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「孤独の迷宮 メキシコの文化と歴史」 オクタビオ・パス

高山智博・熊谷明子 訳  叢書・ウニベルシタス  法政大学出版局

長野県軽井沢の追分コロニーで「他者の記号学」やロレンス短篇集と共に購入。


メキシコ人は「擬態」をする?

メキシコ人は恐いものと交わることを望み(死者の日とか)、決して自分を「開いた」状態にしない、ということらしい。
(2011 02/11)

今日、午前中は、メキシコの詩人のメキシコ論「孤独の迷宮」から、第2章「メキシコの仮面」を読んだ。アメリカにも滞在経験があるパスは、アメリカ人と比較しつつ、メキシコ人を論じている。そんな中の、刺激的な展開。

 時々、昆虫は、死や空間の慣性に魅せられて、「死んだふり」をしたり、くさった物質の形をまねたりする。この魅惑ーこれを生の引力、と私は言いたいーは、すべての生物に共通しており、それが擬態として表される事実は、我々がこれを危険や死から逃れるための、生命本能の手段としてのみ考えるべきではないことを確かなものにする。
(p38)


生物学者(特に昆虫学者)がこれを読んでどう考えるか? はさておき、なかなか魅力ある考え方ではないか。では、「擬態」をするのは何故?なのだろうか。

 広がること、空間とまじりあうこと、空間であることは、外見から自分を拒むための一つの方法であるとともに、「外見」だけになる一つの方法である。
(p38)

 彼は他のものであることを装い、むしろその内心を開いたり変えたりする前に、死または非存在の外見の方を好む。要するに擬態的な偽装は、我々の閉鎖性が持つ多様な形態の一つである。振りをするものが変装に訴えるとすれば、それ以外の我々は気づかずに済むことを望む。いずれの場合も我々は自己の存在を隠す。
(p38)


わかったようなわからないような・・・だけど、詩的な表現も含め、読む側に迫ってくるものがある。それに、これはメキシコ人のことだけでなく、自分たちの日常生活にもこういう「擬態」がないだろうか?考えてみたくなる。「擬態」が特に悪いというわけでもないだろう。逆に必要不可欠なものとなる場合もあるだろう。
とにかく、なんとなくではあるけれど、メキシコ始め中南米の映像を見たり、そういうものが蓄積して頭の中で形成されたイメージを思い浮かべると、こんな「擬態」の風景が割とすーっと胸に入る。

 インディオは景色に溶け込み、午後のひととき、凭れかかる白壁や、真昼に寝そべるうす暗い地面や、彼を取り囲む静寂とまじりあう。
(p37)


(2011 02/13)

死刑執行人の孤独


今日は第3章。そこでは古代アステカや中世キリスト教徒より、死を遠ざけているゆえに、生にも遠ざかっている…という指摘があった。まあ、こういう議論の展開はよくありがちだと思われるが、アステカの生け贄と儀式執行人には共に生と死を分かち合うという世界観があったのに、現代はその結びつきも切れている…死刑執行人はますますその孤独を深めている、という書き方に惹かれる。なんかそういうテーマの小説があったような気もするのだが、死刑執行人というのはそのものだけでなく、言ってみれば現代的生活を送っている一人一人が誰かの犠牲で成り立っているわけで…そう考えると…
(2011 02/14)

新たな定義

 サディズムとは、女性の閉鎖性に対する報復として、または我々が感じ得ない肉体に、返答を求めようとする絶望的な試みとして生じるものである。
(p64)


(2011 02/16)

 メキシコ人とメキシコ性は訣別と否定として定義される。そして同様に、探求として、その流刑の状態を超越しようとする意志として、定義される。
(p89)


「メキシコ人」とはスペイン人でもインディオでもない人々…なのだそうだ。コルテス始めとする「征服する」「開く」庶民にとってはずっとよそ者である「マチョ」と、マリンチェに代表される「征服される」「開かれる」庶民たち。メキシコ人とはこれら相反する性格の葛藤の上に成り立っている…という。

植民地・独立、そして革命

第5章は植民地時代のメキシコについて。ソル・フアナという詩人であり尼僧であり劇作家でもあった女性の知的好奇心は当時としてはかなり例外的…だという。17世紀のこと。次の世紀は独立の世紀、なのかな?
(2011 02/20)
(ソル・ファナ「知への讃歌」 光文社古典新訳文庫(旦敬介訳))

 その革命は我々の過去を取り戻し、それを同化して現在に生かそうとする運動であったことに気がつく。孤独と絶望の結果ららくるこの復帰への意欲は、我々の歴史生命のすべてを支配していると思える孤独と交わり、結合と分離の弁証法的な一面といえる。
(p155)


第6章「独立から革命へ」。自由主義から実証主義に屋根だけ取り替えて、結局のところ実質は変わらなかったディアス独裁政権・・・のあとに「メキシコ革命」がくる。メキシコ人はこれに異様な情熱をもっているのだが、正直日本人(他の国の人も?)にとってはそこがわからなかったりする。
今回のパスの説明で、歴史から断絶されたメキシコの様々な人々が、歴史と精神的拠り所を求めていたのだなということがわかる。それが「交わり」というところであり、今でも「祭り」にのみ開放されるものである。ということはメキシコ革命は大いなる祭りというわけか・・・
(2011 02/21)

孤独と交わり


「孤独の迷宮」7章8章と現代の分析が続く。解説では高山氏が「メキシコ性の発見というより、メキシコの価値観からの脱却を意図している」というようなことを書いていた。なるほど。確かに7、8章では「メキシコの問題が世界の人々の問題と一つになってきている」といったような主張が度々なされる。何十年前に書かれたのに、今のグローバル経済社会を分析しているかのような…凝固(パス)か流動(バウマン)かはともかくとして…

で、この本の最大のキーワードは「孤独と交わり」なのだが、メキシコ人みたいにみんなが「仮面」をつけてる現在、そこに交わりを見つけだすのは祭りの時でも困難かと思われる…パスも標題に「迷宮」と名付けているようにーでも、突き崩していくのは、ミクロのその視点でしかないかも、と最近思っている。と、言っときながら一番仮面を利用しているタチであるが(笑)…
(2011 02/23)

孤独の弁証法

今朝はというと「孤独の迷宮」の第9章を読み終えて、とりあえずもともとの部分は終了(あとは「ポスダタ」といって追加されたところ)。この章はだからまとめというわけで、メキシコ人の、いや世界の人々の歴史を振り返ったあとでのまとめとなる。
(2011 02/25)

 孤独は、人間という条件の最も根底に存在する。人間とは自分がひとりぼっちだと感じる唯一のものであり、他者を求める唯一の存在である。人間の本性はー本性に対して正に「否」ということによって、己れをつくり出す存在である人間について述べるのに、この言葉を用いてよいのならー他者の中に己れを実現しようとすることにある。人間とは郷愁であり、交わりの探索である。したがって、彼が自分自身を意識するたびに、自分を他者の不在、すなわち孤独として意識するのである。
(p207)


「孤独」と「交わり」がキーワードのこの本全体のまとめにふさわしいこの第9章「孤独の弁証法」の最初の1ページ。

 社会とは、その目的と欲望を正当化せねばならぬ、奇妙な必要性に悩む有機体である。
(p214−215)

上の文も社会学者とかがここ読んだらどうなんでしょうね?
ただ、(引用しといてなんだけど)ここだけ読んでもなんだかよくわからない・・・
じゃ、ちょっと後の文も載せとこう。

 しかしまた時には、その社会の重要な部分や階級の希望と矛盾する。しかも人間の最も奥深くに潜む本能を否定することも珍しくない。この最後のことが起こるとき、社会は危機の時代を迎える。つまり爆発するか、停滞する。
(p215)


他にも男女間の愛情についての話とか、「迷宮」と「宗教」とか、いろいろな視点からの「根底」が説き起こされている。一つ気になったのは、パスの言う「未開人」って具体的にはどんな人をさすのだろう? メキシコ人一般も含むのか、メキシコ国内にも住んでいる貧しいインディオを指しているのか、それとも過去存在した人々を指すのか・・・
では、最後のお約束? この章の最後の言葉を下に引こう。

 現代人は目を覚ましてものを考えていると自負する。しかしこの目を覚ました思考が、我々を曲がりくねった悪夢の路に引きずり込んだのである。そこでは理性の鏡が拷問部屋を何倍にも拡大している。おそらく、そこから出たとき、我々は自分が目を開いたまま夢を見ていたこと、そして理性の夢がむごいものだということを発見するだろう。多分そのとき、我々はもう一度、目を閉じて夢を見はじめることだろう。
(p226)

「ポスダタ」から

 一つの社会が堕落するとき、最初に腐敗するのが言語である。それゆえ、社会の批判は文法と意味の回復とで始まる。
(p253)


「ポスダタ」にある、第11章「発展とその他の幻影」では、主に第二次世界大戦後のメキシコの「発展」と、これから探していかなければならない新しい真の「発展」のモデルについて述べられている。これまでもそうだったが、パスがここで強調していて印象的だったのは、「新たなメキシコのイメージを提示する」のではなくて、「批判」をしているのだ」というところ。常に「批判」し続けていくことが自分の知識人の使命だ、と言っている。それは絶えず自分に刃を突きつける危険な作業でもあるだろう。
(2011 02/26)

アステカの継承者


「孤独の迷宮ポスタダ」を読み終えた。メキシコ性はアステカのピラミッドから変わっていない。中央集権的、官僚主義的に作られるいけにえ、ある周期をもってピラミッドをひっくり返す革命…

ここでパスはウォースラーティンとバウマンの理論を先取り(か、後取りかはよくわからない)していると思う。
まずウォースラーティンでは、単一の巨大帝国ではなく様々な国があって競争している方がその世界全体は発展する…というところ。メキシコの場合、アステカやそれに先行するトルテカより、その前の時代(マヤ文明辺りか?)の方が、各地に文明があって最盛期ではなかったか?とパスは述べている。
一方バウマンの方は、アステカから現代に至るまで「活動的な太陽」の時代としているところ。そこは流動性が支配しており、また批判も新たなイメージを作り出すのではなく石化する世界にひびを入れるためにするのだ…というところ。

この前の第11章ではメキシコ革命時、ビーリョとサパタが大統領府へ入り大統領の椅子を目にした時の挿話があった(わざわざここだけ太字で)。椅子を燃やしてしまおうか、とも彼らは思ったらしいのだが、「それは止めておこう」と恐れ?をなしてあとにした。ピラミッドの頂点はそれだけ恐れられていて、アステカからスペイン副王それから大統領・・・と受け継がれてきた、という。
パスはそこに批判という液体でひびを入れていく、という。このポスタダは1968年10月2日、メキシコオリンピックの年に起きた学生デモを武力鎮圧したことを受けて書かれたもの。パス自身もインド大使の職を辞任して抗議の意を表している。
(2011 02/28)

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