「自由意志の向こう側 決定論をめぐる哲学史」 木島泰三
講談社選書メチエ
「はじめに」
スピノザの「エチカ」によると、人間は物事の結果しか知らず原因について無知なところから、目的原因を知りたがり、そこから「自由意志」という錯覚と、目的を持った背後のものすなわち神を作り出したという。
自由意志の問題は、リバタリアン(人間に自由を持たせるべき、と考える、カントの批判書の立場)と決定論(このスピノザからデネットまで)の二極端があり、その中間に自由意志と決定論は両立するという立場がある(この代表としてホッブズ)。著者木島氏はおおよそ決定論寄りだという。
(2021 01/31)
第1章
アリストテレスはプラトンの「イデア」を「この世」(形相+質料)に位置づけた。
デカルトは「神の目的は知りえない」と目的論を温存する。また人間の心にも目的論を温存している。これははじめにであったスピノザの見立てによれば「末期的段階」にあたる。
ストア派の「摂理」。理性的な神と人間を目的としてこの世界は作られている。そのあり方は一通りしか存在しない(因果的決定論を支持)。そのため、「決定論の不穏な帰結」への対応(ホッブズの両立論の先駆けであるクリュシッポスの「円筒と円錐の比喩」とか、ゼノン(パラドックスのゼノンではない方)のものとされる「偽金的」自由論(ウィリアム・ジェイムズがそれを批判)など)も見られる。
エピクロス派の「原子の逸れ」論。「決定論の不穏な帰結」の対応? それとも…
そのエピクロスが抵抗したストア派の「目的論的秩序」は「運命論」とも呼ばれ、次章のテーマとなる。
自然は神とは無関係に「偶然」に生まれる。ここのところの「偶然」「必然」はまだ自分の中で整理できていない(他は整理できているのか?)。デモクリストス(古代原子論)、ストア派、エピクロス派がそれぞれを当時どう位置づけていたのか、も。
(2021 05/03)
第2章
運命論と決定論的因果論との違い。どちらも複数の「可能性の世界」を認める。運命論は結果が前回であれ悪であれ何者か外的な存在が最終目的を決定する。決定論的因果論は外的な存在感も善か悪かも関係なく、ただ一つの原因からは一つの結構しか出ない。昨日も出たデモクリストスのアナンケーも決定論的因果論と同じ。
ライプニッツは「この世界が可能な諸世界の中で最善の世界である」(p100)とし、スピノザの必然性を「むき出しの必然性」として退けた…そいえば、前確か仙台で、スピノザとライプニッツの比較した本を見たことがある。
(2021 05/04)
第2章最後は運と運命。全てを必然と見るかどうかで倫理的問題(同じように脇見運転したのに、片方だけが事故を起こすとか)、そしてヴェーバーの「プロ倫」の予定説(運命は結果だけがわかっていた場合は諦念と結びつくが、過程のみわかっていて結果がわからない場合は資本主義の精神のように成果を発揮する)などの問題が提示される。
(2021 05/06)
第3章
ホッブズとデカルト、木島氏の議論では、「過渡期」(スピノザに至る)の思想。この前の神学議論との連続性を見渡すとそれが分かってくるという。
ホッブズの思想は、なんとなくだが、自分のような素朴な人間が抱く世界観を肯定するような結果になっていることが多いと思う。神は何かやっててその影響は時々人間は受けるけれど、その実どちらも全く無関係…という具合に。
現代では、これは「自己責任論」に顕著に現れているのでは、という。
一面…で済むのかなあ。全面とは言えないか…言えない、とは思うけど、自由は後付け、なのかも。
(2021 05/09)
第4章
近代、自然の目的論的説明(アリストテレス的な)は誤りとされたが、生命現象の中には、目的論的な説明をされやすいものがある。
ライプニッツは、始まりの際に何らかのもの「神」?が自然機械をインプットし、それからは機械的に動き続けるというインテリジェントデザイン仮説を提唱。ニュートンらと議論になった。上の「機械」は二種の意味があって、原子運動とかの機械(それからは機械的に…の方)と、目的にかなった機械(神がインプットした機械の方)と、これを混同しているのが専門書でも多いという。
(2021 05/16)
ライプニッツ続き
微小機械とそこに宿る精神(のようなもの=これがモナド)は一対一で決められているわけではなく、神のデザインによって最も善になるように行き渡る。
この延々続く機械論に対して、ニュートン(及びその弟子)は批判をする。ニュートンは、目的論を批判すると思いきや、意外にライプニッツよりも目的論的、そして生気論的な論調。一方ヒュームは「対話」でデザイン仮説を批判する切り口を見せる。
(2021 05/17)
第5章
自然選択における一段階選択と累積的選択。
ランダムにタイピングして28文字の文字列を再現させるのをゴールと(仮に)する
一回の試行で28文字全て再現させる(一段階)場合は(一回試行に30秒かかるとして)宇宙の歴史の60掛ける10の24乗もかかる。のに対し
28文字のうち一文字だけでも成功したらそれを保持して他の文字列だけ…とやる場合(累積的)は、一時間で終了…という。
自然選択は後者の仕組みであると思われるのだが。
(この辺p198-199)
19世紀末から20世紀初頭は、ダーウィン主義失墜と反ダーウィン的進化論の時代。
それらには跳躍進化説、獲得形質(後天的)遺伝説、定向進化説などがある。メンデルの遺伝子実験の再発見から遺伝は不連続で跳躍的な「突然変異」(ド・フリース)で起こるとされた。
そのうち、染色体や突然変異の研究の進展によりモーガンらがダーウィンの自然選択に目を向け、フィッシャーらの集団遺伝学とともにダーウィン修行と結びつき「進化の総合説」が1940年代には成立する。
(この辺p212-214)
第6章
ウィルソンの「社会生物学」…遺伝決定論ではないかと論争に。しかしこの知見とダーウィン進化論が融合したのが進化心理学(利他行動など)。
ドーキンスは繁殖によらない遺伝子再生の例もあるので、繁殖による自己複製という考え方より、個々の生物を乗り物にした遺伝子を中心に見た方がわかりやすいのでは、と言っている。利己的というのはあくまでも比喩なのだ。
(2021 05/23)
この章では前半を扱い、後者の不安は最終章で取り上げるらしい。
続いて「ミーム」という概念の考え方。
いろいろな文字列や音列などをミームの一単位として、それが人間自身のチェックを受けずに変容していく。こういうイメージ。わかりやすいのはコマーシャルなど。
最後はドーキンスの「利己的な遺伝子」の初版最終章のミーム論の部分から。
キース・スタノヴィッチはこの呼びかけ?に答えて、「ロボットの反逆」(邦題は「心は遺伝子の論理で決まるのか-二重過程モデルでみるヒトの合理性」)を書いた。この内容は次節に。
(2021 05/25)
前に読んだカーネマンとトヴェルスキーのヒューリスティックやタイプ1、タイプ2というのを引き、その後継者らしいスタノヴィッチを要のようにして見ている。ただここで、スタノヴィッチの、これら進化心理学者のことを「パングロス主義」という呼び方があるのだが、それがどこに狙いがあるのか、それがよくわからない…
これもわかりやすい例はコマーシャルとか。
また、「こういう人間の特性利用すれば、仕事が上手く行く」というような導きも、そこに含まれるだろう。そしてもっと大きな操作もありえるのかも。
(2021 05/26)
第7章
自由意思は存在するのか、というこの本の問題設定自体が、この仕組みのせいで生まれてくる。
(2021 05/28)
「凶悪な脳外科医」などの現代自由意志論の思考実験は「バグベアー」(デネット)
(「バグベアー」とは乳母が子供を恐がらせるために使うお化け、怪談話)
第8章
サーモスタットが実際どのようなものなのか頭に浮かばないまま読んでいるのだが…
この辺なんとなくだけど、この本の中ではライプニッツの機械論が近いのかな、と思う。インテリジェントデザインは別として。
道徳の成り立ち。責任という概念の出どころ。
複雑な知性も単純な反応の繰り返しに過ぎない、という「アナバチ性」(デネット)。単純なものが含む「おぞましさ」を知性も受け継いでいるのでは?
(p362-364辺り)
そこではある存在が備えている因果的な力の度合いに応じた「能動性」と「行為者性」、そして「自由」の余地が、「自由意志」の概念なしに確保されるのだ。
そして、このような「行為者」概念は、自然主義的世界像の中に僕らの経験を位置づけるときの、一つの基礎的なカテゴリーを提供するかもしれない。
(行為者は生物、無生物問わず)
(p375-376)
この辺りが、木島氏の想定する「自由意思を退けた、単純決定論に落ち込まないための思想」なのだろう。世界を見る見取り図をここから取り出していくのが、まずは第一段階。
(2021 05/29)
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