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「夜明けを待つ」 佐々涼子

集英社

「体はぜんぶ知っている」、「諦念のあと」

「体はぜんぶ知っている」から。

 「私」も息子も、息をさせられ、心臓を動かされている。生きるのに必要なことの、ほとんどを体が勝手にしてくれる。たとえ私がいくら死んでしまいたくとも、体は生きているだろうし、私がまだ生きたいと、いくら願っても、時が満ちれば死んでいく。そう思うと、私たちが「私」と思って後生大事にしているものには実体などなく、「私」というものは、私たちとはまったく別の都合で動いている世界がつかのま見る、短い夢のようなものなのかもしれない。
(p19-20)


この本は死に直面するルポが多いようだが、死を大仰に語るよりも「体は死に方を知っている」というように、意外に自然な死に方を書いていて、この手の話題に慣れていない読者(自分のこと)を和ませる。
この章では作者自身の卵巣嚢腫(のうしゅ)のことについて書かれている。嚢腫とは原始生殖細胞が暴走して別のものを作り出してしまうものらしい。髪の毛とか?爪とか歯とか? とても変わった病気なのかと思えば、割とありふれた病気で作者にも医師は「切りましょう」と言う。が、直前の血液検査で貧血が進んでいることがわかり、手術は取り止めになったという。
上を読んだのは昨夜。今日はまたちょっと進む…と、結局嚢腫の手術をして、その中にはなんと脳細胞の欠片があったのだそうだ。

「諦念のあと」は依存症治療にあたる横浜の医師への取材。

 現状のままの自分を諦め、しがみついていたものから手を放した時、回復は始まる。
 話を聞いていると終末医療の取材で目にした「死の受容」によく似ている。亡くなりゆく人は、怒り、否認、取引、抑うつを経験しながら、やがて諦念のあとに死の受容に至る。
(p39)


他人からコントロールされたり注意されたりではなく、突然何かの時に啓示を受けたように依存症から立ち直るケースがある、とこの鈴木医師は話している。
(2024 03/15)

「いつもの美容師さん」、「痛みの戒め」

「いつもの美容師さん」

 家族でもなく、友人でもない、利害関係の発生しない距離。そういうところにいる人は、年々大事になってくる気がする。
(p68)

 私もまた、端役として誰かの人生にほんの一瞬登場して消える映画のエキストラのようなものだが、そんな存在も悪くない。そのシーンの中でひと言でもあれば、それは重要な役どころだ。
 家族と別れたり、仕事が変わったりしたときも無数の緩いつながりが、私を支えてくれている。
(p69)


5年間お世話になった美容師さんが別の町へ行くことになったことを書きながら、緩いつながりの大切さを書く。著者は東日本大震災の時の取材で、相手が家族にも誰にも話さなかったことを通りすがりの自分に話すのを不思議に思っていた。これも緩いつながりだから起きることで、前の「夜明けのタクシー」でも出てきた運転手とか、かかりつけ医とか、それから美容師とか、そういう位置になりがちな職種というものもある。

「痛みの戒め」
30代の時に、引越しで椎間板ヘルニアになって入院した時の話から。手術は成功して、痛みが消え、車いすから立ち上がる。

 その時驚いたことがある。前日まであれほど苦しんだ痛みを私は思い出せないのだ。身体はそうできているらしい。だしぬけに悲しくなった。自分の痛みすら思い出せないのに他人の痛みや苦しみをわかるはずがないではないか。この絶対的な孤独の中で私たちは生きている。その時まで、どこかで私は他人の気持ちがわかると思っていた。だが、それは傲慢な考えだった。
(p75)


この人は40代でノンフィクション作家になったから、この話はそれ以前のこと。この経験があって他人の話を聞くという姿勢が身についたのかも。と書くとこの自分はできるのかと言われそうだけど、まだまだできない…
でも、自分の痛みは思い出せないけれど、他人の痛みを感じることが、その通路がどこかにあるのでは、とも思ったり。
(2024 03/17)

取材、書くことについて2箇所


「スーツケース」

 なぜ取材をするのか。それはきっと私に想像力がなく、人の気持ちもわからないからだ。だからこそ人の中に入り、話に耳を傾ける。彼らと一緒の空気を感じ、その表情を見つめ、そして少しだけ彼らの世界を知る。
(p99)


「晴れ女」

 膨大な数の事象から何をピックアップしてどんな物語を紡ぎ出すかは、その人の解釈次第だ。編集者の言う「運のいい人」とは楽観主義を貫ける人なのだろう。特に書き手は汚れた泥水の底にはいつくばって、悲劇に見舞われるたびに、「これはネタになる」「これはおいしい」と養分にする生き物だ。
(p111)


著者が想像力がないとはとても思えないが、物を書く人、特にノンフィクションにとっては重要なことだろう。そしてそれにははいつくばることも必要。
これで第1章エッセイ終わり。だいたい本全体の2/5…
(2024 03/18)

「ダブルリミテッド」

第2章に入って、「ダブルリミテッド」4部作。

 実習生で中国人が人気な理由わかる? 顔が日本人そっくりだから黙っていれば外国人とわかんない。世間がどう見るかが問題なんだ。旅館の中居さんがインド人だと困惑する。口に出して言わないけど、日本人って本当に民度が高いからさ
(p122)


小山市の外国人技能実習生の日本語学校の校長、竹内氏の言葉。第1章でも出てきた外国人技能実習生とは3年期限で働かせる制度。移民には入ってほしくないけれど労働者不足は解消したいということでできたらしい。佐々氏は「企業にとっての麻薬だ」と言い切る。この学校では通常の日本語教材よりも、「どけ」とか「指つめ注意」とか、働かされると思われる現場の言葉を教えられる。その言葉がわからなくて怪我をした事例がある。
実習生の中には、妊娠が発覚して中国に戻されたが働きたいため堕胎して戻ってきたり、ずっと働き詰めでたまの休みはずっと家に引きこもっていたり(こういう人は周りからも認知されにくい)。ここで出てくる養鶏場の廃鶏処理の話は一番きつかった。こういうところで働くのはだいたいが外国人。


佐々氏はこの取材で日本語教育を取り上げているのは(外国人のためではなく)日本人のためなのだ、というが、それが一番よく出ているのがこのパート。高齢者の介護や看取りに外国人が関わることも増えている。「看取りの言葉が「グッバイ」「サンキュー」になる日も近い」とも言う。韓国人男性が高齢者介護施設で働く場面は、これでも退職金も出ないのか…と思う。

 親は生活のため朝早くから夜遅くまで働いており、会話をする機会が少ない。すると、毎日学校で日本語だけを聞いているうちに、いつの間にか親の話す言葉がわからなくなってしまう子どもたちが出てきたのだ。親との共通言語である母語の喪失である。その中には日本語能力が身についていない段階で、母語を失ってしまうダブルリミテッドの状態になる者もいた。
(p151-152)


浜松市のムンド・デ・アレグリア。1990年、中南米の日系二世三世に在留資格が与えられて定住するようになる。その子どもたちのための学校。ペルーの子どもにはスペイン語で、ブラジルの子どもにはポルトガル語でまずは教える。続く日本語教育ではシチュエーションを作って言葉だけでなく、姿勢や位置なども細かく教えていく。


秋田県能代市ののしろ日本語学習会。ここでは農家の嫁不足を補うために入ってきた外国人妻のための教育や支援が行われている。確かに、今まで見てきたような職場で集まるような場所ではない、家族の中に孤立して一人の外国人、というのは話せる相手がいないことになる。

 日本語はわかんなくてもいいの。当たり前。でも、自分は何がわからないかをしっかり説明できなければダメ。わからないことを、わからないと言える人だけが伸びます。
(p166)


日本語学習会の代表、北川裕子氏の言葉。
(2024 03/19)

駆け込み寺からタイの僧院まで

「会えない旅」より

 繰り返すのはいつも同じ。欲望と絶望。その振れ幅が大きいか小さいかだけで、誰でも同じような苦しみを抱いている。書き慣れると、人の不幸に不感症となる。魚を下ろすように淡々と他人の人生を書く自分にも倦み、結局二年しかその仕事は続かなかった。
(p177)


その仕事とは新宿歌舞伎町の駆け込み寺、そこに駆け込む様々な人のルポルタージュ。著者の次にこの寺の助手として来たのが、「会えない旅」の旅で会えなかった人。この人も振れ幅が大きい人生の僧侶。難病で生まれた娘を百日で亡くし、なのに親類から理解されずに家を飛び出し、風俗店で働いては拘留されるなど…この時、会えなかった理由は教えてもらえなかったが、つながりは求めていて彫った木彫りの地蔵を写真で送ってきた。
(これ打っている)自分は、振れ幅の小さい人生だと思う。思うけど、同じような苦しみはあるとは思う。特にこれから。

「禅はひとつ先の未来を予言するか」

 「自分で支えようと思わなくても、身体が私を支えてくれる姿勢があるんですよ。それを教えてくれるのは重力です。地球も私たちの親であり師なのです。力を費やさずとも支えられていると感じるとき、私の命もまた、同じように生かされているのだとありがたさを覚えます」
(p198)


永平寺町にある天龍寺での禅の初心指導。二泊三日。その時に教えてもらった言葉。坐禅は無理な姿勢を取る修行ではなく、一番の自然体を見つけることなのだ。そうすると、自分の身体の脈動も聞こえてくる。

「悟らない」
このタイの森の中の僧院で生活した滞在記でも、身体の脈動の話に至る。ここでは、ノンフィクション作家としての言葉と瞑想の対立…というよりは関係を、著者は探っていく。

 ここにいたら、私の内面に、無言の世界が広がっていってしまう。それは困るのだ。言葉が消えてしまうと、忘れたくないことまで、忘れてしまいそうになる。言葉が失われていくと、まるでこの私自身の存在が溶けて消えて、どこにもなくなってしまうような感覚にとらわれる。言葉を手放すことに、私は全力で抵抗していた。
(p215)


最終的には、著者は言葉の世界に戻ってくるのだが、それでも、束の間訪れた無言で身体と周りとに同化した体験は刻み込まれていくのだろう、と思われる。

「オウム以外の人々」

 「宗教者でも、評論家でも、僕らの世代はオウム的な何かを持っていると思います。でも、それを表に出したくないでしょう。持っているとどこかで自覚している人ほど、それを言語化して表現できないんじゃないかと思います。今、目に触れる文章はみな上滑りで、心に深く入っていかないので、僕らのオウム的なものはどんどん隠れてしまう」
(p226)


佐々氏が聞きにいった編集者の人の話。それぞれの立場に対等に向き合おうとする著者の姿勢に同意する。自分が対等に見ているかはわからないけど。

最後にあとがきから。

 ただ、その日、その瞬間のことを『ああ、楽しかった』とだけ言って別れるのです。
(p265)


横浜こどもホスピス「うみとそらのおうち」の代表理事田川尚登氏の言葉。重篤な病にかかっている子供は、もっととか次はとか言わないで「ああ、楽しかった」だけなのだという。佐々氏もその境地なのだろうか。
(2024 03/21)

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