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「知の考古学」 ミシェル・フーコー

慎改康之 訳  河出文庫  河出書房新社


序論


歴史学においての長い時間変化への興味の移行(アナール学派等)、思想史・科学史等における断絶・非連続、この相反するような見かけに惑わされないように、とフーコーは言う。

 歴史学、それは、一つの社会がそこから切り離されることのない無数のドキュメントに地位を与えてそれを練り上げるための、ある種のやり方なのである。
(p19)


このドキュメント(後ではドキュメントをモニュメント化させる、とも言われる)が、本論では言表として中心に取り上げられる。
また、マルクスやニーチェに始まる脱中心化、人間主義からの脱却に対し、同じ時代から人間主義的な主体の至上権を取り戻す動きがあり、その「最後の砦」?が歴史の連続性なのだという(その人間主義ではマルクスやニーチェもそのように読み替えられる。その読み替えにより起こったのが、マルクスにおいては「全体性の歴史家」とされ(その極限が共産主義(これは自分への注))、ニーチェにおいては「根源性の探究者」とされる)。

ここで、訳者注および解説から情報仕入れ、全体的な構図を見ておく。フーコーの見取り図において、それを阻害するこの人間主義的な見方の代表が、数学の普遍性からそれを模範として歴史の本質的構造を明らかにしようとするフッサール(ここで「歴史的アプリオリ」というフッサールの使った概念をフーコーも使用するが、それは全く違った概念として再登場する。またフーコーからすれば、数学は「模範」ではなく「悪しき例」(早くここのところ読みたい!)。
またこのフッサールの考えが明示された「幾何学の起源」(前に野家啓一が「物語の哲学」で挙げていたもの)の仏訳をデリダがして序文をつけているが、デリダは「先行する企図を無限化によって覆す革命は一つの隠れた志向の意識化でしかない」(p398)と語っている(序文に書いてあるのではないみたい?))。

サルトルの話題も。サルトルが共産党内で「ブルジョア的帝国主義の最後の城塞」と批判されているのを知っていたフーコーは、後に1966年にフーコーや構造主義者に対してサルトルが向けた批判にも「ブルジョアジーがマルクスに対して今なお築きうる障壁」という言葉が入っていたのを見つける…「私は驚きもし、また愉快にも思ってもいます。彼と私は、同じ軸のまわりをぐるりと回ったのだ、と言えるかもしれません」(p399)。
また、フーコー自身、(確かフーコーコレクション1の最初に掲載されていた)1954年のビンズワンガー「夢と実存」への序文ではかなり明言的に「人間」こそ特権的研究対象であると言っており、後の「狂気の歴史」、「臨床医学の誕生」、「言葉と物」でも年を経るに従い減ってはいくが人間主義的語彙が散見される(版を改めた時に変えているらしいが)。この「知の考古学」はそれらへの自己批判でもある一方、それらの本の関係とまとめの書でもある。

 多くの者が、おそらく私のように、もはや顔を持たぬために書いている。私が誰であるかと言わないでくれたまえ。それは戸籍道徳であり、我々の身分証明書を規制している道徳である。書くことが問題であるとき、そのような道徳は我々を自由にしておいてほしいものだ。
(p40)


ここはベケットの「反古草紙」の中の言葉「誰が話そうと構わないではないか。誰が語ったのだ。誰が話そうと構わないではないか」(p401)を踏まえている。この言葉はフーコーのお気に入りだったらしく、折に触れ何回も引用されている。
(ここまでくると逆に「幾何学の起源」読みたくなるではないか。もちろん、サルトルやデュメジル(フーコーはデュメジルに多くを負っていると語っている)やベケットも)

第2部「言説の規則性」-第1章「言説の統一性」


まずはフーコーが囚われてはならない、とする諸観念。
連続性の観念…伝統、影響(「類似ないし反復の現象を、因果性の外観を示すプロセスに(ただし厳密な境界画定も理論的定義も行わずに)関連づける(p44))、発達・進化、心性・精神など
切り分け方、グループ化、ジャンル…文学的ジャンルはもとより、「政治」とか「文学」とかいう切り分け方そのものまでも
書物や作品そして作者…「ニーチェ」という名は学校の小論文、「ツゥラトゥストラ」、クリーニング店の伝票などで同じやり方で関わってはいない…
「互いに結びつき向かい合っている二つのテーマ」…1、あらゆる見せかけの始まりの彼方には常に秘められた起源がある、2、言表の裏には「語られなかったこと」がある、明白な言説は、それが語っていないことの禁圧された現前でしかない
ここまで、囚われてはならない諸観念。
これら「解放されるべき」様々な観念は、もちろん完全に放棄すべし、と言っているわけではない。それらに立ち戻り点検していくことも重要。

さて…

 連続性のそうした直接的な諸形態がいったん宙づりにされるやいなや、実際、一つの領域がまるごと解き放たれる。巨大な領域ではあるが、しかし、それを定義することは可能である。それはすなわち、あらゆる実際の(語られたり書かれたりした)言表の総体が、それらの出来事としての分散において、それらの各々に固有の具体的事件において構成する領域である。一つの科学、一つの小説、諸々の政治的言説、一人の作者の作品、さらには一つの書物を、確信を持って扱う前に、その最初の中立性において扱うべき材料、それは、言説一般の空間における一群の出来事なのだ。こうして、言説的出来事の記述という企図が、そこで形成される諸々の統一体を探究するための地平として現れる。
(p54-55)


惹かれるなあ、こういう企て…
(まあ、今でいう(というかこの本でも言葉は出ているが)コーパスなのだろうけれど、もちろんフーコーの企ては言語学的見地ではなく、言説の考察)

 その言表は、なぜ、それとは別の言表ではありえなかったのか。その言表は、いかなる点において、他のすべての言表を排除するのか。その言表は、どのようにして、他の諸言表のただなかで、そしてそれらに対し、他のいかなる言表も占めることのできない一つの場所を占めるのか。
(p57)


(何か引用しておきたい文章一つ抜けたと思うのだが…)

第2章「言説形成」


諸言表の関係を記述しようとした時に出てきた二つの問題。言表、出来事、言説といった概念は何を意味するのかと、先に放棄したグループ化された言表の関係。前者はフーコーによって「宙づり」にされているので、後者から。グループ化(要するに学問やテーマ)に共通の言表規則があるのか。まず、そのグループが対象としているものの存在。これは逆にそうした言表の総体が対象ひいてはグループそれ自体を作り上げていると否定される。続いて言表のスタイル・形式がある程度定まっているという仮定。それも例として挙げられている精神医学においても絶えず変更されている、といって退ける。

 医師自身が、少しずつ、情報の記録と解釈の場所であるのをやめたということ、そして、医師の傍らおよび医師の外に、ドキュメントの総体、対比の道具、分析の技術が、確かに医師が使用するべきものではあるけれど、しかし見る主体という医師の病者に対する変更に加えるものとして構成されたこと。
(p68-69)


ここ、重要なこと言っている気がするが、ちょっと見当つかない(医師の役割の分業化?)ここのところは実は「臨床医学の誕生」で書かれている、という。
また学問領域よりテーマで考える、という方向性に関しては、進化論と重農主義に関して、こちらは「言葉と物」で扱っていて、それも永続的ではないという。
で、結局、「分散そのものを記述しよう」とのことになる。
(2024 01/03)

第3章「対象の形成」、第4章「言表様態の形成」、第5章「概念の形成」


まずは第3章「対象の形成」

 私が明確な例にもとづいて示したいと考えているのは、言説そのものを分析することによって、言葉と物とのかくも強力であるように見える絆が緩み、言説実践に固有の諸規則の集合が得られるということなのだ。そうした諸規則によって定められるのは、一つの現実の無言の存在でもなければ、一つの語彙の正しい用法でもなく、諸規則の体制なのである。
(p97)


この章辺りからなかなか難しいところに突入して、これから三連続「◯◯でもなく、◯◯でもない」が続く。「物」でもなければ「言葉」でもない。言説の諸規則がよって立つのは…というところだろうか。

第4章「言表様態の形成」

 合理性の純粋な創設的審級とみなされた主体も、総合の経験的機能とみなされた主体も、問題にはなっていないということ。「認識すること」も「認識」も問題ではないのである。
 ここで提案されている分析において、言表行為の多様な様態は、一人の主体の総合なるものないしその統一化機能なるものに送り返される代わりに、主体の分散を明示する。つまり、主体が一つの言説を述べるときに占めたり受け取ったりする多様な地位、多様な場所、多様な位置への主体の分散、主体がそこから出発して語る非連続な面の数々への主体の分散が、明示されるということだ。
(p107)


この結論が出る少し前には、例として挙げている臨床医学の医師たちが自身でこういった言表行為を行うに至ったかを解明したり整理したりはしてこなかった、と論じている。それは分散化しているため、自ずからそうなったように見えているのか。

第5章「概念の形成」

 諸概念の形成を分析するためには、それらの諸概念を、理念性の地平にも、思想の経験的な歩みにも関係づけてはならないのだ。
(p122)


ここでは結論の結論から(この文章の前には、前の2つの章の概略も書いてある)。この文の後半は例えば個人研究者が概念をどう書こうかと思い悩んでいるのを想像してみる。前半はここもフッサールに対する批判が含まれている箇所で、「際限なく後退した起源というテーマや、汲み尽くしえぬ地平というテーマ」を排除する。
(2024 01/04)

第3部「言表とアルシーヴ」-第1章「言表を定義すること」


宙づりにしていた「言表」の定義。
「言表」と「言説」。言説は言表によって形成される。「言表は言説の原子」?
論理学、文法、言語行為の分野との比較
論理学…一つの論理学的帰結が複数の言表を産むときもあり、論理学的には無意味な言表もある(矛盾文)
文法…文を為さない(言葉からなる)言表。パラダイム(言語学の文法格変化表)、グラフ、図なども言表
言語行為…言語行為は大抵複数の言表からなる。複数の言表がある一定の並びである特定の場所で発せられた場合のみ発動する言語行為もある。
(「スピーチ・アクト」と「言表」を異質なものとしたのは間違いであった、とフーコー自身がジョン・サールとの書簡で認めた?らしい…ヒューバート・ドレイファス、ポール・ラビノウ「ミシェル・フーコー 構造主義と解釈学を超えて」筑摩書房)

では、言表とは記号か?
言語体系(記号体系含む)そのものは言表ではない。記号そのものは言表ではない。でたらめに書いたアルファベットの羅列は言表ではない(だよね、明示してなかったと思うけど)が、でたらめを作り出す乱数表は言表。キーボードのアルファベット並びは言表ではないが、それを印刷等して表示したら言表(ここやや異論有り。キーボードの配列も言表でもいいのでは?とも思う。違いがよくわからない。もっと言えば、プログラムコードを印刷したものは言表だろうけど、では機械語に翻訳した「0、1」の列を印刷したものは言表ではない?それも言表?)

 言表は、特異な存在様式を持つものとして(完全に言語学的であるわけでもなく、もっぱら物質的であるわけでもない存在様式を持つものとして)、文、命題、言語行為があるかどうかを言うことが可能となるために不可欠なものであり、文が正しいものである(容認可能もしくは解釈可能なものである)かどうか、命題が正当なもの、正確に形成されたものであるかどうか、言語行為が要件に適っており確かに実行されたかどうかを言うことが可能となるために不可欠なものである。
(p163)


p159にはこれら記述的アプローチ(文、命題、言語行為)に対して言表は残滓的要素であると述べられているが、それをある種肯定的にいうとこの文のようになる。
よって、言表とは機能である…らしい。
(となると、人工的、工業的製品も言表になる可能性?)
(2024 01/08)

第2章「言表機能」

 言表の主体は、さまざまに異なる個人によって実際に満たされうる特定の空虚な場所である。しかし、一度で決定的に定められ、一つのテクストや書物や作品を通じてそのようなものとして維持される代わりに、その場所はさまざまに変化する。
(p179)


視点の立ち位置なるものが、一つの言表の中でも複数立ち得るというのが新鮮。それをこれより前で、普通は「教科書的」と思われる数学の記述について確認している。
(2024 01/10)

第2章読み直し。

 言表的レヴェルは、形式的分析によっても、意味論的探究によっても、検証によっても記述されえないということ、そのレヴェルを記述するには、言表と、言表そのものがそこで差異の数々を出現させる差異化の空間とのあいだの諸関係を分析する必要があるということだ。
(p172)


この第2章。機能というより特徴な気もするが、とりあえずaは言表が出現する場についての考察。
bは(上のp179の文もそうだが)、言表上の主体の考察。これも文の主語や「作者」とは違う(もちろん一致する場合もある)。重要なのは言表の主体が必要となる状態分析であるらしい。
cは関連領野。すなわち他言表との関連。同じ文でもそれがどこで書かれたかにより効果は大いに異なる。これはコンテクストとは異なり、コンテクストを生み出すもっと大きなもの、「余白」?
dは物質的・感覚的なものを必要とすること。このdに「反復可能性」も取り上げられている。ここ何か前の記述と食い違っているようにも思える(それぞれの言表はそれが生みだされた状況が重要なのではなかったか。また反復可能であるならば物質性はどうなるのか、等)。ただ、ここは、生みだされた時点・場所を問うことより、反復・変容していくさまが分析として重要であるらしい。

 言表が従うべき物質性の体制は、したがって、時間的かつ空間的な局在性よりむしろ、制度化にかかわるものである。その体制によって、制限されたはかない個別性ではなく、再登録と転写可能性(さらには閾と限界)が定められるのだ。
(p195)


ここ、かなり意識的に政治的・行政的な言葉を連ねている。それによって読者に喚起するイメージを、フーコーは狙っているのか。
…でも、やはりキーボードの配列も言表に含まれるとは思うのだが…

第3章「言表の記述」


…の最初には、上記第2章のまとめのような文がある。

 要するに、発見されたのは、原子のようなものとしての言表-意味の効果、起源、個別性を備えた言表-ではなく、言表機能が作動する領野と、言表機能が多様な単位…(中略)…を出現させる際に従う諸条件であるということだ。
(p201)


このことは、フーコーにとっても意外だったらしい(実際はともかく、ここにはそう書いてあるように見える)。なので、この第3章は見通しの見直しになるらしい。
とりあえず、言説は諸言表の連なり。

 言語は常に、他者、他所、距離、遠くのものによって住み着かれているように思われる。言語は不在によって穿たれているということだ。言語とは、それ自身とは別のものが出現する場所ではなかろうか。そしてそうした機能のうちで、言語自身の存在は消え去ってしまうように思われはしないだろうか。
(p210-211)


何かデリダを思い浮かべそうな箇所だが、こうしたものが言表の存在領域だという。
ここまで、言説から言表へと内側に向かってきた。それを今度は言説形成の場へと反転させようと、フーコーはしている。ただ、もう少しその前にやっておくことがあるらしい。
(2024 01/26)

第4章「希少性、外在性、累積」


最初の希少性は、言語学的諸要素の無限の組み合わせに対し言表の総和は(それ自体かなり多いものの)ごく僅かだ、ということを言わんとしている。宇宙の喩えがわかりやすいか。宇宙には多数の物質があるけれど、実際の宇宙空間に対してはごく僅か。だから分裂したり増殖したりそして誕生したりする余地が出てくるのだ。

 解釈すること、それは、言表の貧しさに対して反応し、それを意味の増殖によって埋め合わせるための一つのやり方である。それは、言表の貧しさから出発しつつそれに逆らって語るための一つのやり方なのだ。これに対し、一つの言説形成を分析すること、それは、そうした貧しさの法則を探し求めることであり、そうした貧しさの重要性を測り、その種別的形態を決定することである。
(p228-229)


言説形成の分析は「価値」の分析だという。この価値は「本質的」という意味の価値ではなく、経済学的な価値になろう。

第5章「歴史的アプリオリとアルシーヴ」


この「歴史的アプリオリ」はフッサールが例の「幾何学の起源」で言っていたもの。もちろんここでのフーコーの用法は別なのだが、今のところ何故この言葉を使うのかがよくわかっていない。アプリオリという言葉の全体性が理解できていないからなのか。アルシーヴ(書庫)、考古学というのも既存の言葉と干渉しそうだが。

 言説実践の厚みのなかに、言表の数々を出来事(その諸条件とその出現領域を持つ出来事)および事物(その可能性とその使用領野を伴う事物)として設定する諸々のシステムが得られるのだ。こうした言表のシステムのすべて(一方では出来事であり他方では事物であるようなものとしての言表のシステムのすべて)を、私は、アルシーヴと呼ぶことを提案する。
(p245)

 アルシーヴは、複数の言説を、それらの多数多様の存在において差異化し、それらに固有の持続において種別化するものなのである。
 可能な文の構築のシステムを定める言語体系と、口に出された発言を受動的に集めるコーパスとのあいだに、アルシーヴは一つの特殊なレヴェルを定める。
(p248)

 それが明らかにするのは、我々が差異であるということ、我々の理性が諸言表の差異であり、我々の歴史が諸々の時間の差異であり、我々の自我が諸々の仮面の差異であるということである。差異とは、忘却され覆い隠された起源であるどころか、我々が現にそうであり現に生じさせている分散であるということを、そうした診断は明らかにするのである。
(p250-251)


なんだか「言葉と物」の人間の終焉の記述みたいだが、あそこ(といっても読んでないけれど)もここも、人類が間もなく世界から去る、というような意味合いではなく、分析方法としての人間中心主義のついて、しかもそれらを全面否定はしていない、フーコーのスタンスが示されている、のではないか。

第4部「考古学的記述」


第1章「考古学と思想史」、第2章「独創的なものと規則的なもの」

これから言説形成の叙述か、と思ったらまた言表の方向へ潜っていくという。ひょっとしたら前章が言説形成の章だったのか…まあそうかもだけど、だとしたらもう少し論じてもいいような…
それはともかく、フーコーはここでも迷っている(あるいはそのように見せかけている)。自分のやってきているこの「考古学」がいわゆる「思想史」のちょっとした変形に過ぎないのでは、と。実際のフーコーの思想の歩みは置いて、ここでの記述は、今までの記述の数倍挑発的になっている(例えばp261)。
(2024 01/27)

第3章「矛盾」では矛盾を矛盾のまま提示するのが考古学、第4章「比較にもとづく事実」では違う言説間の関係はこれまた各言説間で異なる。そして第5章「変化と変換」では一見考古学は無時間性なもので「凝固」させるためのものだと見えるが、時間的要素も思想史とは別の傾向から見ている。

 要するに、問題は、それらの差異を記述することであり、さらにはそれらの差異のあいだに差異のシステムを打ち立てることである。考古学の逆説があるとすれば、それは、考古学が差異を増殖させるという点にではなく、考古学が差異を減少させることを拒絶する-それによって通常の価値を反転させる-という点にある。
(p321)


言説を滑らかにして口当たりよくするのが思想史だとすれば、素材の肌理をそのまま出すのが考古学…という比喩はよくないかな?
(2024 01/30)

第6章「科学と知」
科学とイデオロギー

 それは、科学を、言説形成として問い直すことである。それは、科学命題の形式的矛盾を検討することではなく、科学の諸対象、その言表行為の諸々タイプ、その諸概念、その理論的諸選択に関する形成システムを検討することである。それは、科学を、他の諸々の実践のなかでの実践としてとり上げ直すことなのである。
(p350)


科学を形式として見るわけか(ジンメルの形式社会学の発展性とは言えるか?)

 数学は、その形式的な厳密さおよび論証性への努力において、間違いなく、大部分の科学的言説にとってのモデルであった。しかし、諸科学の実際の生成を探査する歴史家にとって、数学は一つの悪しき例-いずれにしても一般化しえない例-なのである。
(p355)


出ました、数学=悪しき例説…
それ以外の様々な科学は、言説形成において、様々な段階(閾値越え)を経ていく。ポジティヴィテの閾、認識論化の閾、科学性の閾、形式化の閾(p351)。これらは順番がこのように決まっているわけではなく、その科学特有の動きや変遷を遂げるという。中でも数学は、この全ての閾を一度に越えた例なのだ、という。よって悪しきというのはちょっと誇張だが、そこはフッサールの説に対しての目配せなのだろうか。
(2024 01/31)

「科学と知」の最後には、最後まで「宙づりにされたままの問い」(まだあったんかい?)である、科学的記述以外の考古学的記述の応用について。要するにここは、フーコーの「次回予告」。セクシュアリティや政治的言説への応用が語られる。

第5部「結論」


…この標題に関わらず、形式は「想像上の論敵」とそれへの反論というもの。

 そして実を言えば、決着をつけるのはおそらく、私ではないだろう。私の言説が、それをここまで運んできてくれた形象とともに消え去ることを、私は受け入れる。
(p389)


なんだ、最後に責任逃れか、と思うともちろんそうではない(笑)。フーコーの生涯を貫くテーマの一つが主体化の問題。主体化が孕む問題をこの本含めて問い続けた。前作「言葉と物」での消え去る人間」というテーマもそれにあたるし、後年「セクシュアリティの歴史」の計画変更もその主題に関する理由である、と解説で慎改氏が述べている。

 私は、言説を変化させる独占的でその場しのぎの権利を、主体の至上権から奪い去ったのである。
(p391)

解説から

 私の言説のなかで私が生き延びるわけではないということ、私の言説によって私の死を追い払うことなどできないということ、そして何より、そのように私の生を記された私の言説そのものが、実際には私から絶えず逃れ去るものであるということ
(P420)


西欧思考の土台にある「人間学的思考」ー歴史的連続性と解釈的方法ーの拒否をここで方法論として示しているという。前者はフッサールとの、後者はリクールとの対比において。
ここまでフッサールに関しては結構取り上げてきたが、もう一方のリクールに関して。ここでは、フーコーとリクールは正反対の方向を向いている気がする。リクールは懐疑の実践としての解釈を提案する。ただこの懐疑も、結局は意識を今の中心からずらして領野を拡張するために行うこと。意識から逃れ去るものの意識による回収…一方フーコーは人間の言説は主体から絶えず逃れ去ることを全面的に受け入れる。p389の文にあるように。

 語られうることのうち実際にはほんのわずかのことしか語られないという事実を確認しつつ、フーコーは、解釈がそうした「希少性」によってもたらされる効果であることを示そうとする。すなわち、語られたことの豊かさをテーマとするものとしての解釈は、実のところ、語られたことの貧しさに対して反応してそれを意味の増殖によって埋め合わせるため、語られたことの貧しさから出発しつつそれに逆らって語るための、一つのやり方なのだ、と。言説の稀少さないし、その貧しさそのものを明示的な対象とする分析によって、解釈がありえたという事実が説明されるということ。「考古学」にとって、解釈は、使用すべき方法ではなく、歴史の連続性がそうであるのと同様、検討に付されるべき一つの問題なのである。
(p420-421)


解釈もまた研究対象なのだと。
方向性が反対というより、見ている対象世界が異なる気が、一読者としてはするのだが(リクールは個人内面、フーコーは社会全体)、それで済まされない問題層もあるのだろう。今は自分にはそれが何かはわからないが。
とにかく、このフーコーの見方による「解釈」の解釈?とても面白い。
(一部2016 02/11)
(2024 02/01)

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