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「鉛の夜」 ハンス・へニー・ヤーン

佐久間穆  訳  現代思潮社

以前「十三の不気味な物語」を読んだヤーンの2冊目。この作品は1956年発表、1959年に死去した作者の最晩年にあたる。

なぜか真っ暗な街にいるマチウという男(23歳という意外に若い設定)が、エルヴィラという若い娘の家に招かれたり、マチウの15歳頃の分身というかもう一つの可能性だったというべきかのアンデルスと一緒に、酒場から吹雪の野を最終的には傷ついた彼をおんぶして(しかも上のアンデルスはマチウを馬のように扱う(確か「十三の物語」にも馬へのこだわりがあったような))、彼の住処へと案内する。

そこは墓場のような死体安置所のような場所だった。アンデルスは亡くなり、暗闇の部屋に閉じ込められたマチウだったが、最初に声をかけてきた男に会って脱出する(したのか?)・・・という話。

 こうした家屋は小高くなったところで、いずこともなくまっ黒な空にかき消えていた。そして、どの家の戸口も窓も、虚無をのぞきこむ孔ででもあるかのように、黒々としていた。
(p7)


人間という虚無、瞳という孔を覗いたときに見える暗黒。エルヴィラの黒い身体も、アンデルスの傷口の内部も、そうした人間一般の明示化なのだろう。

 その鏡のなかへやつらはおれたちをページとページにはさまれた思いつきみたいに薄っぺらに圧しつぶしてしまうんだ。GARI-薄紙どころじゃない-おれたちは薄紙ほども厚くない身に変りはてるのだ。たった一枚の鏡にもなん千という影像がやどっている。考えられる形という形がやどっている
(p50)


この小説の重要アイテムである鏡(このエルヴィラという娘の部屋の場面のあとでも、マチウの分身アンデルスと自身の顔を比べるときに、居酒屋のビールの広告付きの鏡が出てくる)。ページにはさまれたという表現は、たぶんメタ物語的な奇をてらったものではなく、ヤーン独自の世界の見方に通じているのだろう。GARIという語は、作品の最後にも出てくるのだが、全く何なのか説明もないし、わからない。

 ここでまたちょっと足をとめたとき、二人は結晶星のかすかに触れあう音、小さな氷片の鳴る音を耳にした。高い音程をほんのわずかしかふくまぬ、単調な音階の不気味な歌、目にみえぬ風に指揮されて、それでもリズミカルにいろいろなヴァリエーションをつけるクレッセンドとデクレッセンドとを展開する歌。汲みつくせぬメロディ、もろく、催眠性をもっているらしく、感覚をにぶらせる、だがどうにもならぬ宿命の共鳴がほんとうの眠りを遠ざけている-流動そのものの凝結。
(p94)


このマチウと(若い頃のマチウらしい)アンデルスが吹雪の中を歩く場面。での、この吹雪の音の描写は、ヤーンの作家活動(戯曲が多い)と並ぶもう一つのライフワークであるオルガン制作(修復)が姿を表していると思われる・・・流動が凝結したときに人は死ぬのだろう、記憶もまた。

 マチウには、なにひとつ記憶をとりもどせないように思えた。形をとろうとする記憶とか希望の心像に無表情な空虚がからみついていた。
(p101)


記憶というものを、それを保持していると思われているものから独立したものとして捉えること、浮遊している、あるいは流動している、として捉えることがヤーンの世界に入るには必要なこと。そしてそれは実際の記憶を考えていくことにも繋がっていく。

暗いのだけれど、この流れに引き込まれると心地よい。と同時に、周りの全てのものや、それから記憶や自分の過去の姿が、漂い出して流転していくような感覚になる。となると、いよいよ「岸辺なき流れ」三部作が気になる。厚いぞ、高いぞ・・・
(2021 11/28)

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