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「フランス現代哲学の最前線」 クリスチャン・デカン

廣瀬浩司 訳  講談社現代新書  講談社

アリストテレスとベルクソン


「フランス現代哲学の最前線」から。

 われわれは統一的な基準点を持たず、完全な首尾一貫性を欠いた、さまさまな局面のなかで生きているということである。
(p26)


ギリシャの神話は古代ギリシャ人にとって、神話を信じている局面と合理的に判断している局面…など、これらが並列状態…
この箇所のあとで、アリストテレスは「人間は空間化されたところでしか生きられない」と言っているのですが…時間重視のベルクソンとは正反対(なのかな)。とにかく知と空間が区分されるとあるけれど、知の切り分けというのはなんだろう。言語の切り分けみたいなところかな。
(2017 04/25)

空間と言語化


「フランス現代哲学の最前線」は第3章。構造主義のところ。
各主体を越えた要素間の秩序に拠るのが構造主義なんだけれど、その秩序の上でなにごとか動く(二つの系の交差?面白そうなんだけどちょっと理解できなかった…)為には、どこかに空間・隙間が必要。
あとはラカンのところで、無意識を言語化されたものとして考えるというのがあった。もちろんその言語化された表面上の意味ではなく、それを発話せしめたものに。
(2017 04/28)

メルロ=ポンティとフーコー

 絵画の総目録を作ることーつまり、そこにあるものとないものを言うことーができないのは、言語学者が語彙を総覧することができないのと同様であり、また同じ理由でそうなのである。どちらも記号の有限な総体ではなく、開かれた領野であり、人間文化のあらたな器官なのだ。
(p55 メルロ=ポンティ「間接的言語と沈黙の声」より)
 権力とは事物でも機関でもなく、本質的には関係なのだ。
(p106 フーコーの箇所)


前者はものが立ち上がるミクロな立ち位置にあり、それを鳥瞰したマクロな立ち位置の構造主義とは正反対な立場にある・・・のかな。対立というより視点の違いで両者は並存しそうな気もするが。
後者は前に社会学の文庫でフーコーの権力論見た時と同じように、フーコーは個人に権力の源泉をみる。あとこのフーコーのところでは、古代ギリシャ・ローマの手帳・日記?が実際の出来事を書き記すというより、自分の信条を書き連ねて心情の安住の地にするという記述もあった。そういうところから理解した方が古代人の理解は正確になる・・・のかな。
(2017 04/29)

ボードリヤールとデコンブとデリダ


「フランス現代哲学の最前線」からまずボードリヤール

 なにも禁じられていない世界では、もはや解放すべきものはなにもなく、いたるところ解放だらけになる。さらに深刻なことに、あなたは性を持っているのだから、その使用法をみつけなさい、と誰もが命令されている。こうした命令は、実はむなしい命令である。
(p147)


外側から無理やり解放、脱がされる感じ?
次のデコンブはフランス哲学にフレーゲやヴィトゲンシュタインの分析哲学を導入している。

 彼は発想を転換して、精神分析を言語分析に結びつけているのだ。精神分析家たちの語る「抑圧」などより、デコンブは秘密の論理学のほうに惹かれている。言葉は思想を伝達するものだ、という確かな常識に対して、彼は言説がまさに思考を隠蔽している例を突きつける。コミュニケーションというあまりにも単純な考え方を解体することによって、彼は言葉が隠すと同時に暴き出すものであると主張するのだ。
(p160)


こうした見方を例えば一昨日の「ジェイン」の変身等に応用したらうまくいきそうかも?
(サマセット・モーム「ジェイン」…光文社古典新訳文庫「マウントドレイゴ卿・パーティの前に」より)
デリダからも引っ張っておこう。わからなさ70%くらいなんだけど。

 理解しなければならないことは、オリジナルがつねに、ある意味では、コピーのコピーにすぎないということである。純粋な直接性という、つねに復活してくる幻想はしりぞけなければならない。
(p173)


この「純粋な直接性」というのがパロールのことで、それがルソーとかキリスト教的現れ(顕現)とかいうのに通じる、というのはなんとなく理解できるのだが・・・脱構築は構築なくてはあり得ないというハーバーマスのデリダへの批判が、デリダからフーコーへの批判と最終的には同じものであるという指摘は、中身は理解してないけれど(笑)惹かれるものがある。
(2017 05/03)
(補足:野家啓一「物語の哲学」でこの「純粋な直接性」について詳しく解説。ルソーやオースティンが批判の対象)
(しかし、30%はわかっていたのか?)

最前線とりあえず読み終わり


ポール・リクールとロールズの「正義論」。
ロールズの「正義論」では「無知のヴェール」という、配分が行われる時点では誰も富めるか貧しくなるかわからない、という前提をとっているのだが、それはあまりに抽象的すぎるとリクール始め、フランス思想界は考えているようだ。

 リクールはこの段階でロールズが、アリストテレスと同じく、正義と自由を適合させようとすることからくるパラドックスに突き当たっていることを指摘する。
(p214)


ニールス・ボーアの言葉

 表面的な真理とは、対立するものが偽であるような命題である。それに対して深遠な真理とは、対立するものもまた深遠な真理であるような命題である。
(p230)


あと二つ引用(用いるところまでいってないが…)

 民主的であるとは、あらゆる形式の権力が、不安定なものに基づいていることを理解することだ。
(p256)
 分析哲学が決定的に重要なのは、だれかが言ったことを理解するということが、それに対する抗弁の仕方を知っていることに等しい、ということを示した点にある。
(p274)

フランス哲学にも英米の分析哲学の要素が入り込んで統合されようとしている、らしい。
この本に全体的に横たわる基調のようなものがあるとするならば、それは唯一の真理や構造に収斂すべきではなく、現実の多様な対立しているものから少しずつ哲学的に有意義な議論を抽出していこうとする姿勢にあるのだろう。
(2017 05/07)

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