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「エペペ」 カリンティ・フェレンツ

池田雅之 訳  東ヨーロッパの文学  恒文社


「エペぺ」

今日からは「エペぺ」。ハンガリーのフェレンツの作品。ヘルシンキ行く予定がどこだかわからない街に来てしまった。
いろんな言葉を試して(主人公ブダイもフェレンツ自身も言語学者)みても、一向に通じない(数字はアラビア数字らしいけど)。でも、言葉より今のところ目につくのは、どこにでもいる?群衆。それもかなり並んでいるはずなのにしゃべっている気配はないみたい。かなりの異邦人感覚…でも、なんだか現代生活って、いつもどこかにこういう感覚あるんだよね…

ない?
(2012 09/05)

何事かが通じない…

とにかく人と言葉が通じない、ということへの絶望観。昨日も書いたけど、言葉ではないけれど何事かが通じない…ような感覚ならたまには(いつも?)感じているのかも。また周りの文字をじっくりと見つめていると、文字が溶解してきて?いつもの了解済みの文字に見えなくなる、そんな練習?でエペぺ感覚を養えるかも…この作品書かれた頃の日本がひょっとしたらモデルなのかも。

それとも、どうかなったのは、街ではなくブダイ自身?(2012 09/06)

どこ?

「エペぺ」少し読み進め。昨日は高度経済成長期の日本かな?なんて思ったが、今日読んだ街行く人々に制服を着た人が多い…というくだりをみると、やはり冷戦期の東欧なのかなとも思う。とはいっても、どこでもない街、または読者の想像をすり抜けていく街なんだろうけど…

それともグローバリゼーションが極度に発達しきるとこうなるのだろうか…

一気読みした方がいいのかな。この手の小説は…
(2012 09/07)

 自分は一つ一つ問題を解決することによって、果して一歩ずつでも前進していたのかどうか、はなはだ怪しくなってきていた。
(p83)

(2012 09/08)

水と自由

ブダイがコミュニケーション不全になったのは、「変身」みたいにブダイ側に問題が発生したのか、あるいは社会の方がおかしくなったのか、どっちともとれる。

 彼らは、おそらく、このすべてを包囲している過剰、果てしのない行列、遅帯、時間の空費、この彼らの生活様式の卑しむべき醜悪さに、もはや気づくことはないのだろうか? 彼らは、おそらく、別の生活様式が存在することさえ想像できなくなっているにちがいない。
(p115)

さっきの問いで言えば社会に問題ありとする見方の文章だけど、意地汚く考えると、「別の生活様式」を創造しようとしても結局現代社会のパラレルなものしか考えられないブダイ(あるいは作者)の限界を提示しているのかもしれない…意識的に。

そうこうしているうちに、ブダイはあることに気づく。

 海、それは開かれた水門で、至るところに通じる自由の水路だ。しかし、今まで彼は、彼を海へと導いてくれる流れ、川、運河に出くわすことはなかったのだ。
(p116)

そいえば、ハンガリーは内陸国だった。自由か群衆に流されるかは、この作品のメインテーマ。流されないではすまされないけど、それでも人は海を思う…

澱んでいく思想、出口のない流れは、時として激流となる…
(2012 09/09)

電話の、間

言葉がさっぱりわからないくせに?ブダイは夜、適当な番号を思い浮かべ、そこに電話をかけるということをしているらしい。と、すると、相手の方でもなんだかすぐに切らない人もいるという…
ずっと群衆が変わらない線の太さで動き続けていたこの物語の、ちょっとした隙間?

都市内部でも意思疎通不可能?

「エペぺ」4、5章読み終わり。

 彼はこの一方の麻痺した消極主義の大気の中で、まったくの無関心と無頓着に取り囲まれて暮らしていた。そのような場所では、彼はただ一人の人間の関心さえ喚起できないのだった。
(p191)

「大気」という語がいい味だしてるが…この辺なんて現代社会そのものだ…

その証拠に(か、どうかわからないが)、この直後と第5章には、実は都市成員の間でも通じていない、という疑惑の場面が出てくるのだが。そんなことって…あるのか。
(2012 09/11)

ブダイのオブセッション

今日読んだところはブダイとエレベーターガール(仮にエペぺ)との停電の夜の一夜と、ホテルから追い出されたところ。

で、標題だが、この小説始まってからブダイが街をふらつく度に見るのが建設中の高層ビル。見る度に階数が増えていく。今日読んだ箇所では、これはブダイのオブセッションと書いてあった。今まで読んでる方としてもずっと気になっていたこのビル…たぶん、ブダイが最後にたどり着くのは(あるいは眺めるのは)このビルになるのであろう…と、予想たてながら読み進めている。
(2012 09/12)

故郷とユートピア

 故郷はついに実像を結ばぬ幻影となり、こことは異なったある場所、ついには辿り着くかもしれないある地点というふうに変化し続けていった。
(p258)

ホテルから追い出されて路上生活者、日雇い労働者の生活となったブダイ。故郷から離れていくといつの日か故郷が実際とは違うユートピアにすりかわる時がある、ように思える。そうなった時、郷愁が始まり…ついには辿り着くかもしれないある地点…というのは…死?

(さっき思ったけどブダイという名前はブダペストに似てる、やっぱりちょっとずれたブダペストなんだろうかこの街は…それともかなり昔のハンガリー人が今のブダペストに着いたらこうなるのだろうか…)
(2012 09/14)

川は流れ、海へ向かう…

「エペぺ」を今さっき読み終えたところ。

まずは群衆論から。春の訪れとともにこの街にも革命(暴動?)が起こる。

 彼らはまるで無重力状態に陥り、肉体の重さを感じなくなってしまったかのように、見知らぬ者同士が、互いに抱き合い、接吻を交わし、笑い、踊り狂うのだった。
(p277)

具体的にはこの暴動の場面はハンガリー動乱を下敷きにしているのかもしれない。でも、カリンティの書き方は観察者に徹して(意識的に)無味乾燥。この群衆の無重力感も肯定も否定もしていない…

そうした乾いた見方は次の章(暴動が治まった後)の文章で頂点を迎える。

 こうした社会的変動は、ここの住人の生活様式にとって必要不可欠な産物であり、常に彼らに付き纏って離れぬ現象なのだろうか?
(p311)

これなんて、なんか宇宙からやってきた誰かが言いそうな感じ。或いは、私達が蟻塚見て言いそうな…意思が通じない、そんな状況…それがこの作品の重要テーマであるけれど、それは別に身近に満ち溢れていることでもある。
意思が通じない状況と、それでも意思が通じたと感じる不思議な裂け目。この作品では例えば前に挙げた電話のシーン。

(この最後の章では他に、ソーセージが前より美味くなった、という言及も気になる。何らかの皮肉だろうか…)

と、そのソーセージの包み紙を池の中へ投げ捨てると、包み紙は流れていく…この街の水は流れないはずなのに。ブダイは流れに沿って、この街の出口、海へと歩き出す…

最後のページは、マンの「魔の山」と並ぶ、「海を隠して海を描く」文章の感動的な例ではなかろうか…恐らくこの作品全体が(ハンガリー人にとって海というものがどういう対象なのかも気になるところ)…

海は何の象徴だろう。

 さらに彼の眼前には、大海原が紺青と純白の大理石をちりばめながら泡立ちうねり、煙り、時折キラリと輝くように思われた。
(p314)

(2012 09/16)

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