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「そうはいっても飛ぶのはやさしい」 イヴァン・ヴィスコチル、カリンティ・フリジェシュ

千野栄一・岩崎悦子 訳  文学の冒険  国書刊行会

チェコの作家イヴァン・ヴィスコチルと、ハンガリーの作家カリンティ・フリジェシュが半々の構成。こういうのは結構珍しいのでは。これ以下何度も言及しているように、カリンティ・フリジェシュは「エペペ」の作家の父親。


車と網膜と


ヴィスコチルとカリンティの短編集もちょっとだけ。ヴィスコチルでは、大人になるために?車を手に入れた男の物語。どこにでも自由に行けるために車買ったのに逆にそれに縛りつけられていく過程が面白い。

 ときには気づかれないように車を止めた。でもちょっとでも止っていると、この瞬間に速く、そして楽に、どこか他の場所に行っていられたのにという考え襲われた。もっと適当な場所に。
(p56)


「気づかれないように…」って、誰に(笑)?。こういう、この文でいうと車についての文だけど、車を他の何にでも置き換えられるのでは。

カリンティでは、頭の中の幻視を、網膜に固定し薬品とかいろいろ使って家の壁に投影しようとする話。このカリンティは、「エペぺ」のカリンティの父親。この短編が書かれた20世紀初頭という時期はこういうのが流行っていたのか。

(2012 03/14)

狂人譚2編


「そうはいっても飛ぶのはやさしい」ヴィスコチル、カリンティから、最後のカリンティの短編と、最初のヴィスコチルの短編を、この順番で。

奇しくもこの2編、どちらも何らかの狂気について書かれている。カリンティ(「エペペ」のカリンティの父親)の方は精神病院でどっちが狂人なのかわからなくなってしまう…という、まあありがちまでは言わなくてもたまに見かける構想…そうやって起こるドタバタ劇を見てると最後の一言で、枠物語そのものがひっくり返されてしまう。その時、読んでいる自分は果たして…と軽く考えながら読み終わる、という…そうしてタイトル見ると、またひっくり返し…この人漫画家気質がありそう。

上記カリンティが外側からのアプローチだとすれば、ヴィスコチルの方は内側からのアプローチ。劇場演出家になった取り柄のない主人公が味わう「栄光と挫折」。そこにある社会への皮肉は読んで楽しんでもらうとして、このウルクという主人公にある日できてしまった何らかの芸術的信念。それが狂気の始まりで、そこからそれを受容する社会へ狂気が移っていく。カリンティの作品とは反対のベクトル。
(2012 11/17)

飛ぶ話…


今回読んだ中で一番のお気に入りは「飛ぶ夢、…」。標題作もそうだけどなんかこの人の作品には飛ぶことが多い。飛ぶというのは何らかの断絶が生じるわけでして…
「飛ぶ夢、…」はほんとはもっと長いタイトル(笑)、本編と3つのメモ書きみたいなののコラージュになっている。これはさっきの断絶とつながるし、チェコアバンギャルドの手法も思い浮かぶ。

夢が夢を見るというのは、パヴィッチも想起させるけど…なんだか今までこの夢の夢というテーマ、幻想的ないい味わいとしか思ってなかったが、ひょっとしたら監視社会とかシュミレーションや画一的人間社会など、批判的要素もあるのかも。んで、一番よかった?のがラスト。その夢が夢を語るところで短編が終わっている…ぷっつりと。その話聞かせろっ、とも思うが(笑)、ひょっとして別の短編として書かれているのかも。
で、今は標題作の途中…気になるんだけど、読む時間がなくなってきた…

エレベーターの先には…


というわけで、「そうはいっても飛ぶのはやさしい」(標題作)を読み終わった。
最初の方の音楽の流れ作業?というのに息を飲まれるような感じを受けていたら、もっと早い流れに次々流されて、気がついたら読者も主人公と一緒にエレベーターの一番上に立っていた…そんな作品。
そしてエレベーターは…20階以上何らかの残骸あるいは建設放棄の建物の上にそれだけでそびえ立っている。

 きっと、ここで建設に従事した人びとは、つぎからつぎへと仕事をやめて、巨大建築の内部へときえてしまい、そこにもう住みついたものたちは関心を失い、計画を失って、建設がまだ終わっていないことを忘れたのか(後略)
(p114)


ここ読んで思い出すのは、バベルの塔か自己組織化か、はたまた自分の人生のかたまりか。一番先を歩いているはずが、自分の作ったものに飲み込まれて、先を歩くことを忘れてしまう。というような人間社会の自己組織化説を今はとっておきたい…なあ。
続く「冬外套」は外套のポケットに落ち込んだ?ところまで。そういう仕組みだったとは、本のオビ見るまで気がつかなかった…

それはそうと、この標題作のタイトル、どんな意味なんだろう、ゆっくりと考えてみたい… 
(2012 11/19)

外と内、未来と過去?


「ズビンダおじさんの冬外套」読んで、これでヴィスコチルの方はおしまい。
前の「そうはいっても…」から一転、アットホームなお話。ただ、共通するところも実はあって、それはポケットの中にまたポケットがあって(またはエレベーター)という際限なき要素をはらむ話であること。「そうはいっても…」の方が先へ先へと未来へ向かうのに対し、「冬外套」の方は内へ内へと過去に向かう…なんかそうではない気もするが、今はそういうまとめにしておこう…

たぶん、この作家にとって、過去と未来はそんなに変わらないという認識があるのではないか、と少し考えてみる…

カリンティの影


今日の帰りで「そうはいっても飛ぶのはやさしい」(本全体)を読み終えた。今日はカリンティの残り。

訳者あるいは編集の好みなのかもしれないけど、カリンティの作品全体を見渡してみると、他人には見えない感じられない影がつきまとうものが多い。そのものズバリの「影」や叙情と暴力が併存した死にゆく子供から見た「ドーティ」などはその典型例だが、もう一つの叙情的な馬の話や自分の若い頃に会う話もその変種であるかもしれない。一方で「靴のリボン」という作品は作者が本当は書きたかった大シンフォニーの素描のようなものだったかもしれない…

解説みると、「全ては異なった様相をみせる」というのが、カリンティの創作の元にあったみたい。となれば、影も全ては一人の人間から産み出されたものであろう。楽しい作品も含め、一人万華鏡みたいなのが、カリンティの作品といえるのかも。
とすれば、息子の「エペぺ」も一人の幻想の拡大バージョン…それはなんか違うなあ…
(2012 11/20)

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