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「文盲 アゴタ・クリストフ自伝」 アゴタ・クリストフ

堀茂樹  白水Uブックス  白水社


訳者はアニー・エルノー「シンプルな情熱」と同じ訳者(そっち読んでないが)。この訳者がアゴタ・クリストフの邦訳を全てしている。
1995年に著者が来日し記念講演を行なった。その時の原稿を付き添った訳者が許可をとって「昨日」の巻末に掲載した。その原稿と同じ章題を持つ、ほぼ同じ(推敲等はしている)内容の章が5章分、この「文盲」の中にはある。

「われわれはみな外国人である  翻訳文学という日本文学」野崎歓から。


「文盲ーアゴタ・クリストフ自伝」ハンガリー語を奪われフランス語で作品を書かざるを得ない作家の、フランス語に叩きつけた「否」。

 あの小説を特徴づける、奇妙なまでの表現の乏しさ、貧しさも、またその貧しさによってこそもたらされた、おそらくはいかなる国の言葉にでも翻訳可能だろうと思わせるような、簡潔きわまる小説の威力
(p197ー198)


(2019  12/31)

文盲状態とそこからの脱却

一昨日の夜と昨日で読み終え。本文100ページ切るのに加え、文字大きくて行間も広い。独特のページイメージだが、それは作品とは関係ない。

 そんな理由から、わたしはフランス語をもまた、敵語と呼ぶ。別の理由もある。こちらの理由の方が深刻だ。すなわち、この言語が、わたしのなかの母語をじわじわと殺しつつあるという事実である。
(p43)


(「そんな理由」とは、辞書引かないと言葉がわからない、など)
体験ないから擬似体験するしかないのだけれど、それでも思考が蛇のようなもので締め付けられる、あるいは毎日ぽつぽつと単語が頭の中から落ちて砕け散る、と想像してみる。

 彼ら(ロシアの反体制作家)はどう考えているのだろう? 自分たちの間に現れた暴君によって災いを被ることになった彼らは、その同じ災いに加えて、外国-彼らの国-による支配をも被ることになったあれら「取るに足らない小さな国々」のことを、どう考えているのだろう?
(p49)


自分もこうした問いをロシアの作家について考えたことがなかったので、この問いは胸に迫る。

 奇妙なのは、この亡命の経過について、わたしにわずかな想い出しか残っていないことだ。あたかも当時のすべてが夢の中で、またはこの人生とは異なる別の人生の中で起こったことででもあるかのように。あたかもわたしの記憶が、わたしが自分の人生の大きな部分を喪ってしまったあの時のことについては、想い出すことを拒んでいるかのように。
(p60)

 わたしが悲しいのは、それはむしろ今のこの完璧すぎる安全のせいであり、仕事と工場と買い物と洗濯と食事以外には何ひとつ、すべきことも、考えるべきこともないからだ。ただただ日曜日を待って、その日ゆっくりと眠り、いつもより少し長く故国の夢を見ること以外に何ひとつ、待ち望むことがないからだと-。
(p72-73)


日常のルーティンを憂いていて共感しそうになるけれど、自分と彼女とには断絶がある。自分の故国とのつながりが永久に切れてしまった感覚。ただ彼女の場合、故国から仕事の合間に書いていた詩や戯曲が、そこからの一歩を踏み出させる原動力になった。

 子供たちからある単語の意味を、あるいはその綴りを問われるとき、わたしはけっして言うまい。
「知らない」と。
わたしは言うだろう。
「調べてみるわ」
そしてわたしは、倦むことなしに何度でも辞書を引く。わからないことを調べる。わたしは熱烈な辞書愛好家となる。
(p90)


消え去る記憶の断片を連ねたような、断片と断片のつながりが欠如している、そのような書き方。「自伝」という触れ込みで読むと肩透かしを喰らうこの書き方は、アゴタ・クリストフ自身の記憶の現れなのだろう(p60の文で書かれているように)。例えば、何故彼女は小さな娘を連れて亡命しなくてはならなかったのか。ハンガリー動乱が影響しているらしいのだが、その詳細は全く書かれない。おそらく、記憶が抑圧されて、歪んだ記憶を取り出すことに抵抗があるのだろう。

しかし、彼女はこの「文盲」状態を抜け出す手掛かりを得ることができた。p90の文は感動的でもある。ただ、p73-74で言及されているように、そこから脱出できず、刑が待っているのに故国に帰っていく人や自殺する人もいる。訳者堀氏は「彼女はインテリではない」というが、彼女が自分を維持できるきっかけとなった詩や戯曲は、ある程度の教養がないと身につかないものだろう(冒頭で父親が村の教師であることが描かれている)。今、自分が思うのは、亡命してきたうちのそのようなきっかけを持てなかった人々。そして亡命など考えられなかった人々のこと。
そこから脱出するために、こうした本を読む意味がある。
(2023 06/25)

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