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「北は山、南は湖、西は道、東は川」 クラスナホルカイ・ラースロー

早稲田みか 訳  松籟社

作者クラスナホルカイ・ラースローはハンガリーの作家。2000年に京都に半年招かれてその時の経験をこの作品に取り入れている(2003)。
その他の作品に「サタンタンゴ」、「抵抗の憂鬱」、「戦争と戦争」などがある。
最初のものは、作品最後の数ページが冒頭のと全く同じ循環。映画も有名…
次のは鯨の見せ物と共にきたよそ者が町を破壊するというもので「ヴェルクマイスター・ハーモニー」という名前で映画化された。
最後のは図書館司書の主人公が古文書を見つけ、その内容をニューヨークでインターネット上に書き込み、スイスに渡り自殺する…が、作品最後の一文は作品内には無く、スイスに実在する美術館の壁にあるという仕掛け。どの作品もなんらかの意味においてこの作品とつながっている。

(補足 「サタンタンゴ」は2019年秋に日本公開したという。タラ・ベーラ監督。もともとは1990年代の作品だったのを画像を良くして公開…とにかくびっくりなのは作品の時間が7時間越え! 1カットの時間も長く6分以上のもあったという。評者はベルクソンの時間の純粋持続を映画で表現してみたかったのでは(映画という技術が時間をコントロールするものであるのに対して)、と言っていた)


第1章が無い。

 またもや塀が、飾り気のないどっしりとした分厚い白い土塀、てっぺんに青緑色の瓦を向かい合うように円錐形に並べた塀が続いているだけで、入口を探して延々と歩き続けるうちに、この塀の異様な長さ、不動の閉鎖性と不変性は、ただ単にある広大な領域の存在を示唆しているのではなく、何ものかの内的な尺度なのであって、これは塀にあらず、塀という形式のうちに表現されているのは、これまで慣れ親しんできたものとは別種の尺度がいずれまもなく必要となること、もうじきこれまでの人生の指標とは別種の物差しが必要になることを、到来者に知らしめるためのものなのだという思いに-塀を左手に見ながら歩き続けるうちに-とらわれたのだった。(p3)
 その回廊で今、奇妙なことに何やら物音がしたようだった。伽藍全体が恐ろしい静寂に包まれた謎めいたこの時間に、見捨てられ荒廃した砂漠のようなこの空間の中、ほかならぬこの回廊の奥つ方の完璧な静寂の中、鏡のようになめらかに磨かれ鏡のようになめらかに歩きこまれた長い床板が、一千年にわたって内に秘めてきた足音の歴史の中から小さな記憶をひとつ、この一瞬に思い出したかのように、固定されていたものが定かならざるものに変じて、ある一点でぎしっと鳴る音が、静寂のかなたからたしかに聞こえてきたのだった。過去の一歩の重みを呼びさまして再現するかのように、廊下の床板が一か所きしんで音をたてた。かつてここを歩いた者がいたことの記憶を確かめるかのように。
(p44-45)

クラスナホルカイ・ラースロー「北は山、南は湖、西は道、東は川」。この配置で造られた京都のとある古寺(廃寺?)で時間を超越したような視線が瞑想する、という作品。
「人物が出てこない作品を書きたかった」と作者の言葉にあるように、あるのはこの視線と、それと同じもののような違うような「源氏の孫君」という「何ものか」。寺は一部の門扉が壊され、焼けた後も、経本が崩れたところもあるが、なぜそうなのか、そのことが物語の流れに関わってきているのか、さえ提示されない。それは「源氏の孫君」についても同様で庭を探しているらしいのだが、何やら追手が来ていることも、「災厄」が近づいていることも、なんら物語の進行に関わってこない。という不思議な小説。

不思議と言えば、先程時間を超越したと書いたけど、「源氏の孫君」はどうやら千年ものあいだ庭を探し続けているらしく、京阪電車に乗って来たり、寺の住職の部屋がここだけ現代の乱雑な部屋になっていたり、と。
読者を導く先の視線と「源氏の孫君」の視線がズレを伴いつつ並行し動いている気がして。このズレは「源氏の孫君」が降りた京阪電車の駅を「七条の次の駅」としか書かない(実際の七条の次の駅ではない、何かその間にある隙間のような)ところでも察せられる…


…こういう作品、大好き!


と、まあ(苦笑)、カルヴィーノのような、カリンティ・フェレンツのような、カルペンティエールのような…真ん中のはハンガリーつながりだな。
(2020 09/21)

東福寺?

七条の次は東福寺。その次の駅の鳥羽街道も実名で出てくるけど、東福寺という名前は示されない。もちろん寺の名前も。もっとも、作者と読者の意識の中でしか存在しない現実から抜け落ちた場所ということでいいのだが…

今朝読み終え。自然と寺、人間や犬や狐という動物との関係性を俯瞰する瞑想。スタンレー・ギルモアの書「無限の誤謬」なる本に展開する哲学的構想や、寺の庭を巡る地学、生物学的考察。吉野の山を購入しそこでの樹々の成長を見極め、適所に配置し寺の造営をする宮大工。駅のホームの古ぼけた自動販売機の詳細な記述、寺の住職の乱雑な部屋の記述、そして京阪電車の自動アナウンスの描写(それは最後には「止まるところをしらない暴力」(p140)と変容される)。これらが混在して、一つの作品空間を作り上げる。この不思議さ。

 それは結局、不滅の源泉はほかならぬ反復そのものにあることの理解へといたらせるのだった。
(p122)

「源氏の孫君」が駅に戻った後、もう一度寺を探して歩いても、そこには痕跡すら見あたらなかった。全ては「源氏の孫君」の、いや作者クラスナホルカイ・ラースローの意識の中でしか存在していなかったのか。

でも、この結びの言葉は何を意味しているのだろう。

 その麗しの京の都では、ちょうどその時、どこかで何やら大きな災厄が出来したところだった。
(p146)

(この「災厄」とは、今までにクラスナホルカイ・ラースローの諸作品で描かれてきたものと、同じ類のものだろうか)
(2020 09/22)

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