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「無分別」 オラシオ・カステジャーノス・モヤ

細野豊 訳  白水社エクスリブリス  白水社

ららぽーと豊洲の紀伊國屋書店で購入。

モヤはエルサルバドル出身の作家。現代企画室で「崩壊」(だっけ)が先に出ていて、水声社のフィクションのエル=ドラードシリーズで「吐き気」(表題作始め計3編)がその後2020年出版。「無分別」はグァテマラのインディオ(表記はこれで)虐殺をテーマにしている。

主題かつタイトルに結び付くこんな言葉から始まる。

おれの精神は正常ではない
(p7)

正常と非正常

この小説、前にも書いたが、グァテマラのインディオ大量虐殺をテーマにしていて、語り手は他国でその大量虐殺の生き残り逹が残した証言を推敲して印刷原稿にする、という仕事をすることになった、という筋。まあ、語り手はその原稿にくらくらしながらも街の女に目が行ってしまうというヤツなのですが…先の冒頭の文はその原稿(太字になっている)。証言者も語り手もまさに「無分別」…

では、正常である、分別があるというのはどういうことなのか、次の文を見てみよう、か。

 それらの思考とわたしは無関係で、一体化することもなく、他人の心に映っている映画をある種の無関心をもって見ているかのようで、精神の平穏のためには好都合な心の状態だった。
(p37)

それらの思考とは自分自身の思考のこと。自分で自分の思考をモニターできることが正常であるならば、それが崩れていく過程がこの小説の流れであるだろう。そいえば、モヤの翻訳のあるもう一つの作品も「崩壊」というタイトルだった。関連があるのかも。
(2013 12/30)

境界がなくなっていく恐ろしさ

130ページまで読んで、あとはお楽しみにしておいて、とりあえずここで小まとめ。

先の日記で挙げたように、太字になっているインディオの証言の部分と、語り手の日常が「一体化」してしまう、そこから彼の「無分別」が始動する。それは自分が思うに、彼が気に入った文章を服の内ポケットの手帳に書き留めているから起こる。
禁じられているその行為はその意識とともに人格の境界線を通り抜け、彼の思考を少しずつ染み込んで脅かしていく。証言の中で行われている拷問を、彼を批難した三流作家に対しての妄想内でのうさばらしに使う場面などがその典型例。

一方、6章にある死亡者登記簿の引き渡しを拒否した民事登記士を巡る空想小説のネタは「ぜひ、次はこれでお願いします、モヤさん」と頼みたいくらいに面白そう。そのところに「魔術的リアリズムは、わたしにとってまったく無縁なものではないのだ」(p69)とあるけど、これは「現代ラテンアメリカ文学並走」で出てきた「ラテンアメリカ文学=魔術的リアリズム」という公式というかレッテルに反抗した次の世代であろうモヤにとってどんな思いまたは策略なのだろうか。

一方は話すこと語ることが「無分別」になると、

 話し始めるための刺激を一度受けると、すべてのことをこと細かに物語りたくなり、必然的に一種の言語的痙攣状態になって、洗いざらいぶちまけたくなるという精神の病にわたしが罹っていることを。
(p122)

これ作家の営みそのものではあるまいか?

すべてが淀みもなく美しく読み手の心に届く文学など、文学ではない、とモヤは考えているのか。読み解くのはこの淀み、痙攣状態から。しかし、全てが痙攣していると読み手にも解読不可能になってしまう。この辺りの匙加減をどうするかが作家の個性ともなるのでは? 

でも、この10章の最後で「止めることはできなかった」と語っているのは誰なのかな? 語り手はそんな言葉など聞く余裕もなく逃げてしまっているわけだし・・・無分別を半分くらいは装っているのかな? 何の為?
(2013 12/31)

勝手に歩き回る自己

昨夜の駆け込み寺で、なんとか2013年内に読み終えることができた。

 そしてそのとき心は、かつてわたしのものであったとしても、もはやわたしのものではなく、報道記者のように、山刀を手に持った兵隊たちが手足を縛られ跪かされた住民たちを切り刻んでいる村の空き地を勝手に歩き回り始めた。
(p137)

こうなるともう自己同一性の保持は無理。一番最初の方に挙げた、自分の心をモニターできる能力を失っている。もちろん「歩き回っている」映像を語り手に送り込んでいるのも彼自身の精神なのだが、それは彼自身の自我をではない見知らぬ自己なのだ。

この辺りわかるとわからないとではこの小説の理解がまるっきり異なる。読んで「あんまり怖くない」という感想の人も多いそうだが、それはここを見落としているのでは。

でも、もちょっとボリュームあってもよかったのかな、この題材にしてテーマだと・・・と、ちょっとは思ってしまう。
(2014 01/01)

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