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「薔薇物語(上)」 ギヨーム・ド・ロリス、ジャン・ド・マン

篠田勝英 訳  ちくま文庫  筑摩書房

「薔薇物語」

ギヨーム・ド・ロリスの前編と、ジャン・ド・マンの後編からなる。この両者の間には時間差が結構ある(詳しくはまた)。

前編第1部、物語の場所と登場人物の一連の紹介。といっても、語り手以外は、場所も夢の中の「悦楽の園」だし、「人物」も「歓待」とか「美」とか、はたまた「憎悪」とか「下賤」とかの、中世にはよくある概念の人物化になっているし…後者の系列は「悦楽の園」内部にはなく、外壁に「追放」されている。「下賤」とか「貪婪」とかはそれでいいとして、「悲哀」とか辺りからなんかその区別が怪しくなってきて、「老い」や「貧困」と続くにつれて、この区別はどういう基準なのか、と疑いを持ち始める。逆に「園」内部の「富」などの記述には語り手の批判精神が「富」自体にではなくその追随者に向けられていて、この辺、ここからどう展開するか楽しみになってきた。

あと、細かいことで、語り手が夢のなかで外出するときに「縫い合わせて」とある。中世では普通(もちろん一定の身分がある人だけだろうけど)外出時には袖の部分を別に用意していてそれを縫い合わせて出かけたという。ちょっとこれだけ知っておくとヨーロッパ中世が身近になる…
だいたい、見開き右側が本文、左側が訳者注。
(2020 10/27)

愛の神はスナイパー…

ロリスの前編の第2部、「ナルシスの泉」の半分くらいまで。「悦楽の園」に入った語り手は庭園を一人でまわりはじめる。その昔「変身物語」で書かれてナルシスの泉と薔薇の茂みがそこにあり、しかも後ろからは「愛の神」の矢が語り手を狙っていた…「わたしは」と語っているのに、そういう背後からの情報を完全に語ったり、またこの庭の草花や樹々が冬でも枯れないで生き生きしているとか、ちょっと「なんでこんなことまで知っているの?」というところもあったりして。

 どんな小さなものでも、隠されていても、何かに囲まれていても、映し出されないものはない。まるで水晶の表に描き出されているようだった。
(p80)

これは泉の水晶なのだが、この章の最初に「二つの水晶」とありながら、写本の多くが水晶という単語が単数と複数混じっていたり、統一されていても単数形でというなんだか不思議な箇所。

 このような蕾を軽んじてはならない。開ききった大きな薔薇は一日で寿命が尽きてしまう。けれども新鮮な蕾は少なくとも二日か三日はもつものだ。
(p82)

さっきの水晶もそうだけど、ここの蕾の箇所も「神は細部に宿る」的な中世の細密趣味。他にどんな「蕾を選ぶ理由」があるのか…その解読がのちのちの展開に関わってきそうだ。

 けれどもこの矢には特別な力があって、心地よさと痛みを同時にもたらした
(p90)

愛をテーマにした物語には必ずある、こうした振幅がここで謎解きのように現れる。今日はp98まで。
(2020 10/28)

第2部後半。「愛」に臣従する誓いをした語り手は、「愛」からの封として、十の掟とアドバイス?を教えてもらう。愛の過程のさまざまな感情表現で、愛の苦しみと脂身の肉が焼けているのとの比較というのは珍しい気もするが。それと、愛の苦しみと歯痛というのは今でもすぐ通じそうな的確な例えに見えるのだが、意外にも前例は見当たらないという。
(2020 10/29)

「薔薇物語」ロリス編終了?


第3部はいよいよ蕾にアタックする語り手。そこに立ちはだかるものと、協力してくれるもの。「理性」の立ち位置が微妙で、娘が「羞恥」だとか、狂気とのつながりとか、いろいろ。「拒絶」の脅しで諦めかけた語り手だったが、そこに登場するのが「友」という人物。これまでのいろいろ登場した「」付きのものは抽象概念の擬人化であったが、この「友」というのは、どこの誰というわけではないが、語り手と同じ人間。同じようなものに後に出てくる「老婆」なんてのもある。

この「友」ほかの協力により「拒絶」を説得した語り手は蕾と接吻する。とここでまた急展開し、攻城戦となる。
と、今朝はここまで…
(2020 11/01)

「悦楽の園」と同じ正方形の「嫉妬」の城。四面にはそれぞれ守備隊を置き、真ん中の塔には「歓待」が囚われ「老婆」(これも「友」と同じように抽象概念ではなく普通の人間)を護衛につけている。

さて、困った、どうしよう。

・・・というところで、ロリスによる「薔薇物語」(前編)が終わる・・・確かにこれでは「物語」が終わったとは思えない、というわけで、後編ジャン・ド・マン登場(前編と後編の間に挿絵が挟まれている写本も多い。この文庫本にもそうした一例として写字生の挿絵が挿入されている)

さて、後編。ジャン・ド・マンは自分の想定以上に前編の要素を引き継ぎ、「これはロリスの物語の続編なんですよ」とアピールしているように思えてくる。

後編最初は前編にも出てきた「理性」の説得。今度は長いけど、これもあまり語り手には伝わっていない様子。前編と異なるのは、キケロとかボエティウスとかの著作をふんだんに引用していること。まあ、中世は本などほとんど出回っていなかったから、こうした書き写しによる流布は当然だったのだろう。
(2020 11/03)

「運命」のぐるぐる回る家

「理性」による説得、の続き。
「運命」を回る糸車のようなもので表し、高いところから低いところへ、また逆へとぐるぐる回るという表象は、中世においてよく見られたものであるが、ここでは「運命」の家なんてものまで出てくる。

 そしてある木が緑に包まれると、他の木々は緑を失います。またある木が花をつけると、他の花は大多数が萎れ始めます。ある木は高くそびえ、隣の木々は地を這います。そしてある木が芽吹き始める一方で、他の木々は枯れたままです。
(p252)

これが「運命」の住処の森だという。ここの内容はアラン・ド・リールの「反クラウディアヌス論(クラウディアヌス反駁)」という本からのマンの翻訳引用だという。
後編の書かれた主たる目的はいろんな本の引用を掲載するため、なのかしらん…(2020 11/04)

ジャン・ド・マンの「言葉と物」

「言葉と物」といえばフーコーなんだけど。

というわけで、「理性」の説得の最後の場面は「言葉と物」論争。

 いやむしろ、神がすべての事物を作ったにせよ、少なくとも名辞は作らなかったはずだと反論するのでしょう。ここでお答えしましょう。おそらくそのとおりです。少なくとも事物が現在持っている名についてはそのとおりだと思います。最初に世界全体とそこにあるすべてを創造した時には、それらに名前をつけたはずですが。しかし神は、わたしが自分の気持ちのままに事物の名を見出し、固有かつ共通の名で名指して、われわれ相互の理解を増すことをお望みになったのです。そして、きわめて貴重な贈物として、言葉をわたしにくださったのでした。
(p295-296)

創造神の名付けと「われわれ」の名付けは、事物の切り出し方が違う、ということか。でも、神が名付けるとかいう説明は、少なくともパルメニデスのような「あるだけがある」という考え方には結びつかないだろうなあ。
それでも神(イデー)の世界と人間の世界、両者に目配せし折り合いをつけるこの巧い説明。これはプラトンの「ティマイオス」由来らしい。

 習慣というものは実に強い力を持っています。
(p298)

山内志朗氏の本(「普遍論争」平凡社ライブラリー)でも読んだ「普遍論争」。唯名論者と実念論者との論争。ここでの「理性」は唯名論者。

 しかしわれわれの学校では、多くのことがらを比喩を用いて話します。
(p298)

同じページのこの文、解釈によっては、「薔薇物語」の読解の手引きとなる文であるらしい。うーん…興味深いところではあるのだが…

「理性」退場ののちは「友」が登場するらしい。前編と同じ。ひょっとして、ジャン・ド・マンはロリスの未完成?作品の筋だけ借りて、主張したい様々なテーマで膨らませているだけなのかも。
(2020 11/05)

オウィディウス「愛の技法」との齟齬

長いけど、引いてみる。

 賤しい心の持主はとても高慢で、人々が彼らに友情を感じて腰を低くすればするほど、かえって相手を蔑み、尽くせば尽くすほど、馬鹿にします。しかし人々からほうっておかれると、彼らの自尊心はたちまち小さくなります。蔑んでいた相手が、実は彼らは気に入っているのです。そうなると彼らは手なずけられ、心を和らげます。というのもほうっておかれるのが嬉しくないどころか、実に辛いのです。海上を航海して数々の人跡未踏の地を探し求める水夫は、ただひとつの星だけを見ているとはいえ、常に一枚の帆だけで船を走らせるわけではありません。頻繁に帆を代えて嵐や風を避けるのです。同様に、愛してやまない心は、常に一気に走り続けるものではありません。
(p315-316)

p322の「彼ら」の注付近は、元々の引用元オウィディウス「愛の技法」と、「薔薇物語」の物語設定としてのアレゴリーが齟齬をきたしているところ。篠田氏の訳は、アレゴリーを生かしたものになっているが、全体的にはこの「彼ら」を一般の人達にした方が収まりつく。
(2020 11/07)

ちょっと戻って「理性」の勧告の…

 繁栄は人々を無知のままに放置しますが、逆境は知恵を与えるのです。
(p214)

貧困状態に陥ってしまうと、多くの友人は彼を離れるが、それでも友人としている人こそ真の友人である、など。この具体例?をこの後、「友」が話す(p336辺りから)仕掛け。また、p339に出てくる乞食に見せかけた詐欺?集団。この後の展開を見ると、托鉢修道院のことを指しているらしいけど、注にある職業的乞食というのも捨てがたい。p352からは「嫉妬深い夫」が結婚生活と女性に対して蔑視発言をえんえんと語る。後に女性知識人から批判されたというのは典型的にはこういうところなのだろう。
(2020 11/08)

いよいよ城攻略…

「薔薇物語」後編に入って、「理性」と「友」という二人の長いディスクールが終わり、上巻最後の方になって「嫉妬」の城攻めが始まる。ギヨーム・ド・ロリスとジャン・ド・マンの名前もここだけに出てくる。前編はギヨーム・ド・ロリスの作品となっているけど、それの根拠はここに書いてある記述のみ。だから可能性として、ジャンが両方とも書いたというのも否定はできない。

あと「見せかけ」という托鉢修道会がモデルらしいのがいて、今長い口上を披露中。ジャンの批判精神というか、性向が垣間見える。
(2020 11/11)

「見せかけ」の托鉢修道会批判続く

p464の最後の行(段落変わっているとこ)には、多くの写本において何かが挿入されているものが多いという。これは修道会そしてその背後の教皇庁への批判として、用いられたことを示しているという。もちろんジャン・ド・マンもその一派。p468辺りからは作者はほぼ直接批判を開始。今まではオウィディウスだったり、ボエティウスだったりした引用元が、今度はパリ大学教授団の代表人物で1256年に王国追放と禁書扱いを受けたギヨーム・ド・サン=タムール。
でも、「見せかけ」は、自分で自分の立場ややり口を批判しているんだよな…

あと、引用元の引用元、聖書のこんな言葉(注から)

 進んで実行しようと思ったとおりに、自分の持っているものでやり遂げることです。進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。
(p475)

修道会批判とか関係なく、背伸びや欲出さないで、自分の内面を見るように、と…ここまでの余裕が心にあればいいのだけれど。

ここまで来たらもう少し…と、上巻最後まで。「愛」がどうして「微笑みながら」、「見せかけ」と「強制禁欲」を自分の陣営に入れたのかよくわからないけど、彼らはさっきから非難の元になっている修道会士に化けて「中傷」のところにやってきて騙して殺す。案外、この物語、ダークになってきた。あと、そのおまけみたいに、城内でお互いに飲み合って潰れていたノルマン人たくさん…彼らも「見せかけ」達に絞め殺されるのだが…彼らの扱いはほとんど偏見で片付けるのか(笑)
(2020 11/12)

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