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「自由意志の向こう側 決定論をめぐる哲学史」 木島泰三

講談社選書メチエ


「はじめに」


スピノザの「エチカ」によると、人間は物事の結果しか知らず原因について無知なところから、目的原因を知りたがり、そこから「自由意志」という錯覚と、目的を持った背後のものすなわち神を作り出したという。

 自由意志と目的論的自然観という先入観、それが産み出した超越的人格神という迷信、その迷信を支える難解な神学体系、これらは相互に支え合って巨大な「構築物」をなしている。そしてスピノザの見立てでは、ほとんどの学問は目的-手段関係にもとづいて組織されているので、この構築物を支え続ける役割しかもたない。しかし数学はこれとは違う「真理の規範」を示し、スピノザの見いだした真理への道を開いてくれる。
(p32)


自由意志の問題は、リバタリアン(人間に自由を持たせるべき、と考える、カントの批判書の立場)と決定論(このスピノザからデネットまで)の二極端があり、その中間に自由意志と決定論は両立するという立場がある(この代表としてホッブズ)。著者木島氏はおおよそ決定論寄りだという。
(2021 01/31)

第1章


アリストテレスはプラトンの「イデア」を「この世」(形相+質料)に位置づけた。

 アリストテレスのこのような目的論への傾倒は、この哲学者が生物の研究に精通していたことと多分関係している。後にダーウィンが明らかにするメカニズムによって、生物の世界には「目的論的に説明したくなる現象」が満ち満ちているのである。だからここには、単純な神話的思考への回帰以外の自然の現象を目に見えるように見つめようとする、ある意味で誠実な自然観察者の視点がある。
(p43)


デカルトは「神の目的は知りえない」と目的論を温存する。また人間の心にも目的論を温存している。これははじめにであったスピノザの見立てによれば「末期的段階」にあたる。

ストア派の「摂理」。理性的な神と人間を目的としてこの世界は作られている。そのあり方は一通りしか存在しない(因果的決定論を支持)。そのため、「決定論の不穏な帰結」への対応(ホッブズの両立論の先駆けであるクリュシッポスの「円筒と円錐の比喩」とか、ゼノン(パラドックスのゼノンではない方)のものとされる「偽金的」自由論(ウィリアム・ジェイムズがそれを批判)など)も見られる。

エピクロス派の「原子の逸れ」論。「決定論の不穏な帰結」の対応? それとも…

 エピクロスが原子の自然的運動をねじ曲げてまで抵抗したかったのは、むき出しの因果決定論そのものというより、「「摂理」という目的論的秩序」だったのではないか
(p66)


そのエピクロスが抵抗したストア派の「目的論的秩序」は「運命論」とも呼ばれ、次章のテーマとなる。
自然は神とは無関係に「偶然」に生まれる。ここのところの「偶然」「必然」はまだ自分の中で整理できていない(他は整理できているのか?)。デモクリストス(古代原子論)、ストア派、エピクロス派がそれぞれを当時どう位置づけていたのか、も。
(2021 05/03)

第2章


運命論と決定論的因果論との違い。どちらも複数の「可能性の世界」を認める。運命論は結果が前回であれ悪であれ何者か外的な存在が最終目的を決定する。決定論的因果論は外的な存在感も善か悪かも関係なく、ただ一つの原因からは一つの結構しか出ない。昨日も出たデモクリストスのアナンケーも決定論的因果論と同じ。

 スピノザが「なぜ他の世界ではなくこの世界なのか」という問い、つまりあたかも世界の外側に立てるかのような問いとは無縁の必然性概念を支持していたことこそが、むしろスピノザのラディカルさの表れだった、ということ
(p98)


ライプニッツは「この世界が可能な諸世界の中で最善の世界である」(p100)とし、スピノザの必然性を「むき出しの必然性」として退けた…そいえば、前確か仙台で、スピノザとライプニッツの比較した本を見たことがある。
(2021 05/04)

第2章最後は運と運命。全てを必然と見るかどうかで倫理的問題(同じように脇見運転したのに、片方だけが事故を起こすとか)、そしてヴェーバーの「プロ倫」の予定説(運命は結果だけがわかっていた場合は諦念と結びつくが、過程のみわかっていて結果がわからない場合は資本主義の精神のように成果を発揮する)などの問題が提示される。
(2021 05/06)

第3章


ホッブズとデカルト、木島氏の議論では、「過渡期」(スピノザに至る)の思想。この前の神学議論との連続性を見渡すとそれが分かってくるという。

 ホッブズの神学は、神の意志の人間にとっての不可知性を強調し、神の権力の絶対性と、神の正義と人間の正義の異質性を強調することで、神が善なるものであるという主張を実質上否定しているからである。これは因果的決定論を肯定しつつ、因果的秩序を善なるものとして位置づける摂理の思想を掘り崩す神学的立場と言っていい。
(p123)

ホッブズの思想は、なんとなくだが、自分のような素朴な人間が抱く世界観を肯定するような結果になっていることが多いと思う。神は何かやっててその影響は時々人間は受けるけれど、その実どちらも全く無関係…という具合に。

 それ(アウグスティヌスの自由意志論)はたしかにデカルトのように人間を「神の似姿」と見なす思想とも結びつくが、しかし同時に、神を免責し、人間に罪を負わせるための根拠としても重視されてきたのであり、デカルトの自由論においても、その側面は明確に受け継がれている。
 これは自由意志という概念そのものの出自にかかわる、重要な歴史的事実である。つまり自由意志概念は、人に責めと詰みを負わせるためにこそ要求されてきた、という一面がある。
(p135-136)


現代では、これは「自己責任論」に顕著に現れているのでは、という。
一面…で済むのかなあ。全面とは言えないか…言えない、とは思うけど、自由は後付け、なのかも。
(2021 05/09)

第4章


近代、自然の目的論的説明(アリストテレス的な)は誤りとされたが、生命現象の中には、目的論的な説明をされやすいものがある。
ライプニッツは、始まりの際に何らかのもの「神」?が自然機械をインプットし、それからは機械的に動き続けるというインテリジェントデザイン仮説を提唱。ニュートンらと議論になった。上の「機械」は二種の意味があって、原子運動とかの機械(それからは機械的に…の方)と、目的にかなった機械(神がインプットした機械の方)と、これを混同しているのが専門書でも多いという。
(2021 05/16)

ライプニッツ続き

 物質を構成している単位は微粒子ではなく、微生物=微小機械である、というのがライプニッツの思想だ。
(p155)


微小機械とそこに宿る精神(のようなもの=これがモナド)は一対一で決められているわけではなく、神のデザインによって最も善になるように行き渡る。

 神が選択しなかった無数の可能世界は、知性の導きを欠いた、「アナンケー=必然」のみが支配する荒涼たる世界だっただろう。しかし善意ある神は無目的な必然を巧妙に制御し、至高の時計技師として、因果的必然性の仕組みを最大限有効に活用して、モナドたちに最善のパノラマを提供するような調整が施された世界=機械を選び取り、創造したのである。
(p158)


この延々続く機械論に対して、ニュートン(及びその弟子)は批判をする。ニュートンは、目的論を批判すると思いきや、意外にライプニッツよりも目的論的、そして生気論的な論調。一方ヒュームは「対話」でデザイン仮説を批判する切り口を見せる。
(2021 05/17)

第5章


 この自然が目的論的原理を含まないという前提に立てば、合目的的な変異というのは稀な出来事だと考えられるが、自然選択はこの稀な出来事が生じたときにそれを「保持」し、固定する役割を果たすのである。
(p194)


自然選択における一段階選択と累積的選択。
ランダムにタイピングして28文字の文字列を再現させるのをゴールと(仮に)する
一回の試行で28文字全て再現させる(一段階)場合は(一回試行に30秒かかるとして)宇宙の歴史の60掛ける10の24乗もかかる。のに対し
28文字のうち一文字だけでも成功したらそれを保持して他の文字列だけ…とやる場合(累積的)は、一時間で終了…という。
自然選択は後者の仕組みであると思われるのだが。
(この辺p198-199)

 ダーウィンは自然の中には「デザインらしきもの」を体系的に産み出す力がたしかに働いていることを示し、目的論を自然化したとも言えるのである。
(p204)


19世紀末から20世紀初頭は、ダーウィン主義失墜と反ダーウィン的進化論の時代。
それらには跳躍進化説、獲得形質(後天的)遺伝説、定向進化説などがある。メンデルの遺伝子実験の再発見から遺伝は不連続で跳躍的な「突然変異」(ド・フリース)で起こるとされた。
そのうち、染色体や突然変異の研究の進展によりモーガンらがダーウィンの自然選択に目を向け、フィッシャーらの集団遺伝学とともにダーウィン修行と結びつき「進化の総合説」が1940年代には成立する。
(この辺p212-214)

第6章


ウィルソンの「社会生物学」…遺伝決定論ではないかと論争に。しかしこの知見とダーウィン進化論が融合したのが進化心理学(利他行動など)。

 自らを最大の確率で生き延びさせるような形質を産み出す遺伝子が、自然選択を経て生き延びてきたと見てみよう、ということだ。この見方が「利己的な遺伝子」である。
(p236)


ドーキンスは繁殖によらない遺伝子再生の例もあるので、繁殖による自己複製という考え方より、個々の生物を乗り物にした遺伝子を中心に見た方がわかりやすいのでは、と言っている。利己的というのはあくまでも比喩なのだ。
(2021 05/23)

 「運命論の不安」…僕ら自身を含む生物個体が、遺伝子の存続という、生物個体自身の「外」にある目的の手段として構築され、動かされる「乗り物」として産み出されてきた、という考え方が与える不安感であり、不気味さである。
 「自然主義の不安」…見たとこと意味と目的に満ちた生物の世界が、核心にまでさかのぼると無意味で無目的な「アナンケー=必然」に帰着してしまう不安感であり、不気味さである。
(p243)


この章では前半を扱い、後者の不安は最終章で取り上げるらしい。
続いて「ミーム」という概念の考え方。

 文化的な発展はたしかに遺伝子への自然選択なしに生じうる。だが、遺伝子の変化を伴わないにもかかわらずダーウィン的な仕組みで進んでいく文化進化、というものがあったらどうだろう。
(p259)


いろいろな文字列や音列などをミームの一単位として、それが人間自身のチェックを受けずに変容していく。こういうイメージ。わかりやすいのはコマーシャルなど。
最後はドーキンスの「利己的な遺伝子」の初版最終章のミーム論の部分から。

 われわれは遺伝子機械として組立てられ、ミーム機械として教化されてきた。この地上で、唯一われわれだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できるのである。
(p261)


キース・スタノヴィッチはこの呼びかけ?に答えて、「ロボットの反逆」(邦題は「心は遺伝子の論理で決まるのか-二重過程モデルでみるヒトの合理性」)を書いた。この内容は次節に。
(2021 05/25)

 意識的な自己が、複雑な組織体としての「あなた」のごく一部でしかないこと、また意識の中に「あなた」全体の詳細な知識がくまなく捉えられているわけではなく、さらに言えばそこには省略や誇張や欺きが含まれている
(p271 途中省略有り)

 一方進化は、十徳ナイフのように、用途に応じて素早く結論を出せる特殊なツールをその都度脳に組み込んできた、とされる。
(p275)


前に読んだカーネマンとトヴェルスキーのヒューリスティックやタイプ1、タイプ2というのを引き、その後継者らしいスタノヴィッチを要のようにして見ている。ただここで、スタノヴィッチの、これら進化心理学者のことを「パングロス主義」という呼び方があるのだが、それがどこに狙いがあるのか、それがよくわからない…

 スタノヴィッチは、人間社会、また特に現代社会において、タイプ1の思考がミームの利益や、政治的、商業的な関心にもとづく意図的な操作者たちの利益を引き出すために利用されがちだという指摘もしている。
(p283)

これもわかりやすい例はコマーシャルとか。
また、「こういう人間の特性利用すれば、仕事が上手く行く」というような導きも、そこに含まれるだろう。そしてもっと大きな操作もありえるのかも。
(2021 05/26)

第7章

 神や祖霊のような超自然主義者は、この種の「反直観的存在者」の一種であり、それらの観念はこうして、自然的な対象を直観的に検出するシステムにいわば寄生して、自らのコピーを増やしていく、というのである。
(p300)

 内部決定を行為者自身に対してすら隠すことで、それを周囲からも読み取れなくするのであり、この読み取れなさこそが進化的な利点なのだという。
(p302)

自由意思は存在するのか、というこの本の問題設定自体が、この仕組みのせいで生まれてくる。
(2021 05/28)

「凶悪な脳外科医」などの現代自由意志論の思考実験は「バグベアー」(デネット)
(「バグベアー」とは乳母が子供を恐がらせるために使うお化け、怪談話)

 中間地帯に目を移す必要がある。この地帯では、半ばだけ理解力を備えた行為者が、半ばだけうまくデザインされた企図に取り組んでいる。このような企図は大量の弱点を産み出すが、これらの弱点は、弱点につけ込む者たちを惹き寄せる新鮮な標的となる。
(p318 デネット)

第8章


サーモスタットが実際どのようなものなのか頭に浮かばないまま読んでいるのだが…

 「機械」としての身体や脳の「本来の目的」をその「機械」自らが転用し、好きなように再設定する、というこの見方に違和感があるなら、それは「機械」や「その目的」という比喩をあくまで使い続けようとすることからくる違和感だろう。ここで比喩は終わると思ってもよい。ここから先は、比喩でもなくカギ括弧も付かない僕ら自身の目的を、僕らがどう設定し、どのような未来を築くか、という開かれた問いが始まるのである。
(p326)

 このように、自然の基礎的過程は「目的」や「意図」とは無関係な過程である。このような過程に対して、たとえばサーモスタットのような単純な自己調節的機械が働くだけでも、「宇宙開闢以来の因果系列」には大きな偏りと明確なパターンが与えられる。それは世界の中の、(追求すべき目的にとっての)不規則性や偶発性を「吸収」し、世界の軌道を強引に「設定された目的」に近づける。
(p329)


この辺なんとなくだけど、この本の中ではライプニッツの機械論が近いのかな、と思う。インテリジェントデザインは別として。

 環境決定論については、安藤が述べる興味深い事実として、環境的要因の内、人間の行動に大きな影響を与えるのは、「共有環境」よりも「非共有環境」であるという研究結果がある
(共有環境は同じ環境が類似性をもたらし、非共有環境は同じ環境が差異をもたらす)
 遺伝決定論に比べると、単純な環境決定論が成り立ちにくい、ということを示唆するものだ。
(p348)
(安藤寿康「遺伝子の不都合な真実」)


道徳の成り立ち。責任という概念の出どころ。

 道徳的判断、および道徳そのものは道徳的責任なしにも可能である。
(p357 ウォーラー)


複雑な知性も単純な反応の繰り返しに過ぎない、という「アナバチ性」(デネット)。単純なものが含む「おぞましさ」を知性も受け継いでいるのでは?
(p362-364辺り)

 そこではある存在が備えている因果的な力の度合いに応じた「能動性」と「行為者性」、そして「自由」の余地が、「自由意志」の概念なしに確保されるのだ。
 そして、このような「行為者」概念は、自然主義的世界像の中に僕らの経験を位置づけるときの、一つの基礎的なカテゴリーを提供するかもしれない。
(行為者は生物、無生物問わず)
(p375-376)

この辺りが、木島氏の想定する「自由意思を退けた、単純決定論に落ち込まないための思想」なのだろう。世界を見る見取り図をここから取り出していくのが、まずは第一段階。
(2021 05/29)

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