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「異郷の季節」 鈴木道彦

みすず書房

パリと洪水


鈴木氏自身のパリ下宿・ホテル顛末記としても面白いのだけれど、やはり当時(1950年代中頃)の北アフリカ諸国の独立運動の学生の姿が鮮やか。

 私はむしろセーヌ川と通底している巨大なな空洞の上に建てられたこの都会の不思議さに、しばし呆然としないわけにはいかなかった。
(p14)


セーヌ川の洪水で地下室から水が流入しているのに、割とパリの人々は気にしてなかった、という。
(2020  02/16)

パリ国立図書館とアルジェの宿

次の章はパリの国立図書館に通っていた話。鈴木氏はこの当時まで三度に渡ってパリに行っていたが、その三度、全く同じように見える中国人の老いた学者と出会った(敦煌文書の研究してたという…母国に帰ることはできないのではないか…と)とか、いつも定席にしてた118番の閲覧席(一番隅にある)の隣の119番の席に座っていた(鈴木氏がいないときもずっと隅ではないその席に座っていたという)モスクワ裁判を研究していたロシア系ユダヤ人とか、そういう人物が心に残る。
昨日の夜からは、アルジェの宿の章。イスラームの週末と何かの会議でホテルがどこも満杯だったので、スラム街ともいえる場所の安宿に泊まるのだが…といったところまで。

  人は、自分自身の問題や自分の属する集団の姿には盲目であっても、他人のことはすぐ見えるものだし、その眼で自分を振り返ると、それまで見えなかったものが一気に明らかになってくることがあるものだ。こうして私は、フランスとアルジェリアの関係から出発して、おそまきながら日本と朝鮮の問題などを考えるようになり、ほんの少しはそれにかんする仕事もやってきた。
(p75ー76)


確かに鈴木氏には在日朝鮮人問題の仕事も多くある。それに「異郷の季節」というタイトルの意味にも関わってくる。この宿は実はベルベル人の出稼ぎ簡易宿泊所であり、その一部屋を無理やり鈴木氏に提供した、という。その為、夜になって元々の泊まり客、ベルベル人青年が来て一騒動起こる。

フランツ・ファノンの病院

アルジェリアの地方町にある精神病院に勤務していたファノン。そこを「地に呪われたる者」等の訳者・論者でもある著者が訪れる。ファノンはそこで「20時間」働いて、患者の「解放」…フランス人と隔離され、精神的に劣っていると当時されていたアルジェリア人の解放、そして、患者が拘束され身動きできなくなっていることからの解放を手がけていった。鍵などの自己管理、カフェやいろいろな委員会などを患者に行ってもらう、などなど。
ファノンを論じるのは先程挙げた「地に呪われたる者」の解説文が最後で、それ以来は断っているという。それはファノンと対等に仕事をしていないという鈴木氏の自己認識から。

  しかしファノンは私にとって常に“他者”だった。恐るべき他者だった、と言ってもいい。たとえば、私には彼が暴力論を書く理由がよく分るけれども、私自身の内部にそうした暴力をそのまま実感することは困難である、といったような意味で、彼は他者だったのである。にもかかわらず、暴力は現実に存在しており、ファノンは有無を言わせぬ力で、その問題に目を向けることを私に強いていた。
(p92)


(2020  02/26)

第2部、人それぞれ

(いちおう)三部構成になっているこの本、昨日から第2部。本物の贋金作りの精神みたいな記事をとある学生に頼まれて書いたところ、その雑誌の出版が遅れ、それは何故かと聞いたところ、元々印刷に出す予定だった印刷所の経営者が贋金作りで捕まったからだ、という話。それにリヨンで会った大国は嫌いだからサン・マリノの国籍取ったという詐欺師っぽい怪しいおじさんと絡めての一編。
(2020  02/28)

フランス五月革命と作家


第3部。

  その意味で「五月革命」の自由は、文学の自由に似ていた。ジャン・ジュネが「五月」を「詩的な起源」を持つ事件と評したのも、どこかの壁に書かれた「想像力が権力をとる」という文字が的確に「五月」を言い当てていると見られたのも、そのためである。
(p148)


「五月革命」のうち、この本の記述は「作家・学生行動委員会」そしてそこにいたブランショに多くを割いている。当時多く作られたこうした行動委員会は基本的に誰でも参加可能で、出入り自由、前の決議が次の会を規制しないというもので、そこで鈴木氏もこの委員会に出て、旅館に立て籠もってこれまでの損害賠償を訴えた在日の事件などを報告している。
自分を無にしひたすら「外部」に開かれているこうした委員会はブランショの文学と通底している(ビュトールなどは、五月革命に際し別の委員会を立ち上げたが、それはこの委員会とは反対に自分の内面を見つめ通そうという動きだった)。

  ブランショは「文学と死の権利」において、歴史が「実現される虚無」であり、「事件と化した絶対的自由」であるような瞬間のことを語って、それを「革命」と呼び、そうした革命のなかでこそ「作家は自分を認識する」と記しているからである。
(p169)
  ブランショが明らかに作り出しているこうした空想的な「革命闘士」の存在ーすなわち絶対自由の実現のために生ま身を削る無名の人物の存在ーと無縁のところに、ひたすら安全なブランショという作家像を結ぶのは、やはり彼の言う文学をいくぶん愚弄するものではないかと私は思う。
(p173)


追加すると、ブランショはアルジェリア戦争時に良心から戦争参加を拒否する若者たちを促した「121人宣言」の起草者の一人でもあるらしい。

次はシュールレアリスムから共産党それから反対左翼(トロツキスト)と先端を駆け抜けたナヴィルという人の章から。

  初期シュールレアリスムの目指した精神の自由は、ひたすら運動を絶対視してそれに固執してきた人たちよりも、むしろこうしたところに拡散してかえってそのみずみぅしさを保っていたのかもしれない。
(p189)


この章の最後、晩年のナヴィルに会った時に彼が自動筆記を今でも行なっているというところから。

サルトルの死

最後のサルトルの葬儀の章読んで、これでこの本読み終わり。
…ただ、新装版出ているそうな、書き足されていること、あるかな。
最初の渡仏(第1部でアルジェリアの解放の若者に会った頃)の前にも鈴木氏はサルトルの著作を読んでいたのだが、サルトルがアルジェリア解放支持を訴えたことで、鈴木氏はサルトルを再認識するようになった。
先に書いた「五月」の頃から不意打ちのように遠ざかり、1970年代は今までのように「知識人批判」を行う一方で、大著(未完?)のフロベール論を書くなど知識人そのものの行動を取っていたサルトルを「危険な綱渡りをしているようだ」と日本で先程書いた在日の問題のための行動雑務を行いながら思っていたという。そうした中、サルトルは失明してしまい、1980年には亡くなってしまう。その6年後、ボーヴォワールが亡くなり、翌日サルトルの命日にはジュネが亡くなる。

  さらに言えば、われわれは今、「五月」どころか、いっさいの「歴史」を平気で否定しかねない鈍感な社会の入口に立たされているのではないか。その問題の回答は、必ずしも希望に満ちたものにはならないだろう。
(p232)


この言葉は1980年代に書かれた。そして今は2020年。もう出口まで到達してしまったのか。
(2020  03/01)

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