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「ことばと国家」 田中克彦

岩波新書  岩波書店

以前読んだ、メンヒェン=ヘルフェン「トゥバ紀行」(岩波文庫)の訳者。ほんとの?フィールドはモンゴルらしい。

「ことばと国家」田中克彦著。1日で読み終えてしまった。ちょっと古めかしい表現や、煽動的言葉もあるけれど、大筋では日本での社会言語学の先駆的啓発書物であるだろう。またこの人の主な研究ホームグラウンドはドイツらしく、イタリアやフランス、日本の事例を出している箇所でも、参考にドイツのことが出てくる。

 ソシュールはその網をとり去って、ことばそのものを我々の目の前に置いてくれたのである。そのことによってはじめて、我々の日常語でことばを呼ぶ名がいかに差別の色に塗り込まれているか、いや、差別こみでなしには、もはやことばを呼ぶことができなくなっていることをあきらかにしてくれたのである。
(p24)


母国語とか方言とかいろいろな言葉。ソシュールはそれをイディオム(特有語」、言語共同体という語に置き換えた。

 日本におけるように、漢字やかなづかいという単なる手段の改変がその都度はげしい抵抗に出あうのも、慣れや有用性の観点からではなく、文字術の秘儀性に身をゆだねてしまった、あの感覚の根がまだ残っているからである。
(p55)


文字を書くという「秘儀」は、その「特権」を守るため、閉鎖的な変化を嫌うように働くようになる。その現れが今日でもあるという。

流れとしては、ダンテ等の俗語宣言と俗語文学、ネブリーハのカスティリア語文法書、フランス革命前後の言語法と政策(ドイツには「アカデミー」はなく、農民の言葉重視と言語統制からの自由の伝統があると著者)と進む。
その後、変容する言葉と社会言語学の実例としてイディシュ語とトク・ピジン語(トクとはtalkの変化したものらしい)が挙げられている。個人的には第4章に出てきたブルトン語で名前を付けようとして出生届を拒否され続けてきた(ナポレオン法典の法律に基づく)という話が気になる。この話の当時20年もその状態だったというが今ではどうなったのだろうか。
(2017 02/05)

この著者で「言葉は国家を超える」ちくま新書、というのが出た。日本語とウラルアルタイ語の議論を中心に、なぜ満州国の国語は満州語ではなかったのか、ハンガリー語とフィンランド語、フンボルトとトベルーツコイ?などなかなか面白そうな話。
上記は未読。まだまだたくさん著書がある。
(2021 05/04)

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