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「微笑を誘う愛の物語」 ミラン・クンデラ

千野栄一・沼野充義・西永良成 訳  集英社

笑うと負けよ〜あっぷっぷ?

 われわれ一人の過去は犯罪者の伝記のようにでも、愛されている元首のようにでも、いかようにも上手に書くことができるものさ。
(p34)

 しかし、嘘のつけないこともある。僕が核心にまで達し、その意味を理解し、愛し、真面目に受けとめていることだ。そこでは冗談をいうことができない。そこで嘘をいったら、自分で自分をいやしめることになり、それはできない。
(p44)

 わたしたち二人が事件に鞍を置き、それを操っていると思っているのは単なる幻想にすぎなくて、それはもしかしたら全然われわれの事件ではなく、どこか外から押し付けられたもので、わたしたちを性格づけているものでもなければ、その奇妙な極まりない動きにはわれわれは無力で、どこか他所の知らない力でコントロールされ、われわれを運び去ろうとしているものだということを理解した。
(p46)


「微笑を誘う愛の物語」の第1楽章(まあ、クンデラ風に(笑))、「誰も笑いはしない」を読んだ。

「笑い」「微笑」は一貫してこの作家の根幹テーマであると改めて認識。この短篇集はクンデラ唯一の短篇集であり、「冗談」と並んで彼の処女作と言ってもよい(ちなみに彼の付けた「作品番号」は「作品2」らしい。「作品1」は「冗談」)。

さて、この「誰も笑いはしない」は、芸術論の教授?が、出来のよくない論文を持って来た小男にあやふやな返事をしたことから、その小男と威勢のよい妻につけまとわれて、それに教授の愛人もからんでくる、といったお話。こういうのを「お話」として読ませるのは本当にクンデラの真骨頂。カルヴィーノもそれに比べればまだ重いか。

なんか、引用が長くなっているけど、第1の文は当教授に学科主任が言った言葉。第3の引用につながるところもあるかもしれない。この「いかようにも」書けるところ、その「いかよう」でもないところにその人間の真実はあるのだろう。そしてクンデラはそれをつかみ取ろうと物語を書く。

第2の引用は、物語がごたごたしてきた頃、当教授が愛人に言った言葉。その娘クラーラが「別に今まで嘘をたくさんついてきたのだから、その小男の論文くらい褒めてあげればいいのに」というようなことを言ったのに対し。結局は愛の為に人は追いつめられていくのか?(グリーン「事件の核心」の中心主題にもつながる)・・・と書くと、なんか陳腐だけど、そういう「ゆずれない」線というのは確かにある。自分のような生半可ものでも。ただ、クンデラが強調したかったのは、この引用部分よりもむしろその前の「嘘」についての記述なのかもしれないなあ、と少し感じている。

第3の引用は、終盤、小男の妻と「対決」した場面から。ここは意表をついて静かな雰囲気が漂い、一番印象的だったところ。ここで言う「外」というのは、決して「政治体制」とか「世間」云々とかでなく・・・えーと、「運命」?なんか違うような・・・結局クラーラにはふられてしまうので(教授職はなくさずにすんだのかな?)、彼にとっては悲劇なのだろうけれど、でもなんか最後には彼も「喜劇」かも?と思っているし、ま、人間とはこういうもの・・・(で、済ませちゃっていい?)
(2011 06/05)

「微笑を誘う愛の物語」第2楽章はナンパ物語・・・


「永遠の憧れの黄金のリンゴ」から、ちょっと時間ないので引用少し。

 それは前もって追跡が水泡に帰することを前提にすることによって、毎日無制限の女性を追跡することができ、この追求を絶対的な追求とすることができるのである。
(p76)


人生を「ゲーム」として生きるか、「過度」に信頼して異端者として死ぬか。ユダはイエスを信頼し過ぎたから裏切った・・・とはやっぱグノーシス主義?
こういう哲学的テーマを「ナンパ物語」の中にさっと挿入するのが、クンデラらしい・・・と言ってはそれまで?
(2011 06/10)

ゲームその3

 これはまさしくその反対で、ゲームを通じてしか自分自身になれないのではなかろうか? ゲームによって解き放たれているのではなかろうか?
(p97)


「微笑を誘う愛の物語」から3番目の「偽りのヒッチハイク」。
何が偽りなのかというと、実際には恋人同士なのに関わらず、「ヒッチハイクごっこ」をしているから。ヒッチハイクという口実で誰彼構わず寝るという男女を演じることで、なんだか双方ともいつもの自分から離れ、しかしそうしたいつもの自分から離れた(これも)自分でしか新たな次元には入れない…という「言語ゲーム」を描いたもの。
よく考えてみれば、これに先立つ2つの短編とも何かの故意的な企みというかゲームというかがキーとなっている。次の短編「シンポジウム」では、登場人物の一人がそういう企みこそ人が自由である証である、と宣言?するのだが…

その「シンポジウム」はまだ取っ掛かりまで。(例によって)7作品のこの短編集のちょうど真ん中にあるこの「シンポジウム」は、この短編集自体のテーマを論じた「自作中シンポジウム」なのかな?前にもそういう感じの章があったようななかったような…
ところで、「偽りのヒッチハイク」の二人はあれからどうなったのかな?
(2011 06/23)

戯曲と小説の境?

第4楽章?「シンポジウム」読み終え。

 ドン・ファンたちの時代は終わったのです。今日のドン・ファンの子孫にできることは、もう征服ではなく、収集だけです。
(p132ー133)


第2楽章?との連関も思い起こさせるこの文章。そして、もっと言えば、なんとなく世界史の流れとも関係ありそうな、なさそうな。「征服」の時代は終わり、「収集」(博物学、人類学)へと。この時にエロティシズムの世界においても何かが変わった、とこのセリフの語り手ハヴェル氏は言わんとしているのだろうか?(ハヴェル氏は第6楽章?と関係あるのかな?)

で、この第4楽章はなんだか戯曲仕立て。作品目録みてると1作品だけ戯曲があるのだけれど、それ以外の作品もなんだか戯曲と深い関わりありそうなの多いよね。「笑いと忘却の書」ではイヨネスコの戯曲が出てきたし(確か)、この作品でも「第◯幕」とかなんとか・・・でも、フライシュマンが家の庭からバラを摘むところは(視覚的な)戯曲効果を捨て去って小説的愉しみを狙っているような気もするし。ここいらへん、も少し追求すればいろいろ面白いテーマがでてきそう・・・
と言いながら、自分っていつもここまでで、その先へ進まない(笑)・・・
(2011 06/26)

生は彼方に…の原案?

「微笑を誘う愛の物語」第5楽章は「老いた死者は若い死者に場所を譲ること」。
この意味ありげなタイトルは墓地整理係?が発した言葉だが、物語は十何年か前に一度きりの関係しかもたなかった男女が小さな町で出会う、というもの。その時の相手と自分、そして現在の相手と自分…この離れたイメージをなんとか結びつけようとしたり、前のイメージを保護しようとしたり…自分としては、女とその息子(夫は十年前に亡くなり、しかも「整理」されてしまった…)の関係が、「生は彼方に」を想起させるのが気になった。こっちを膨らませたのが「生は彼方に」なのかもしれない。
(2011 06/27)

ハヴェル先生の二十年後と十年前

「微笑を誘う愛の物語」読み終え。
第6楽章がハヴェル先生の二十年後であるとすれば、最終楽章「エドワルトと神」は第4楽章の十年前なのかも。名前は違うが…

 そう考えるとエドワルトにはもう彼女の姿は、肉体と思考と人生経験の偶然の寄せ集めにしか見えなかった。有機的なつながりを持たない、いい加減で不安定な寄せ集めだ。
(p282)


エドワルトの前に現れる二人の女。彼の勤める学校の校長と、彼が狙っている信心深い娘。前者は共産主義下の無神論信奉者、後者は教会に対する圧迫があったこの時代に敢えて信仰を強調する…どちらもエドワルトと絡むことで、その言動と反する結果になってしまう。じゃ、エドワルトがエライのかというと、そうでもない…けど、全世界にいる(自分も含めた)無数のエドワルトに微笑というエールを送りたい。というわけで、一番小説集タイトルにふさわしい短編かな?

一つ気になってわからなかったのは、この短編の語り手は誰なのか?ということ。なんだか死者に対しての弔辞みたいな気もするけど、そうではない気も。それに章ごとに若干語り口変わるし…
(2011 06/28)

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