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「世界史のなかの戦国日本」 村井章介

ちくま学芸文庫  筑摩書房

ちくま新書版「海から見た戦国日本ー列島史から世界史へ」はこの文庫版の前バージョン。最後の「島津史料からみた泗川の戦い」はこの文庫版で増補されたもの。

村井氏と古代中世東アジア


昨日は村井氏の東アジアと日本の本をぱらぱらと見てました。鎌倉幕府は建長寺に中国から禅僧を招いていたとか、鎌倉幕府滅亡の時は、中国で南宋が元に滅ぼされた時の史実を思い重ねたような碑を作ったり。など。

遣唐使の時代から倭寇の時代まで。後者になればなるほど村井氏が言う「境界人」が東アジア間の交易やその他を媒介し影響し合う。近代の鎖国政策でその幕は下ろされた…どのくらい江戸幕府や清朝等がその遺産を引き継いだのかは、また考えるべき問題。
中世までは日本も一つの国だと思ってはならないだろうし…
(2016 01/25)

「世界史のなかの戦国日本」序論から少し

この本に先立ち村井氏も参加した「アジアのなかの日本史」冒頭の「時期区分論」から。

(相対的安定期と移行期ないし変動期が)双方に交互にあらわれる脈動(パルス)として、列島地域の史的展開をとらえることを試みたい。
(p20)


どこまで「パルス」という概念を追って展開しているのだろうか。
(2016 01/27)

和人とアイヌ人、琉球と薩摩


第2章は蝦夷地と和人の章。戦国期には蝦夷地が北で大陸部~朝鮮へと繋がっていることを知っていた。朝鮮に蝦夷地の王の使者が来たこともある(これが実際には誰だったのかは対馬氏の偽使者説始めいろいろある)。また15世紀くらいまでには、鵡川と余市を結ぶ線の南側には既に和人とアイヌ人との共同生活が成立していた。が、その後和人が撤退していく。安東氏や蠣崎氏の居館の町にもかなりのアイヌ人が住んでいたみたい。というわけで、通説?の和人対アイヌ人という構図だけでは捕らえきれない。
こうした傾向は第3章にもあるらしく、琉球と薩摩も一時は島津氏の衰退に合わせ、琉球勢力が南九州へ進出するような可能性もあったらしい。
(2016 01/28)

レケオ(琉球)人


第4章はポルトガルや日本も含めた交易活動。ただ、ムスリム商人や各地アジアネットワークに便乗してきたポルトガルもポルトガルなら、当時マラッカを落としてアジア東部に目を開いたばかりのポルトガル人の記述に、レケオ人(琉球)の商人としての詳細な記述の後に、ついでに?日本が出てくる。まさにこの頃(16世紀中頃)は日本は交易ネットワークの辺縁にしかいなかった。そして目覚めたかのように九州の大名が船団送り始めたり、倭冦の拠点に移住したりし始める。 
(2016 01/31)

第5章、日本銀

最初は朝鮮の方が生産盛んだったのだが、日本銀の精製の技術を朝鮮人技師が教えたり、密輸を朝鮮南部の島や町で下級官吏を交えてしていたり。そうしていくうちに朝鮮の銀生産より日本銀が増加し、明に直接密輸したり遼東地域に渡りヌルハチの女真族(彼らはどちらかというと定住的で、海洋にも進出していたという)などに渡ったり…ただ南米産銀も含めてこの当時の経済中心は中国であり、日本銀そのものがヨーロッパに行くことはあまりなかったという。 

第6章、東アジアと朝鮮出兵

今までの議論を受けて、秀吉の朝鮮出兵と明の滅亡と清の成立を東アジア地域の同じ現象と捉える。秀吉のまいた種をヌルハチが刈り取った。秀吉は明を制圧したら天皇を北京に住まわせるつもりだったらしい。 

で、前版のちくま新書にはないボーナス?章では、その朝鮮出兵を島津氏の泗川の戦いを例にとって政権、大名、武士一人一人という3つに分けて見ていく。退却戦に過ぎない泗川の戦いで3万人以上という多数の明軍の死者が出たというのは、首数で論功が決まるという日本の戦の慣行によるという。 

ただ、著者お気に入り?らしい肥前名護屋城の地の領主波多氏の記述が、自分にはうまく位置付けできなかった。

とにかく朝鮮からみたこの時期の文書の読解会を20年間以上行っているという著者ならではの視点がきいた本。今度は著者の本拠地?の中世前期のも読んでみたい。 
(2016 02/03)

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