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「社会学の方法 その歴史と構造」 佐藤俊樹

叢書・現代社会学  ミネルヴァ書房

佐藤俊樹氏の社会学の方法(ミネルヴァ書房の社会学叢書の1冊、デュルケーム、ジンメル、ウェーバー、パーソンズ、マートン、ルーマンを通して社会学史を見るというもの。この6人のうち5人が、中世のロタールの国にゆかりがあるというのも面白い、と佐藤氏)。

デュルケーム


今日は1〜3章、主にデュルケームについて。2章では反教権派(19世紀半ばから出てきた産業社会のいろいろな歪みを、カトリシズムの復権ではなく、社会的な中間組織などによって修正しようとした)としてのデュルケーム。3章では主著「自殺論」を現代統計学的、方法論的に詳しく論じ、「裏返して」みることにより、問題点と利点を挙げていく。この3章は「社会学の方法」というこの本のコンセプトを如実に示していてわくわくして読めた。古典を批判的な読みを通して、そこに浮かびあがる手法的な問題点を理解していこうというスタンス。

 たんに妥当な解釈を発見するというより、仮説に必ずふくまれている先入観を反省的に考え直していく。そういう形で全否定も全肯定もしない、第三の途を見出していく。
(p94)
 デュルケームは一つの原因には必ず一つの結果が対応し、一つの結果には必ず一つの原因が対応するとした。
(p105)


これだけだとわからないかもしれないが、自殺は個人的な問題から起こるのではなく(同条件でも自殺しない人もいるから)、社会的な事象から起こる(社会全体主義)。この考えからすれば、彼の社会学は集団になって始めて可能になる。個人レベルでは断片的にすぎない。

 物理的には目には見えないが、社会学の視線の下ではその挙動を確定的に知りうるという意味では、それこそ「モノのように」目に見える何か。それがデュルケームの考える「社会」だった。
(p110)


そのデュルケームが「今の」社会学を作り出した。社会学という制度としても。そこで彼自身は社会学の外にいて社会学を見、後の社会学者は自分達の社会学の中に彼を見る。創始者とはそうしたものだ。彼と現代社会学を橋渡ししたのが次に出てくるジンメルとウェーバーの二人。
ところでデュルケームという読みは、フランス語読みでもドイツ語読みでもない。デュルケームの近くにいた人々がそう呼んでいるとわかって、日本ではそう呼んでいるのだそう。
(2013 11/24)

ジンメルとウェーバー


ジンメルの社会学は形式社会学と呼ばれるのだが、その形式とは人間がものを見る時や考える時に使う枠組みというか尺度みたいなもの。認知科学にも似てきているのか。それはともかく、ジンメルはこうした形式のなかで、その人個人のものと、人間としてある程度共通に持っているもの(時間概念等)を除いた部分を社会的な形式と言っているわけである。著者の佐藤氏はジンメルの文章読むのは彼と一緒にダイビングをするみたいなものだ、と言っている。どれだけ深層まで潜れるのか…ウェーバー読むよりかなり時間かかると。

そのウェーバーだが、ここでも方法論を。社会学それも過去の社会の考察の場合は特に自然科学的な実験ができないので、ウェーバーは差異法を使っているのですが、そこでのウォースラーティンとの比較が興味深い。前者は空間的比較、後者は時間的比較、そこで何が起こるか…また常にウェーバーは複数の論理の経路を用意しているとも書いています。
このジンメルとウェーバー。両者とも新カント派の影響にあったという。カントの批判三部作読まないと…
(2013 11/26)

パーソンズとルーマン

パーソンズのAGILシステムは結局は失敗だったが、反証できるほどの理論を作り上げたのは理論社会学への道を開いた、というのが佐藤氏の認識らしい。それを次のマートンやルーマンが継ぐ、という形か。
(2013 11/29)

 機能主義的分析の意味は、ある(限定された形での)比較の領域を開くことにある。マリノフスキーが儀礼の機能は感情的に困難な状態への適応を容易にすることにあるとするとき、それによって、この問題について他にどんな解決可能性があるのかという問いかけが暗に投げかけられるのだ。
(p276 ルーマンの論文「機能と因果性」より)

というわけでルーマン。こう考えるととてもわかりやすい。というか、こういう考え方好み。具体的事例にある都市貧民の援助という問題なら、「自立した生活を営む」というのがその「機能」に当たる。で、ルーマンは因果性の研究方法もこの機能分析に還元できるとした。もちろん問題点もあるのだが(因果性ということ自体は機能分析の外部にあるなど)、そうした視座が教えてくれるものは多い。
(2014 08/24)

自己論理と自己産出


6人の社会学者篇を終わって、現代の社会学の「使い方」篇。ここで出てくるのが標題の二つ。この二つルーマンのキーワードでもあるけれど、東京大学ituneUで佐藤氏が提唱していた「常識をうまく手放す」と「社会が社会をつくる」にも繋がる。 

後者はまだ読んでいる最中なので、まずは前者を。社会学者(観察者)も社会の構成要員であるから、当然自己言及的になる。観察者が観察対象をコレコレのように見るのは、ひょっとしたら観察者自身がコレコレな為かもしれない。そのコレコレ度(例えば社会の不透明さ)は観察者の分を入れるとあまり見かけほどは増加していないと考えられる。 

この自己論理の考え方は、実はウェーバーの「価値自由」やジンメルの「形式」も先取りしていた。この二人はともにカント哲学の影響を受けていた。よくよく考えてみると、ソクラテスの「汝自身を知れ」という哲学にとっての基本命題から始まるのかもしれない。 
「常識」の「うまく手放」し方は命題の作り方とその図式のずらし方にある。

後者の自己産出の(佐藤氏による)定義は

 構成要素が時間とともに変化し、遡及的に前の要素も変わることがある
 システムの内と外が了解されている


自己産出の考え自体は、「知恵の樹」のチリの二人によって提出された。社会学に応用する具体例として、組織や法システムなど。組織間、法システム間…だけではなく、違うシステム間の比較も。
ルーマン自身は、社会全体も一つの自己産出系だと考えていたらしいけど、佐藤氏はこれには否定的。この辺が「ロマン主義的」と名付けられているのか。
(2014 09/01)

 複数性というのは、正しさの不足ではない。むしろ正しさが成立しうる要件の一つである。
(p397)


これも逆転な発想。多様な答えが出てくるから正常だとする考え。逆に、一つしか答えが出てこないのは何か見落としている可能性有り。
(2014 09/03)

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