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「マーガレット・アトウッド」

伊藤節 編  現代作家ガイド  彩流社

読みかけの棚から
読みかけポイント:拾い読み。

ワイルドネス

外側から決めつけられた、またはずっと背負い続けている、自分という牢獄から抜け出す為に、「ワイルドネス」を取り込め。その未知なるものは自分の中の無意識でも、また大自然でもあるのだ…という、アトウッドの戦略。「侍女の物語」でも、最新作「オリクスとクレイク」でも、牢獄が完成しつつある現時点から過去の記憶を物語として語るというのは、先日読んだベンヤミンの歴史論を思い出してしまう(どの本かな)。
あとアトウッドの漫画なんかも掲載されていて、面白い。
(2011 03/18)

アトウッド一家


昨日のアトウッド本の中のネタですが、アトウッドの父親は昆虫学者、母親は当時としては「活発すぎる」お転婆娘(父親は、母親が階段のスロープをすべってくるのをみて惚れたらしい)。そして兄は脳神経学者・・・という、なんだかな一家。
アトウッドの子供時代は、都会(トロント辺り)に冬の半年、カナダ北部に父親の研究についていって夏の半年、という暮らしだった。夏は両親が教師だったという。
(2011 03/19)

「浮かびあがる」読了記念…

 硬質な、かわいたように感じられる文章が、ページの途中で、ほとんど前触れもなしに、ゆらりと動いて別の画像に変わってしまうのである。
(p141)


「浮かびあがる」を書いていた時、アトウッド自身はカナダから遠く離れた場所にいた、という。確かに…ダイヴィングしていたのは語り手だけではない。作者自身もカナダの記憶にダイヴィングしていたのだ。

アトウッド拾い読み

あとは拾い読み少々。「侍女の物語」は2000年にデンマークでオペラ化された(映画化もされたが、この作品オペラの方が相性がいい?)。その時に用意された映像が、ニューヨーク世界貿易センターが破壊される、というもの。翌年、それは現実化された…
事務所?の関係で、アトウッドはジーン・リースに会ったことがある、という。といっても、文芸論を語り合うなどという野暮?なことはせず、ファッションにとても興味を持っていた人だった、という。
アトウッドのエッセイとか論評とかを集めた2冊の本(邦訳はまだない)で、ウルフの「灯台へ」を(10代以来)再読して、あの時はわからなかったことが今はいろいろとわかる、と書いている。
(2022 03/15)

「またの名をグレイス」読了記念…

今度は「またの名をグレイス」読了記念(といっても随分開いてるけど)
この本の論考では、まず赤いシャクナゲが大きく取り上げられる。これはムーディー(グレイス自身にも会って記事を書いた人)の強調するあるいは作り上げた「赤い血走った目」より陳腐過ぎず真実に近いのでは、という。
グレイスの性的虐待については、ナイフを持った医師(メアリの堕胎をした医師と重なられる)ははっきり意識し、キニア氏では意識的には(主人だから)隠蔽し夢の中で初めて流れ出し、飲んだくれの父親については意識的にはもちろん無意識でも抑圧された経験があったとされる。これだけ抑圧されてたらそれが噴出する際には危険な状態になるはず。
ジョーダン医師の位置付けの変容と当時の道徳感への束縛は中心的に描かれるが、もう一人同じような立場にあるのが先も挙げたムーディー。彼女自身は夫とともにイギリスからカナダへ渡り、大自然と格闘しながら生活していった人なのだが…
あと、キングストンには監獄博物館なるものがあって、グレイスをしのぶ?ことができる。
(2024 05/11)

「青ひげの卵」?

続いて、「青ひげの卵」…先走り過ぎ(笑)
まだ、読んでない。
カナダで12編の短編集として出版された後、アメリカでの出版では2編入れ替えで12編収録。後のイギリス版はアメリカ版と同じ。この間買ったちくま文庫版「青ひげの卵」は、1993年に筑摩書房の単行本で出版され(5編)、2022年文庫化の際、訳文に修正を入れ、さらに「ぶさ猫」を加えて6編。この6編のうち、「罪食い人」はカナダ版にあってアメリカ版にはない(カナダ版を底本にしているため)。また作品内のアスタリスク三つの区切り「* * *」は、カナダ版になくてアメリカ版にある(これは訳者判断…ただし「罪食い人」はアスタリスク区切りなし)。もう一つカナダ版のみの「ベティ」は「ダンシング・ガールズ」に岸本佐知子訳で収録されている。
(ここまでの情報は、ちくま文庫版「青ひげの卵」訳者あとがき」から)

さて、元の(カナダ版もアメリカ版も)12編の最初と最後は、アトウッドの自伝的作品を配置している。これら文庫にないのは惜しい気もするが(どこか他であるのかな?)、とりあえず、こちら「マーガレット・アトウッド」の方で扱っている2編の最初は、元の短編集冒頭の「母の人生における重要な瞬間」。母の昔話(回想)を聞く娘が後年織り上げる母の人生。

 記憶や歴史は、あるパースペクティヴから見てはじめて意味をなす。しかも語る主体は、他者との関係性により揺れ動く不確実な存在である。「書く」という編集行為により、「語り」の断片(記憶)がひとつの形を生成する過程を描くこの作品が語っていることは、いわゆる「事実」は、確固たる一枚岩ではなく、二者択一でもなく、限りなく不透明であり、幾重にも変化するということである。
(p338)


もう一つ取り上げられている表題作「青ひげの卵」は、「童話青ひげのペロー前の「原青ひげ」を現代的に書き換えよ」という課題を夜間講座で出された主婦のサリーが、卵の立場で書き換えてみようと思い立ち、夫の外科医エドを卵に見立ててみるのだが…という話。

 書きそびれた「エド・エッグ」の物語とはまったく異なった、サリー自身の物語が始まろうとしているのだ。それまで非現実的なロマンス幻想と童話の世界に閉じ込めていたサリーは、最後の瞬間、盲目の語り手から「己を知る」真の語り手へと転換したのである。
(p340)


(2024 05/12)

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