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「イタリアをめぐる旅想」 河島英昭

平凡社ライブラリー  平凡社


文紀堂書店で購入。
(2023 04/01)

「落書の都 ローマ」


昨夜から今夜にかけて断片的に読む。

 そして今度は、また一つの決意とともに、ふたたびこの地上へ降り立った。自分の心の二つの杭のあいだに流れてしまった時間、それをどのようにして掬い返せばよいのか。
(p18)


1980年11月17日。河島氏はローマの空港に降り立った。14年前に訪れて二回目。その時も今回も日付とともに来たことははっきりしているが、その間のもろもろは流動的に感じられ、何もなかったかのようにも思える…という感触なのだろうか。

 独りきりになったときに、その瞬間から、ぼくらのまわりにはまったく別種の時間が流れだすだろう。時間という言い方は正確でない。それは、独りきりになったときにだけ、ぼくらのまわりに存在しはじめる何かであり、言うなれば、それは時の感覚だ。そして唐突に聞こえるかもしれないが、それはたぶん死に似ている。
(p22)


ハイデガーか?と思わせるが、どうだろうか。独りで(異国に)いるときは、常に「今、ここで倒れたらどうなるのだろうか」と(無意識にでも)考えているから、だろうか。
さて、河島氏が14年前に訪れた時と今回で、大きく変わったことが2つある。1つは、標題にもなっている落書。それに若者の虚ろな目が加わって、以前よりかなり危険な状態となっている。もう1つは、街から僧服が消えたこと。14年前には街に溢れかえっていた僧服が、今回ほとんど見られなくなったという。
(2023 06/17)

「霧の拱廊 トリーノ」


トリノ(慣れてるので一応こっち表記)へは、ローマから飛行機で、ところが霧でトリノの空港が閉鎖されたため、臨時便でミラノまで、そしてバスでトリノへ、ということになった。しかし、その便の乗客の荷物は別の国際線へ積み込まれてしまった…
ホテル、ローマ・エ・ロッカ・カヴール。ここはパヴェーゼが自殺したホテルでもある。河島氏は自分の部屋と同じ階にあるその部屋を見せてもらった。実際に本当にそこかは謎が残っているが。
河島氏の部屋では(イタリアでは割とあることらしいが)、夜だけでなく昼も全く日が入らない。雨戸のような板戸を外さないと闇の中に閉じ込められたまま。そして、河島氏はこの感覚が好きなのだという。

 見つめる闇のなかには、かすかな物音もしない。その黒く塗りこめられた無限のなかで、自分の考えがかすかに動く。そして沈黙。またしばらくの闇。そのあとに、何かが動く。そしてまた長い沈黙。やがて、それを乗り越えようとする思念のひろがりの果てに、一つの意志が、生まれ出る。それはぼくの好きな《ラ・クリサーリデ》の状態だ。
(p63)


《ラ・クリサーリデ》とは蛹の意味だが、この日以前はこの状態を《蛹》と日本語で呼んでいた。しかしこの日、日本語を介せずに《ラ・クリサーリデ》とイタリア語が出てきたという。時空をはみ出し越えているかのようなこの感覚。「失われた時を求めて」の冒頭とも通じ合う。

「死んだ港 トリエステ」


今日のところは14年前の訪問の記憶。その時はズヴェーヴォの旧宅付近とサーバの古本屋を訪れたあと、ユーゴスラヴィアへ小旅行へ出かけ、その日のうちに帰れなかった話。帰りには国境地帯で、ロマらしい夫婦が逃亡していくのを目撃している。
(2023 06/20)

トリエステから東に向かえばリエーカ(旧ユーゴスラヴィア)、西に向かえばダブリン。少なくとも河島氏の脳内地図ではそうなっているらしい。当時トリエステで生活していたジョイスの元へ通い、その頃までに書き溜めていた作品を世の中に紹介してもらったズヴェーヴォ。

 トリエステの文学を理解するためには、そこが二重の意味で国境の町であることを、決して忘れてはならない。政治に引き裂かれた町であるがゆえに、そこには引き裂かれた魂の持主たちが、すなわち、国籍を失った者たちが、息をひそめて生活しつづけているのだ。
(p88)

「子供の楽園 ペッシャ、コッローディ、フィレンツェ」


「ピノッキオ」の作成コッローディはフィレンツェ生まれだが、自身の母が育ったコッローディ村の名前をペンネームとして使う。
河島氏はイタリア人の大多数の庶民が「善良かつ凡庸」で「凡庸」であることをわきまえている人達であることという。

 圧倒的多数の凡人が、一握りの天才の存在を認めて、無能なおのれの夢を託し、天才の活躍を許してゆく。それは、人間の平等性を主張する民主主義に、ある意味で反する方向性を含むかもしれない。けれども、文化と政治は、本来、相反する方向性を孕んでいるのだ。文化は政治と別方向へ人間性を回復してゆく。
(p112)


(2023 06/21)

「美神の海 レ・チンクェ・テッレ」
「詩人の塔 モンテロッソ」


ジェノヴァの南、海岸線に山が迫り、断崖と海のほんの谷間に5つの村がある。それがレ・チンクェ・テッレ。今日帰りに地球の歩き方イタリア編で見たら、なんと今では世界遺産らしい。モンテロッソはその中の村の一つ。この村にはモンターレの私邸がある。河島氏はその庭先を通った先の山のホテルで仕事をしている。
前半の章は電車に乗り遅れたために偶然(脚色してたりしてないかな…本人があとがきでフィクションを入れた方が真実味が増すとか言ってたけど)このホテルに来た時、後半の章はその後一か月過ごした時の記録。モンターレの従姉妹の老婦人に招かれたことも書いてある。

 この老人の灰緑色の瞳と、あのレストランの猫の美しい目の輝きとが、刻々と色を変えるモンテロッソの海の反映と一緒になって、ぼくの記憶のなかに混ざりこんでしまった。
(p151)


これは前の章から。

 それでも、まだ目は開けられなかった。無の闇のなかで、ひとつのひろがりがひらけてゆく。果てしなく水平の方向にひろがりながら、それが空間を生みだしつつ、自分を意識させてゆく。そのとき、自分が絶対的な無のなかにあることを、姿を消しかけてはいるが、いまこそその無と向き合っていることを、ぼくは全身で感じていた。
(p157)


これは後の章から。トリノの章でもあった、土蔵のようなイタリアのホテルの部屋。そこで起きる時に自分と自分を取り巻く時空の、流動的な世界からの秩序把握。これが、この本をめぐる隠れたテーマであるらしい。
(2023 06/22)

「文明と歴史の孤島 サルデーニャ」


(昨日読んだ分)
ジェノヴァからサルデーニャへフェリーで。河島氏の描くサルデーニャの人々は、イタリア本土にいる人(ホテルや衣料店のスタッフなど)やサルデーニャ島の人々も、他のイタリア人とは異なり、静かに自分たちの生活を営んでいるという感じ。
最初のイタリア滞在時の旅(1960年代)では、路線バスで酒を飲んで大声を出していた老人を、車掌が路端に放り出した、という。今回(1980年代)は、14年前との比較、ヴィットリーニ「幼年期のサルデーニャ」とロレンス「海とサルデーニャ」の検討し返す、という目的を持つ(ロレンスは前に読んだ乗代氏も言及)。

 サルデーニャの山野を、台地を、平野を旅していると、そこが島ではなく、ひとつの大陸であるという感覚に、ぼくはしばしば襲われてしまった。地中海の真只中に取り残された古い古い大陸の一部、かつては無限の地平線にひろがっていた台地。それが音もなく沈んで、取り残された島-サルデーニャ。あるいは、古い古い大陸に水が入りこんできて、ついに一つの台地だけが取り残されて、いまは島となった-サルデーニャ。
(p195)


同じイタリアの島でも、シチリア島では山中をさまよっていても「海」を感じるのだと河島氏は言う。

今日夜、少し、p232のサルデーニャ補助鉄道(ロレンスも乗った)のところまで読み進めた。
サルトルの盟友ともいうヴィットリーニの「幼年期としてのサルデーニャ」。河島氏は何度も読み返したという。そこからの一節。

 自分の考えでは、サルデーニャは周辺をたくさんの湖で隙間なく取り囲まれているのではないか。そして自分たちはそれらの湖から湖を船で渡っているのだ
(p218)


p195の河島氏自身の説とはまた違い、楽しい。p195の方は自分も想像できるのだが、p218の方は全くわからない…

 おそらくサルデーニャほど共通イタリア語を-良きにつけ悪しきにつけ-話す地方はほかにないであろう。それは重大な意味を孕んでいる。なぜなら、サルデーニャに住む人間がサルデーニャの土地の言葉を失いつつある以上、少なくとも彼女ら若い世代は一つの文化を失いつつあるのだから。
(p225)


家では家族とその土地の言葉で話しているが、若い世代の友達どうしでは既に共通イタリア語だという。
(2023 06/25)

サルデーニャ続き

 ロレンスは、たとえば、性を強引に太陽と結びつけるにまで至った。しかし、それは決して大きな視野を築いたことにはならない。それに伴う論理的破綻はロレンスの文学にある種の歪みをもたらしてしまった。
(p240)

 パヴェーゼはロレンスよりもはるかに遠くへ行った。そしてヴィットリーニは、社会のうちに踏みとどまりながら、さらに粘りづよく人間を見守り、文化の基盤としての文学の種を播きつづけ、みずからその土壌と化した。
(p241)


昨日書いた「目的」、ヴィットリーニとロレンス。どちらも読んでいないので、なんとも言えないのだけれど。

 過去になりつつある人間の繰りごとは言いたくない、と断ったうえで、老人は働くことを好まぬ新しい世代とともにこの町がどうなってゆくのか知りたいと言った。老人の暗いつぶやきのこだまとともに、その夜は更けた。
(p251)


自分などは、ここに書いてある「働くことを好まぬ新しい世代」ではある。働くことが好きな人々が本当にいるのか疑問なくらいである。第二次世界大戦直後くらいまでは、それが普通であったようだ。こだまは今でもサルデーニャの港町に漂い続けているのか。

「氷河と蝶 クールマイユール」


この編は本全体の中で異色の章。これまでの文章は、イタリアを旅しながら日本の自分宛に出した手紙が元になっているが、この章は日本に戻ってから書かれた。そして幻想味が顕著である(真実を書こうとすればするほどフィクションを導入せざるを得なかった、とあとがきで書いている)。風間杜夫氏の朗読によるラジオ番組が放送された。そして元々の筑摩書房版のタイトルがこの章題「氷河と蝶」であった。

 けれども、盲た心にこそ愛は宿るのだ。ぼくらは愛なくして殺すことはできないだろう。
(p283)

あとがき(平凡社ライブラリー版)


あとがきから一箇所引用。

 生まれて初めて遭遇した事態を人は認識できない、という原則的な事実である。あるいは、二度目に遭遇したとき人はその事態を認識する、と言ってもよい。いずれにせよ、同じ事態が反復されるたびに、私たちの認識と分別の網目は広げられ、折り重なって、やがては、それらの網目の成層の底に埋もれている基層の存在さえ、忘れてしまう。そのような、意識される以前の未文化な意識の時の層へ立ち返ろうとするのは、文学の重要な試みの一つである。
(p291)


14年ぶりの再訪というこの記録の特徴、2つの時点を杭にして、周りの事象が流れていくさまを見ることの意義がここに書かれている。
(2023 06/26)

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