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「ルーマニア、ルーマニア」 住谷春也

松籟社

目次

はじめに 松本からブカレストまで
第一部 ルーマニア文学雑考
近代ルーマニア文学史概観-「東欧の想像力」より
ウルムズ、場違いのシュルレアリスト
リビウ・レブリャーヌと「大地への祈り」
リビウ・レブリャーヌ「処刑の森」
知られざるホロコースト
マリン・プレダ
アデラ・ポペスク詩集「私たちの間に-時間」
パウル・ゴマ「ジュスタ」
ミルチャ・カルタレスク「ぼくらが女性を愛する理由」
ミルチャ・カルタレスク「ノスタルジア」
ブロンドの巻毛-わがルーマニアSF事始め-
ギョルゲ・ササルマン「方形の円」
ルーマニア民話の世界
ルーマニアのバラード
コラム 「名前の日」とお国ぶり
    ルーマニア語の敬語

第二部 エリアーデに導かれて
ルーマニアの精神の星エリアーデ
ミルチャ・エリアーデの幻想
ミルチャ・エリアーデの神秘文学の秘密-「19本の薔薇」の文学的遺言をめぐって
「令嬢クリスティナ」
ミルチャ・エリアーデと妖精たちの間
あるルーマニア人-ミルチャ・エリアーデのパリ時代
永遠への告白
「エリアーデ幻想小説全集」〈第一巻〉解題
「エリアーデ幻想小説全集」〈第二巻〉解題
「エリアーデ幻想小説全集」〈第三巻〉解題
「迷宮の試練」
コラム 映画「コッポラの胡蝶の夢」
おわりに

第一部「ルーマニア民話の世界」まで一気読み(ゴマとササルマンのあとがきは、該当書読んだ時にも読んでいる)

松本からブカレストまで

前橋出身の住谷氏が、松本の旧制高校ドイツ語-東京大学フランス語と経て(このコースは意外にあって辻邦生が一つ上で出迎えてくれたらしい)、出版社で百科事典など編集して退職、そこで始めたのがルーマニア語だった。なんと中年からの取り組みだったとは。
そしてそこから相当経った後にルーマニアに留学、これが1986年。当時はルーマニアでは革命は起きないだろうと(誰もが)思っていたものの、3年後に起きて、住谷氏も現地で目撃する(住谷氏は「旧体制内でのクーデタ説」をきっぱり否定)…というのが、はじめに。

第一部 ルーマニア文学雑考


そこから、翻訳した作品のあとがきが続く(「処刑の森」の項が一番印象的、自分の弟の墓をトランシルバニア側からルーマニア側に移した作者、の村を旅した記録など)。

そして、「わがルーマニアSF事始め」が、SFや民話などの部の導入として、「はじめに」みたいな導入(と当人は言う)…なのだけど、これがまた、「どこまでが本当?」みたいな、幻想小説を地でいくような住谷氏の話。ルーマニア語の勉強にも恋愛のようなものがついてきたり、「ルーマニアの民話」という本を作っていたときに種本としたものの一つ「石になった男 時間旅行者の昔話」という本の編者を、以前訳したSF短編の作者と予測し文通する推理力に感心したり、とか。

ちなみにここで住谷氏が翻訳したSF作品の中で、ホリア・アラーマ「アイクサよ永遠なれ」という作品(「東欧SF傑作選・下」創元推理文庫)が面白そう。惑星アイクサを覆っている森林は実は高度の知性体で、侵入者が来るとそれに似せたものを作って侵入者を消す。とやっていると、そのうちに森林の作成体が侵入者に似過ぎてしまい…という話。

ここで、SFと民話が並列的に並ぶのは一見意外だが、本書を読んでいくとそれが必然に思えてくる。そう、民話は当時のSFなのだ(逆も言える)。そして、チェウシェスク政権下のような独裁制下では、民話か幻想譚かSFとかでない限り、政権批判ができない、というのもひょっとしたら繋がりを生むのかも。
(2022 08/14)

第二部 エリアーデに導かれて


エミール・シオランやウージューヌ・イオネスコがフランス語で書いたのに対し、エリアーデは小説は常にルーマニア語で書く。昼の宗教学者と夜の幻想文学、作品の最初と最後が同時に「見える」(「妖精たちの夜」)。
「マイトレイ」のインド留学時代の女性詩人との恋愛(そして、エリアーデが捨てたと思っていたマイトレイ(実在の詩人で実名)が晩年この恋愛をまた小説(回想録)にした。

第一次世界大戦後、独立統一を果たし、文化的に自由であった戦間期を謳歌していたエリアーデが、1938年、キリスト教の刷新運動かつ民族運動であったレジオナール運動に関与したことで弾圧の対象になる。同時に逮捕された人々が殺害されていく中、エリアーデは直前に保釈される。「十九本の薔薇」に象徴的に使われる「19」「13」という数字は、この時の被告の数、運動の中心人物コドレアヌとともに殺害された人数ではないか、と住谷氏は推測する。

この後、レジオナール運動は後継のシマという人物のナチス急接近により、反ユダヤ主義等に傾き利用される。その為、戦後、欧米においてエリアーデが批判されることも多かった。それについてエリアーデ自身は黙秘している(シオランは若い頃の論文を撤回していたりする)が、住谷氏はエリアーデがレジオナール運動に関わったのは、前期のコドレアヌ期であり、そこで彼は「人種主義」に反対の声明を出している、と指摘している。

さて、引用は作品社から出ている「エリアーデ幻想小説全集」の解説から、全3巻のそれぞれから一つずつ(狙ったわけではない)。

 〈聖〉はどこか超絶の彼方にあるのではなくて身近の〈俗〉に仮装して現れている、仮装しているために門外漢には見えないだけで、見る人次第なのだ。
(p238)


これはエリアーデの小説のみならず宗教学にも通じる基本原則。

 この小説は一九三〇〜一九四〇年のブカレストの地理及び社会からは独立した一つの世界、一つの〈宇宙〉を創造している。いろいろなエピソードはわれわれの触れ得る現実の中の何に当たるのかとか、あれこれの登場人物は何を代表するのかとか、詮索すべきではない。これは独自の法則をもつ一つの未曾有の新しい〈宇宙〉の提示であり、この提示は、審美的な意味においてだけでなく、一つの創造行為を構成する。あなたがこの〈宇宙〉の中に浸り、それに精通して、それを賞味すると-何かがあなたに見えてくる。
(p249-250 エリアーデ「日記」より)


小説とは「ジプシー娘の宿」を指すが、これもエリアーデの小説全体に言えそう。前半(「詮索すべきではない」まで)は「どうもすみませんでした」と言うしかない(ここでの「詮索」は実際のモデルどうこうよりもっと広く、「この文章では作者はどんな思想を込めているのだろうか」などということを含む)。後半なのだが、その「解読」(としておこう)をやめ、作品を作品全体として入り切ることでしかそれは見えてこない、ということなのか。全ての小説に当てはまるとまでは言えないけれど、エリアーデの作品なら、あるかも。

 それにしても、パンタジのような弾圧機関に属する人間が、獣のように振る舞うのでなく、一種の“共感”をもって描かれていることに、作者自身「驚いた(それでも読者は都市の生活全体が恐怖に支配されていることを覚るのだが)」と、原稿を読み返したときに書いている。そうして、もしかするとこの“共感”にはもっと深い意味があるのかもしれない、『悪魔と両性具有』で略述した“反対の一致”の文学的想像宇宙における表現ではなかろうかとエリアーデは自問している。
(p266)


これは「ケープ」から。この「反対の一致」ってとても気になる。きっとこのパンタジという人物を最初から何かの代表として書いたのではなく、物語世界全体を常に壊さないようにして書いてきたからの成果なのだろう。敵対する思想的にも真逆な人物が、実は裏返しの同一人物だった…とか、考えると深そう…
最後の「迷宮の試練」(クロード=アンリ・ロケとの共著)では、ロケがエリアーデをランボーに見立てているのが、住谷氏にとっても、自分にとっても意表をついた発言。
(2022 08/22)

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