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「一つの砂漠の物語」 ジャン・ケロール

篠田知和基 訳  新しい世界の文学  白水社

「その声はいまも聞こえる」、「異物」も同じ白水社「新しい世界の文学」シリーズにある。
(2022 01/02)

「一つの牧場の物語」(1969)
「一つの砂漠の物語」(1972)
「海の物語」(1973)
の「物語」三部作の一つ(解説に書いてあったけれど、どのくらいこの「三部作」という区分けが一般化されているのか不明)

まだだよ、あとで

 ときどきジェロニムスは、白い紙の上に鉛筆のさきで、細かな点をいっぱいに描いた。そんな点が無数につづいてゆくなかで、少し大きめの点は種子をまいた畑の上の影のように見えた。彼がおおまじめに紙を鉛筆でつついていると、仲間たちが見にきた。それは何時間もつづいた。
 「なにしてんだい?」
 「なんにも」
 「なに描いてんのさ?」
 「砂だよ」
 「ふうん、じゃ砂漠かい?」
 「まだだよ」
 「なんだいそれ、蠅の糞かい? おれたちの顔でも描いたほうがいいんじゃないか、そのほうがまだものになるよ…」
 「街なんだ、あとで」
 「あとでってなんだい?」
(p10)


「一つの砂漠の物語」だから(もっともこの一つ前の作品は「一つの牧場の物語」という)ここがかなり重要か?と思い引用してみた。
小説の開始は、捕虜を収容するような建物から。具体的なこと(国とか時代とか)は何もわからない。ロケット砲とかエレベーターとかあるみたいだから現代なのだろう。冒頭に「雪が降っていた」とあるから、恐らく寒い地域、無難には作者の出身であるヨーロッパなのだろう。どうだろうか。
ジェロニムスの「まだだよ」とか「あとで」という受け答えが非常に気になるのだが、それは作品の本編、砂漠と不時着した飛行機という物語にて明らかになるのだろうか。
ということは、この雪降る捕虜収容所は枠物語になるのか…と読んでいると、看守とも観光客(何故かはよくわからないが、いる)ともほどほどな関係だったこの収容所は早くも、20ページくらいで閉鎖されるということが明らかになる…
と、この辺までを昨日の寝る前と今日の昼に読んだのだけど、このあとどう展開するのか、これまでに読んできたものとは感覚がかなり異なる小説の「味」に期待。
(2022 01/22)

砂漠の幻視

 ゆれ動く光とか、曖昧な光、あるいは移動する光といったものはジェロニムスに、不安や危険さえ感じさせるのだった。雲が大気を覆って、明るい空が突然暗くなるときとか、水面が波立って、耐えがたいほどきらめくときもそうだった。彼は、すみずみまでいきわたった照明、すっぽりと包みこむような真昼の光が必要だった。そして砂漠は、ぼんやりした光や、明暗のはっきりした光のかわりに、自然で、天啓のような光を約束してくれたのだった。
(p54)
 それに対置された物体に太陽光線をわけ与え、反射する鏡になりたいという欲求だった。
(p55)
 それに砂漠は、なんでもない人間の記憶のなかに過去をたっぷりと貯えていた。その唯一のつながりがこの音楽性であり、ハーモニックな抑揚なのだが、頻繁に吹いてくる強い風はそれをかき乱して、全存在を錯綜した混乱したものにしてしまうのだった。
(p131)


収容所から解放されて、機械化された、市民一人一人が警察でもあるジェロニムスの故郷の街?(この街の描写は、現在通り越して未来都市となっている)から逃げ出すように、彼は砂漠へ向かう。
そこでは、言葉をしゃべるトカゲや、神々の神と呼ばれる蝶の神、リヴィングストンを探すスタンリー一行や、月の神に祈る女たちという、もう死者となっている人々の来訪があれば、南アの富豪?の娘で襲われてここまで逃げてきた娘や、砂漠を走る車の一行など現代のものが、同列並置的に次々読者に現れる。その合間に詩的な、正直解読不可能なものも含まれる文章が挟み込まれる。こういう作品はわからないものはわからないままに、全てをオープンにそのまま受け入れる、詩作品のような、吉田健一の「金沢」の時のような読み方が適している、少なくとも自分には。ということで、現在160ページ。
p54、55の二つの文章は、キリスト教的神に対する異教の神、という思想を感じるのだが。
(2022 01/23)

開始と極北

 ジェロニムスは、まるで道そのものが最大の敵であるかのように道を続けた。道は彼が進めば退いた。それは岩のかげに隠れ、まるで砂に飲まれたように消える。彼は太陽の下でニスを塗られたように焼けつく土地のなかを進んだ。
(p162)


最初は何かの夢的な表現かと思ったけれど、考えてみればここは砂漠。自分の歩いてきた足跡はすぐ砂に消されてしまう。しかもこの2ページ後には、こうやって歩いてきた結果、元の場所に立ち戻ってきただけだった、ということが明らかになる。
この後は、シメオン(柱上隠者)達との対話、そして砂漠に棲むワニとその上に住む人間たち。共生関係が成り立っている。ここを読んで、今月前半読んだ「パンタグリュエルの口の中でキャベツを植えてる人たちのことを思い出した。あっちは豊潤なフランス文学の開始の予感、こっちは空虚に消え去るフランス文学の極北の出口、似たような印象でも置かれる歴史的位置が異なると全く正反対な機能。
(2022 01/24)

ラザロとジェロニムス


今日読んだところは、昨晩からの続きで、死んだ母親が出てきて、外人部隊みたいなのや、砂漠が湿潤だった頃の思い出なのか、植物の人々??たちが出てきて、閉じ込められた海を救う…というところ。
「一つの牧場…」もこんな感じなのか、はたまた全く違うのか…

 そうだ。それは閉ざされた大洋だった。それ自身の濃度によって保存され、結晶した塩の樹枝晶や、プリズムやガラス状の針葉結晶に囲まれ、岸辺には平たく乾いた魚が、いくぶんスレート状になって打ちあげられ、木の根はどうにも自然らしくない形をしており、白や珊瑚色の苔が生えている。それは目を眩ませるばかりの明るさにもかかわらず、冷えきったパノラマを蘇生させることのできなかった無力な精霊がそのかわりに死を与えたおとぎの国のようであった。このきらめき、この不動の水たまりこそ虚無というものであった。
(p240)
 それは、そこに建てられて忘れられてしまった芝居の書き割りのようだ。
(p241)


チャド湖? アラル海?
明るさが度を過ぎて死の平衡状態に入った…とか。
このあと、この「海」に嵐が起こり、船などあらゆるものを吐き出していき、ジェロニムスはそこを立ち去る。と、砂漠の幻想の最初の方で出てきたトカゲのラザロに再会する。という物語構造、そして結末に近づいていることも合わせ、ラザロはもちろんのこと、閉ざされた海の場面も作品全体で重要な位置を占めるのだ、と思う。
ラザロとジェロニムスとは、実は語源の根が同じということはないかな。
(2022 01/25)

次の砂漠へ

 眠れ、道具としての言葉よ、始原の言葉も派生語も合成語も
 明日、日はのぼる
 巨大なアルバムのように
 そのページの下におれは
 消える
 この血と愛で書かれたジャングルのなかに
 さわやかさと欲望とで書かれたもの
 忘れられた読点、二つの節のあいだに横たわる
 書き加えと削除でいっぱいになり
 《おれ》は白の上に黒で書く!

 つぎの砂漠まで眠れ

(p310ー311)


最後の行、作品名が「一つの砂漠」となっていたことと通じるのか。人間はまた次の砂漠に出会うことが不可避であるようだ。
(冒頭の謎の「まだだよ」「あとで」という言葉と関連しているのかも)
こうして、砂漠の友であったトカゲと狐に別れを告げて、人間たちの世界、不時着した飛行機の方へ去っていく。
というわけで、なんとか読み終わり。こういう作品は内容理解度はともかくとにかく読み終わることが重要だと思う…から。
解説から。

 それは天空への入口ではなく、狂気の地獄かもしれない。むしろ偽りの夢のほうであろうと思いながら、現実にとどまるよりは、あえて堕地獄の危険を冒しても、未知なるものの探検に乗りだそうとしている。
(p324)
 一度楽園を去ったものはそこに思いをめぐらすだけではもはや永遠なるものを目の前に見いだすことはできない。
(p327)


人間とは本性的に群れる動物である。砂漠とはそれとは正反対な死の世界、幻想の世界。眠った時、夢の中、そこでの孤独、目覚めた時の孤独…
では、砂漠は地獄か楽園なのか。
(2022 01/27)

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