見出し画像

「中国のグロテスク・リアリズム」 井波律子

中公文庫  中央公論新社

徳島から移転してきた、森下の古書ドリスで購入。

三言の世界


「中国のグロテスク・リアリズム」もチビチビというか折りに触れてというか、読んでいる。
明末期に成立した、宋代からの短編の話のアンソロジー(編者の創作含む)「喩世明言」「警世通言」「醒世恒言」の三編合わせて「三言」と呼ぶ。これに続いた別の編者の「初刻拍案驚奇」「二刻拍案驚奇」の二編と合わせ「三言二拍」と呼ぶ。
ただし、その後中国では清になってこの「三言二拍」からのアンソロジーが成立し大流行してしまうので、元々の「三言二拍」は実は日本に入ってきたものが発見されるまで忘れさられていたという。「雨月物語」などその要素を取り入れた江戸期の作品も多い。

三言の中身の方は庶民が好みそうな悪の自由さを描いたものが今のところ中心。元々は街の講釈師が語ったものだからね。

(過剰エネルギーを)好むと好まざるとにかかわらず、華々しいかたちて、さもなくば破滅的な方法でそれを消費せねばならない。
(p80、バタイユ「呪われた部分」からの引用)
 中央政局の空白、これとはうらはらに社会を覆う豊かな経済的力量。この奇妙な欠落と過剰がまったく噛み合わないまま相乗効果をあげ、明末に生きた人々の意識と感覚は、ひたすら燗熟したデカダンスへと傾斜していった
(p85)


明末社会というのは驚くほどに現代に似ている?欠落と過剰は位置エネルギーと運動エネルギーとを呼ぶ。「三言」より20年前に「金瓶梅」が成立しているのも同じ精神。
(2015 11/25)

皮肉な成功物語


と題された章を昨日読んだ。
前半の「鈍秀才」(不吉な秀才)の話もなかなか面白かったけど、圧巻だったのは後半の「老門生」の話。どんなに年とっても科挙に合格しようとする老門生と、何故か老人嫌いの試験官。試験官が老門生に意地悪すればするほど、老門生に有利になるという仕掛け。
重要なのは、老門生も試験官も科挙制度を自ら嘲笑していることに加え、この物語構造が科挙制度ひいては官僚制度そのものを風刺しているということ。

三言の編者自身の作とされるが、後に全く同じ年に編者自身が役人となる(老門生と異なり正式な科挙を通してではないけど)。自分の作った作品を演じきったのか、はたまた演じさせられたのか。
ちなみに、作品中では老門生はかっての仇?の試験官を助けてあげながら天寿を全うしたが、編者自身は落ちぶれて亡くなった…ということは、やはり後者か。
(2015 11/29)

中国のグロテスク・コント


三言。異界探訪記のパロディー。異界訪問後、手土産?の妖術使いの妻が主人公を科挙に合格させる為に、術を使って忍び込んで出題を盗み見するという…なんか妖術の使いどころ間違ってない?という感じの…こっちはグロテスク・リアリズムの中でもリアリズムに力点入ってる。

異界とか冥界とかグロテスクにおどろおどろしいのかと思えば、冥界の王に頻繁に頼み事したり、はたまた地獄か天国かの冥界王の裁きにいちゃもんつけて自分が裁いてしまうなど、前の老門生の話や異界の手土産妻の話も含め、リアリズム通り越してコントになっている。ドリフとかにありそう。自分とかはかなり好みな傾向だが、この後の反動もすぐそこまで来ている、乱熟の時期だなと伝わってくる。
(2015 12/01)

白蛇の原理


今日「中国のグロテスク・リアリズム」を読み終えた。最後は妖怪の話で白蛇伝説の変移について。権威・秩序の男性原理に対し、情動・おぞましきもの排除されるべきもの(クリスティヴァの概念)としての女性原理。

白蛇妖怪は後者の装置として現れる。時代が進むに従い、後者は人間的にまた好意的に描かれる。「三言」の作品では妖怪という前提は不要なのではないか、と思われるほど人間的に描かれるが、最後は男性原理の禅師によって塔の下に封じ込まれてしまう。
が、清以降になるとどんどん白蛇妖怪とその夫の方が強くなり、禅師が逆に封じ込まれてしまう。魯迅などはこの禅師を毛嫌いしている…
ただ、完全にそっちが優勢になるとどうなってしまうのか、逆に秩序構造がきつくなってきたから捌け口としてのこの手の文学が流行したのか、はたまたそれは本当に男性対女性という図式構造でよいのか、とかとか疑問は残る。

…現実に白蛇を封じ込めたと言われていた塔は、魯迅の時代に倒壊してしまった…

あとは、異界・冥界・妖怪様々な世界が、なんだか普通に交流していたような唐より前の文学世界についても興味がある。それは本当に牧歌的といって済ませられるものなのか、井波氏は六朝や三国時代にも造詣が深いから、その辺から垣間見ることはできないだろか。
(2015 12/02)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?