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「グレートジンバブウェ―東南アフリカの歴史世界」 吉國恒雄

講談社現代新書  講談社

今日は図書館で借りたグレートジンバブウェの本を読んだ。グレートジンバブウェどころか、南東アフリカの歴史の本自体がこの本が始めてらしいので、そのあたりから詳しく書いてある。稗やモロコシの栽培、牛の牧畜、鉄器の使用など、アフリカ文化の特徴とも言えるべき文化を携えて、バンツーの人々がカメルーン辺りからおおよそ3通りのルートを通って南アフリカに到達したのが、紀元4世紀頃。そこからグレートジンバブウェに象徴される都市文明を築くのが8、9世紀辺りから。この本で強調しているところは、南東アフリカでは、都市文明・集約文化の傾向と、拡散的傾向の両方向があった、というところ。都市に集中した西アフリカや、逆に拡散的な東アフリカとはまた違う様相を見せている。
この著者は同じ講談社現代新書の「新書アフリカ史」でも執筆している。
(2009 04/21)

再び図書館(前とは違う)で借りて、少し補足してみた。

第2章のグレートジンバブウェの記述から。
14世紀の最盛期、人口1万8千人、家屋6千。この都市は突然変異で生まれたわけではなく、前段階の都市遺跡がある。牛から得られる富と、遠隔地交易とその加工が繁栄の源泉。キルワ金貨・中央アフリカで多用される石の鋳型・ガラスビーズ・明代の中国製陶器などなど。

 人口一万八〇〇〇人をとるにたらぬ数と言うなかれ。人間がまばらであり、社会は集中ではなく、拡散への衝動に満ちていた当時の東南アフリカの状況のなかでは、これはたいへんな人口の集中であり、居住様式の革命的変化であった。
(p65-66)


ここで、西アフリカの中世都市との比較が行われる。金の長距離交易などの共通点もあるものの、西アフリカでは「非農業的」「多階級的」に構成。一方南部アフリカでは農民が集住する城下町(どちらかというと、中世初期の日本の商業町…草戸千軒とか…と比較してもいいのかも)。

 住民は農村の剰余食糧生産力に依存して生きる都市民ではなく、先述のように都市に住む農民であった。なお、家屋の跡などの考古証拠は彼らの内部で大きな貧富の差がなかったことを示している。なぜ、西アフリカの「中世黄金都市」の多くが、時代をこえて現代にすら命脈をたもっているのか、これに対し、なぜ、南部アフリカのそれが、政変やエコロジー危機の影響を受けやすく、結局のところ都市として成熟しなかったのか、という問いへの解答の一部は、こうした西アフリカと南部アフリカの都市の政治経済学の違いにあると思われる。
(p67)


グレートジンバブウェの後継国としては、高原北東部の大航海時代のポルトガルとの関係で著名なムニュムタパ国、そして高原南西部のトルワ国が挙げられている。吉國氏によれば、トルワ国の方が考古学的証拠からして豊かでグレートジンバブウェ文化の「嫡流」だという。
この時代になると、それ以前よりポルトガル人の記述やアフリカ人自身の口頭伝承も出てくるという…が…

 とはいえ、これら資料の検討にとりかかると、欠けている部分、矛盾する部分があまりにおおく、「まぶしい光」という最初の印象は錯覚であったという気がしてくる。そこで正確に言い直すと、今度も暗がりであるが、そこには何条かの光線が射していて、少なくとも光の当たる部分では歴史の姿はすばらしく明瞭にみえるということである。
(p112)


(2022 05/22)

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