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「他者の記号学 アメリカ大陸の征服」 ツヴェタン・トドロフ

及川馥・大谷尚文・菊地良夫 訳  叢書・ウニベルシタス  法政大学出版局

ポッセとトドロフのきっぱり関係


アベル・ポッセ「楽園の犬」は主人公がコロンブス。解説先読みしてみたら、コロンブスを中世の終わりの人とみるか近代の始まりの人とみるかがいろいろある、と。

追分宿古本屋コロニーで買ったトドロフの「他者の記号学」(さきのポッセの解説にあったので買ってきたのだ)やポッセ「楽園の犬」は、コロンブスを中世とみる。実際にコロンブス時代と同じ船で航海をし書いた伝記作品(名前不明…すいません)やカルペンティェール「ハープと影」は近代とみる、と解説にあった。そういう観点も面白そう。
ただ、「ハープと影」持ってないんだよなあ…手に入るのであろうか。
(2008 10/14)

コロンブスとソラリス

昨日からトドロフの「他者の記号学」を読んでいる。人はどのように他者を認識していくのか?という観点で、ヨーロッパ人にとっての未知なる大陸に住む人々、インディオとの対話、時代は16世紀全般を対象としている。
って書くと、難しそうであるが、コロンブスの思い込みと、自分の都合のよい方に考えてしまうお気楽さ?に、読みながらも、「ダメじゃん、コロンブス」とツッコミを入れること多数。本人が大まじめだから余計におかしい…
レムはソラリスで宇宙生命体とのコンタクトを取り上げたが、そっちはもっと強烈にコロンブス状態になりそうである、実際には…
今日読み始めたコルテスの時期になると、コロンブスより成熟、あるいは世慣れてきたと言うべきか…征服される側の内部分裂を利用しようという、インド独立時のイギリスの政策まで綿々と続いていく植民地政策の初端をここに見るようである。
(2008 11/17)

アステカ側の他者理解とラ・マリンチェ


今度は話題はアステカ側。著者トドロフの観点は、他者をどう理解していくか?という点にあって、アステカ側では、初めて見る他者(スペイン人)の理解ができず(または拒絶し)そこで彼らを「神々」と認識したということ。こうした認識から脱却して、近くにいる人々ではなく、初めて会った他者を自分と同類の人間かつ違う社会の人間として認めること、それはまた、自分とその社会の客観視ということになり、そのまなざしが近代を導いたと考えている。
この区分で考えると、コロンブスやモクテスマは中世、コルテスやラス・カサスは近代ということになるのだろうか。
ただ、違う他者という概念をどこに持っていくかということにより、線引きは変わりうる(ってか、線引きってそんなもの)。
(2008 11/18)

 他者のイデオロギーを取り入れ、彼女の行動の有効性そのものが証明しているように、そのイデオロギーを自分自身の文化のよりいっそうの理解のために利用するのである(ここでは<理解する>ことが<破壊する>ことになるとしても)
(P143)


「彼女」の名前はラ・マリンチェ。元々アステカ出身であった彼女はスペイン軍の通訳となり、コルテスの手先となって働く。この為、現代メキシコ人からは「売国奴」扱いされているらしいが、トドロフが注目するのは、アステカ側で他者の言葉を理解し発言し(コルテスの代理として)動く人間が現れた、という点にある。()の中が皮相であるが・・・
(2008 11/19)

バジャドリ会議


今日からセプルベダとラス・カサスのバジャドリ会議の話になる。前者がインディオ劣等主義、後者が平等主義。この二人の対決はアリストテレス哲学対キリスト教という側面もあるという。…しかし、バジャドリって、その他にもカトリック両王が結婚式挙げたり、セルバンテス住んでたりいろいろある町だが、日本人には言いにくい地名である…バリャッドリッド?

トドロフは意外にも、セプルベダのインディオ劣等主義の論の方が、インディオの具体的観察・記述としては「まだ」みるべきものがある、としている。一方のラス・カサスの方はキリスト教的平等論と自分の理想を投影し過ぎて、実際のインディオではなく「従順でおとなしいインディオ」像の繰り返しである、と。いずれにせよ、両者とも、実際のインディオと肩を並べた「近代的」なインディオ像までには至っていない(前にはラス・カサスは「近代」と書いたが、そう一面的には言えないわけだ)。
結果として、この会議ではラス・カサス側の言い分が主に通ったわけだが・・・
(2008 11/21)

ラス・カサスとジョルダーノ・ブルーノ

ラス・カサスには二度の<回心>がある。一度目は、インディオの奴隷をやめてインディオ保護に変わった時、これは彼がドミニコ修道会に入った時である。しかし、トドロフが注目するのは二度目の<回心>である。それはずっと後の晩年のこと。

 そのとき共通なもの、普遍的なものとして残るのは、もはやすべての人が到達しなければならないものとしてのキリスト教の神ではなく、私たちを超えて神的なものが存在する、という考え方そのものである。
(P262)


ここでは「宗教学」の始まりが見られる。自分が信仰している教義の絶対化ではなく、他の宗教との相対的な視座を、ここで彼は得た。
同様な思想転回の例をもう一つトドロフは挙げている。同じくドミニコ会修道士のジョルダーノ・ブルーノ。

 地球が中心となりうるのはわれわれ自身を取り囲んでいる空間との関係においてでしかない・・・(中略)・・・無限大の物体を想像するや否や、人はそうした物体に中心とか周縁とかを付与することをあきらめるであろう。
(P266)


天動説は誤りで地動説が正しい・・・という議論ではなく、こうした相対化思考が産まれた瞬間、まさに近代誕生の瞬間をわれわれは覗き込んでいるのである。現代が、もし「近代再考、近代思考の限界を考える」時代であるとすれば、この転回の瞬間に何が起こったかをもっと突き詰めていくことが必須となるであろう。
ラス・カサスは何ともなかったが、ジョルダーノ・ブルーノは異端として1600年(関ヶ原の年)に刑死する。
(2008 11/26)

メキシコ人の誕生?


トドロフ「他者の記号学」も核心になってきた。今日読んだのは、メキシコに幼い頃に移住しずっと住み続けたドミニコ修道士の話(当時はスペインとインディアスを往復するパターンが多かった)。修道会の影響もあってか思想はかなり宗教厳格主義で、インディオの宗教を根絶やしにしようと活動をするのだが、一方で「敵を知らねば」とインディオの宗教を調べていくうちに、彼らの信仰にキリスト教との共通点を見出だしていき、最後にはアステカ人が追放されたユダヤの民ではないか、と確信するようになる。
そのような思想自体はもちろん間違いなのであるが、それでもこの、もはやスペイン人でもインディオでもない考え方をする人物をもって、メキシコ人の誕生と言えるのではないか。
にしても、この修道士の考え方や生涯は面白そうだ。自分にその力はないけれど、何かの小説の主人公にしたらよいかも。それとも誰かもう実践してるかな?
今、生き返ったら、メキシコの現実見てどんな感想を漏らすのだろう…
(2008 11/27)

エピローグ

まずはドミニコ会やフランシスコ会の修道士の書いたアステカの風俗についての書物の分析。トドロフは人身御供の紹介からテクストの中の他者の声の変容を見ていく。

さて、エピローグ。トドロフのこうした『他者との対話」の発見は、トドロフ自身のブルガリアからフランスへの亡命から(全てではないとしても)産まれたものであろう。アステカの地における修道士と、フランスでバルトの考えを発展しクリスティヴァとともに活躍するトドロフは同じ位置にいるのだろうか? 果たして。

 だが社会全体が亡命者によって形成されていれば文化どうしの対話は途絶える。そのとき対話は折衷主義と比較至上主義によって置きかえられ、なんでも少しずつ愛する能力、何を選択してもそれを喜んで受け入れることがないかわりに、選択したものと無気力に共鳴する能力に取ってかわられる。声どうしの差異を理解する他性論は必要だが、多性論は精彩を欠く。
(P349)


ここで、トドロフは何を恐れて、何を心配しているのであろうか? アステカの修道士達やトドロフのような立ち位置に立つことこそ「他者との対話」が発見できる、とのこれまでの論ではなかったのか。

しかし、ここにはもう一つの議論があったことを思い出す。「人間とのコミュニケーションの為、世界とのコミュニケーションを捨てた」のが近代である、というものだ。そうした世界とのコミュニケーションを捨てた人類、アベル・ポッセの「楽園の犬」で出てきた「足の裏の臭いを見失いつつある」人類を見ると
無気力に共鳴する
何が心の弦を引っ掻いたのかも考えもせずに適当に音に出す
他者たちだけで自己はそこにはない
これが近代人ということであろうか?

他性論と多性論の区別は自分にはよくわからなかったけど。
ということで、月跨ぎになるかと思われた「他者の記号学」を読み終えた。
(2008 11/28)

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