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「物語ナイジェリアの歴史 「アフリカの巨人」の実像」 島田周平

中公新書  中央公論新社

ナイジェリア概要とヨーロッパ到来以前史


人口はアフリカ内トップ(何十年後にはアメリカ合衆国抜いて世界第三位になるのではと言われている)、国内総生産もアフリカ内トップ(二位の南アフリカとはほぼ変わらないけれど、それ以降は大きく離しているという)

トインビーの「ナイルとニジェールの間に」では、アフリカを分断する「アラブ主義」と「ネグロ主義」、これを跨ぐ要の国がスーダンとナイジェリアだ、と言っている。その後、スーダンと南スーダンに分かれたため、トインビーの分断線を跨ぐのはナイジェリアだけとなった。

サハラ交易でラクダが多く使われるようになったのは4世紀くらいから。5人の奴隷の内1人くらいは死んでしまうという過酷なもの。現代のマリ北部にある岩塩採掘場からサヘル地域までラクダに岩塩の板を4枚積んでいく。
(参考:片平孝「サハラ砂漠 塩の道をゆく」集英社新書ヴィジュアル版)

サヘル地域にイスラームを最初に伝えたのは、イバード派と呼ばれる、シーア派の理想主義的一派ハワリージュ派のまた一派。彼らは弾圧を避けるために商取引のみをして積極的な改宗活動はしてこなかった。それに対してマーリク派(スンナ派)が聖戦を起こし、ガーナ王国をイスラム国家化する。

 商人たちによるイスラームの自然的浸透のあとに軍事力を伴う聖戦が起きるというイスラーム化のパターンは、この後も西アフリカ各地で展開されていくことになる。
(p14)


(2021 08/15)

大西洋奴隷貿易とその後(第2、3章)


大西洋奴隷貿易でアフリカから流出したのは総計1200万人? 
もともとそのくらい奴隷がアフリカにいたのだという説と、西洋人の来訪によって奴隷は「作られた」のだという説があって、この本含め現在では「作られた」説が一般的。捕まれられた奴隷は、貿易船に乗るまでは意外に丁寧に扱われたという(許されなかったのは主人の家庭と一緒に食事することくらい)。

西インド諸島でのサトウキビ栽培にかげりが見えてきたことや、綿産業などのマンチェスター派が砂糖保護関税などの撤廃を求めて、結果奴隷貿易禁止の令が出る。
現地では奴隷貿易(戦争等で捕虜を作る)と新規産業であるパーム油の商人が対立。解放奴隷の中には奴隷貿易商人の組合?であるハウスの長になるものもいて、彼らはパーム油などの方にシフトしていった。

奴隷貿易禁止後、巡回艇が取り締まり、奴隷貿易船を拿捕したりしたが、その前に積んでいる奴隷を全部海に投げ入れたという例もあるという。こうした解放奴隷がリベリア(アメリカ合衆国からの)やシエラレオネ(イギリスからの)に移住し、これらの国を作る…こうした解放奴隷の子孫がこれらの国を支配し、もともとの住民と対立したという(それが関係しているのかはまだわからないけれど、この二つの国、内戦が激しかったよね)。
(2021 08/17)

第4章は探検の時代


…なんか内陸部探検→奴隷交易→通商→植民地化…とか考えがちなんだけど、実際は奴隷交易→内陸部探検→通商→植民地化なんだって。

こうした探検家の背後にはイギリス本国の思惑があると見てとった内陸部ハウサの王は、イギリス国王に国書は出したけれど、全面的に信用せず、「今度来る時は海岸から来い」とか言ったという。

探検家としては西(ガンビア)からニジェール川の河口を目指し殺されたマンゴ・パーク、北(トリポリ)から先のハウサのスルタンに会ったクラパットン、彼の部下でクラパットンの死後ニジェール川の河口を突き止めたランダー兄弟などが挙げられる。

こうした探検家達が南部より北部の半乾燥地帯を好んだのに対し、宣教師達は既にイスラームが浸透している北部より南部を選んだ。プロテスタント宣教師のように小さな村にまで入って宣教するのもあれば、イギリス国教会のように国と軍と共同してベニン王国を占領したりする場合もあった。
(2021 08/20)

それ以降…


一気に読んでしまったので…

各植民地の境界をどう設定するか、という細かい話が意外に面白かった。最初は沿岸の基地となっているところだけ策定して、そこから真っ直ぐ国境線を引いたものの、途中で変更したり、とか。

1914年北部と南部が合併し、ナイジェリア植民地が成立。これを構想し実現させたのがルガード総督。
20世紀に入ってから、キリスト教化し、鉄道などのインフラ、パーム油(鉄道の潤滑油など)産業などで南部が発展し、北部は南部の1/5くらいに取り残されていた。その格差を合併することで解消しようとしていた。

第二次世界大戦後(ミャンマー戦線で日本軍と戦ったナイジェリア部隊もあった)、独立に向けた動きは英国の予想を上回る速さで進んだ。しかし主要3民族により民意は分断して、一方その中でのマイノリティはそこにいる主要民族以外の政党を応援した。

1960年にナイジェリアは独立したが、1967年にはビアフラ戦争が勃発、東部イボ人地域の独立闘争であったが、その地域のマイノリティにしてみれば抑圧されただけであった。そしてビアフラ飢饉、ビアフラ政権が国際的に認められていない為、援助はなかなか届かなかった(何故かフランスがビアフラ側を支持、そのためガボン経由で物資を供給していた)

そこから1999年の総選挙まで、一部期間を除いて概ね軍事政権。1970年代は原油価格上昇で「使い切れない」資金が軍上層部に流れ込んだ。
一時民政移管した時期(1978-1983)は国外資本を導入したが、原油価格も下落し、累積債務が増加しまたクーデタが起こる。

1999年総選挙で勝利したオバサンジョ政権には、軍事政権末期のアバチャの恐怖政治からの脱却や汚職の追放などが期待されたが、こういう(主に)西洋の政治や文化に開放的になるのに危機感を持つ層もある程度存在する。フェラ・クティ(ミュージシャン)やショインカ(作家)は、同郷(西部)でもあるオバサンジョに批判的。著者は一定の評価をしている。

その後、ニジェール川河口(ここで原油が掘削されている)のゲリラ(2009年に終息もまた近年再燃)や、ポコ・ハラム(北東部、北部のエミール制からも外れた地域)の女子誘拐など、また遊牧民と農耕民の摩擦も再浮上してきている。
(2021 08/22)

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