八百長だから…
この短編、社会主義政権下のポーランドが舞台なのだけど、そして具体的なポーランド現代史が絡んでくるのですが、直接に地名が出てくるのは、たった一度、ワルシャワの名前のみ。
そして、標題。脚本家ならぬもともとは政治犯の弁護人だった語り手は、ある日法廷の中の映像を撮りたいと言ってきた。カメラのあるなしで判決まで異なる結果となったわけだ。その後、フィルムの在庫が無くなり監督はこなくなった。でも、脚本家はフィルムなしでもおいでください、と誘う、という筋…
(2012 05/21)

かわいいと変わってるの間の水平線


結局、帰りに一編読んだ「時は老いをいそぐ」から「雲」。場所はクロアチアの海岸リゾートで、コソボの平和維持軍に参加した男と、リゾート客の娘の、なんかかみ合っていそうでいなさそうな会話が前面に繰り広げられます。かみ合っていなさそうなのは二人の会話だけでなく、一人の人間にとってもそれが言えそう…

 詰まるところ歴史ってやつは、こんなふうにまとめられるってことなんだ。
(p139)


娘が口癖のようにかわいいと変わってるを交互に使い、それを男の方も使う…この2つの言葉は、まとめられることのできない、そういう差異を現しているみたいで、そこをタブッキの好きな水平線という言葉で言い表せないか?と思ったりする。
(2012 05/22)

固定化する夢と聞こえない声


今朝は「ブカレストは昔のまま」。ブカレストでファシスト政権下、チャウチェスク政権下で暮らしてきて、イスラエルに亡命したユダヤ系の老人と、亡命した時にはお腹にいた息子の意識の対話。老人はブカレストの収容所にいた頃、よく門だけあってその先には何もない…という動かない夢を何回も見た、と語ります。そしてそこで強調するのは、声が聞こえてきそうだけど聞こえない、ということ。夢は感情が何らかの変容を伴って出てくるもの。脱出したいという願望と、父(たぶん)からの禁止の掛け声への恐れ?なのかな。
亡命してからは見なくなったというけれど、また最近見るようになった。今度の門の先には何が…

そしてこの作品タイトルは老人が作品の最後に言う言葉。イスラエルのテルアビブを見下ろしながらこう語る。これは固定化する夢が現実に転嫁されたのかな。
現実の時間と感情の時間は流れ方が違うらしい…
(2012 05/23)

いきちがいとその下の層


昨夜、「時は老いをいそぐ」の最後の短編、「いきちがい」を読んだ。語られている人物を示している言葉がだんだん微妙にずれてきて、いきちがいというよりずらしという感じなのだが、飛行機が滑走路に着陸するところの一文が印象的だったので、引用してみる。

 そうこうしているうちに機体はようやく着陸にかかり、彼の下を走る滑走路が見えてきた。そこに描かれた断続的な白線は、スピードのせいで一本のつながった線になっている。到着したのだ。
(p193)


この(滑走路の)点線と直線という対比は、その上の機上にいる主人公?の読んでいる「マガジン」に掲載されているいろいろな事件と現実の時の流れというのにオーバーラップされて読みながらある種の快感を覚えるのですが、読み終わったあとで振り返ってみると、その対比はこの短篇集全体の縮図にもなっていないだろうか、とも考えたくなる。

ということで、これで「時は老いをいそぐ」を読み終えた…が、この本に限らないことだが、なんか大きく読み落としている気が。他の本の場合はその読み落としが、抜け落ちとか気づかないとかそういう感じになるのだが、この本(というかタブッキの場合というか)の場合は自分が読んでいる層の下に、また別の透明な層がありそうな気がしてならない。そこでは物語の上の層と全く違うシステムで動いている…そんなような。
(2012 05/29)

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