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「二つの「競争」 競争観をめぐる現代経済思想」 井上義朗

講談社現代新書  講談社

競争の二つの型


一昨日から、寝る前に年末買った競争理論の本読んでいる。今の経済学の競争理論には実は2種類ある、と。勝つ為の競争と負けない為の競争と。でも、その2つが区別なく日常で使われているから混乱が起きるのだと。細かいところでは、競争の結果起こるのが独占ではなく質的動態変化だということ、競争批判の一つとして囚人のジレンマ的なインプット・アウトプット理論(結局はどこも薄利多売的になりデフレになってしまう)などが面白かった。
(2013 01/13)

競争の理想郷とその裏返し


競争論新書第三夜。著者によれば、古典的な1970年代までは標準的な競争理論である完全競争理論。これは、まあ現実には絶対にあり得ないような仮定を立てて(生産企業は無数に存在可能で独自性を持ち…など)、その上で競争したら最終的にはどうなるか、というもの。結果は企業は利潤0までかつかつに生産し、価格はできる限り安くなる。
理想郷には違いないけど、一方の極の青写真として理解すればよいかと…って思ってたけど、ひょっとしたら、これってさっきの仮定部分含め労働市場そのものなんじゃないか?特に今の。かつかつに働くのは労働者で、企業には安く手に入る…
(2013 02/01)

「二つの競争」の哲学的発想


今夜(つまりついさっき)「二つの競争」を読み終えました。

競争には二つの相がある。勝つ為のエミュレーションと、負けない為のコンペティションと。アダム・スミスはエミュレーションだけを論じていたわけではなく、「自然」な価格と供給量に調整されるコンペティションの必要性も考えていた。そして、それは今の世の中にもコンペティション的な発想は必要とされる・・・というのが、まあおおまかな主旨だけど、ここでは著者井上氏の経済学単体を越えた哲学的発想をちょっと見てみる。

エミュレーションは果てしない過程のみで終点が存在しない。その原動力となるものは時に嫉妬だったりする
(p163周辺)
人間の使う言語とは無関係にあるイデアが存在する、という古代ギリシャ以来の哲学の伝統(スミスもその中にいる)が、20世紀に入ってから現象学・解釈学、あるいは言語哲学・分析哲学においても批判されてきた
(p175周辺)
 私たちは、ある言葉を名詞として、さらには主語として用いているうちに、それらをひとつの実体として感じるようになります。そして、それと同類のものと、そうでないものに、モノや人を分類できるかのように思い始めます。 
(p203)


コンペティションとエミュレーションという二つの競争もそういったものの一つで、同じ社会現象の側面同士だった。どっちかだけ採用し、もう片方は毛嫌いするというのは正しくない、ということ。
(2013 02/05)

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