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「あの夕陽・牧師館 日野啓三短篇小説集」 日野啓三

講談社文芸文庫  講談社


「向う側」

日野啓三を印象づけるのは足音と足裏の触感なのではないか、と今は思う。
「向う側」はベトナム戦争時に新聞特派員として滞在した時の取材から。

 ベッドを整えているのだろう、薄い低天井板をとおして、頭の上あたりを素足でそっと動きまわるひたひたというひそかな音、すいつくような足の裏の感触が伝わってくる。
(p18)


視点人物の特派員は、前任者が場末の退役軍人の家に二週間いたあと、不意に「向う側」に消える。前任者を追って、彼もその家を訪れる。その時の一節。
また、前任者の仕事場を訪れて、新聞の山や壁に掛けた地図、スクラップブック、焼き海苔のカン(懐かしい…)、イスの背にかけてある替えズボン、携帯用タイプライターなどに囲まれて…

 意外に身近かに、まるで夢をみながら夢の中の自分を外から眺めているような(つまり形の上では離れているが、底深くつながりあっているような)奇妙に濃密さをもって彼が感じられてくる。
(p21)


もう一つの可能性でもあった自分…そこで彼は呼ばれたのかもしれない。結局、この彼も「向う側」(当時南ベトナム側の支配地域ではない場所、という意味だけれど、もちろん複数の意味も)を彷徨い始める…戻ってきたかは定かではない。
実際、日野氏の特派員時代の自身を分割して書いた、と想像はしてみる(そういう前任者が実在する可能性もあるが)。とりあえず、冒頭の家に向かう男が前任者なのか彼なのかがぼやかしてある。どちらをとっても読み込める。
(この本の解説は池澤夏樹氏。そういえば、池澤夏樹編集日本文学選集には、日野啓三と開高健がセットで一冊。両者のベトナム戦争に取材した話が読める。開高健はどんなのだろう…)

「あの夕陽」


もう一作。表題作かつ芥川賞受賞作である「あの夕陽」…どうもこのタイトル、フォークナーだなあ(それはともかく…)
こっちは自伝的でもあり、離婚がテーマの作品でもある。こう書くと日本私小説的な雰囲気漂うが(ないこともないが)、それより「あの夕陽」の移り行く光を描く筆致に惹かれる。それと同じように自分の心理を描いていく。

 間もなく、階段をそっと一歩ずつ上がってくる足音が聞こえた。私は重く不快な心の底の方から、少しずつ荒々しい気分が滲み出てくるのを意識しながら、近づいてくる素足の足音をじっと聞いていた。
(p51)


…また、取り上げるのは足音なのだけど(それもまた素足…)
結婚して3年、ソウルで特派員している間に知り合った李という娘が、他の風景と共に8ミリフィルムに撮影されている。妻である令子はそのコマだけを鋏で切り取っていた。とはいえ、執念深いというより、普段は黙って従っているが、動く時はさっと行動するという(そして実際この日に家を出る)、少なくとも読んでいる自分はかなり好感持てる人物。そして、出て行かれた方の「私」もそれを黙って受け入れる。
でも、主役?は西日の変容だろうなあ。

日野啓三情報…東京生まれだがすぐに朝鮮に渡る。戦後親とともに引揚、父親の田舎である福山で育つ。「あの夕陽」には、戦闘機作りたいから理系に行きたかったけれど、もうそれは叶わないので文系にした、とある。実際、SF作品をよく読み、アニメにも興味を持ったという。
(Wikipediaより)
(2023 10/01)

「蛇のいた場所」

昨夜、寝がけに「蛇のいた場所」を読む。父の郷里へ息子と行った話と、朝鮮在留時代(戦中)の話が交互に配される。

 私たちがじっと窺っていたのは、階段の足音などよりもっと遠くの、もっと恐ろしい音だった。天の一角で強く張りつめた弦が不意に切れる音、あるいは植物たちが音もなく枝を伸ばし葉を茂らせるざわめき-自分たちを間もなく確実に呑みこむにちがいない黒々と無気味なものの気配を、私は感じとっていた。どうしてかわからないのだが、こうしてひとつに体のように強く触れ合っている間は、その気配に耐えられる気がしたのだ。
(p100-101)


足音…を通り過ぎて、もっと根源的なものへ、どうして女と触れ合っている時には無気味な気配が気にならないのか、それはたぶんそのこと自体で反転し、無気味な気配の側にいるからだ。
父の郷里編では、木々など植物の成長のざわめきを地とした、2匹の蛇の図として現れる。この場合も地と図は同じ側…
(2023 10/01)

「星の流れが聞こえるとき」

 人間もこの環境が耐えられなくて、あるいはこれからさらに悪化することを予感して、変形し始めたのではあるまいか。目も口も手足までも退化して繭の中にじっとこもったまま、地面を、空を、水の中を浮遊する。再びまともに生きられるようになる時まで。
(p110)

 「あの音よ」と少女の声がした。「星のかけらが降る音、燃えて光る音、今夜も何百万、わたしたちの上に」
(p128)


全身繃帯巻いていて、土の中の虫の様子、隕石の落ちる音、などなどいろいろ聞こえてしまう少女と、視点人物がテープでいろいろな音を聴く。p110の文はその前に、ここで書かれているような生態をしているダニの話を取り上げている。p128の文はほぼラストでの挿入。
(2023 10/03)

「風を讃えよ」

(木曜夜読んだ分)
町の外れで一人でストーンサークル作る男と、立ちくらみかなにかで倒れる(「ハクイ」する)少年の話。

 暗黒で無限の宇宙空間の中を、大気という薄い膜に包まれてひたすら回転し続ける地球という巨大な岩石の孤独さが感じられる気がした。何らかの最初の物理的なきっかけのようなものはあるとしても、理由も目的も恐らくは意味もない回転。誰が回したのでもない回転。そんな回転を続けさせる見えない力。
(p137)


「サンクチュアリ」にも似た表現あったが…

「ここはアビシニア」


「世界という廃墟」なる写真集を出したっきり、忽然と消えた遠井一という男を探し求める話。

 街は焼け跡と焼きビルだらけだったが、その隙間から何だか現実の向こうが覗いて見えるような気もしたな、と私は言った。
(p163)


また「向こう側」。「向こう側」を見るには、何かを失って茫然となる必要があるようだ。その日野氏においての原体験を見る気がする。

「牧師館」


たぶん著者本人の入院体験を踏まえた作品。土曜日の「自宅外泊」の日に奥多摩方面に、語り手は向かう。

 大気が水のように感じられ、揺れる葉並みが海中でうごめき揺れる軟体動物の群体の一匹一匹のように、なまめかしい。
(p173)


「蛇のいた場所」でも出てきた、植物特に葉のイメージも日野啓三作品にはよく出てくるモティーフ。前の「ここはアビシニア」でも、遠井一の声を借りて、庭いじりをする男性を見て「男はああしてダメになる」と言わせている。植物は自分の意思で丸め込もうとしてもそうはならないという、植物を女とか社会とか他のものに置き換えてもよさそうな言葉。
そしてこのp173の「軟体動物」はまさに身体の中の、しかし身体から離反する「軟体動物」の巣、をも指すのだろう。この間読み終わったダニロ・キシュ「死者の百科事典」の結末も思い出す。それから、前に読んだ日野啓三作品も「落葉」だったなあ。
(2023 10/07)

「示現(エピファニー) 月光のエアーズ・ロック」


(現在では「ウルル」(先住民の呼び名)と呼ばれている。また「世界最大の一枚岩」ではなく第二位らしい。第一位は同じオーストラリアのマウント・オーガスタス(何と2.5倍))。
それはともかく、小説というより旅エッセイ的な短編。どちらでもいいのだが。

 われわれの伝統的自然感覚がどれほど繊細で緻密で陰影が微妙だとしても、この大きすぎる単純苛烈な風景の中では、忽ち気化するようにさえ思えるのだ。この自然は人間の思い入れや共感を、冷然と黙殺して微動だにしない。いわゆる人間的なものの入りこむ余地がない。その巨大な硬質の沈黙。
(p201)


オーストラリアに移住したヨーロッパ人たちは、最初は海岸沿いに住み始めたが、「この大陸内部には大きな内海があって、そこは穏やかで暮らしやすいに違いない」として内陸探検に出かける。そしてあったのは乾燥した虚無的な内陸。命を落とした人も多いという。先住民アボリジニたちもこの自然の中で、側からは感情が読みにくいような、超然とした表情をしている、と日野氏は言う。

 無数の銀色の光の細流に見えた。光も水のように流れるのだ、と放心して呟く。
(p215)


月光の夜のエアーズロック。

これで8編読み終えたので、池澤夏樹氏の解説から一文。

 語るだけならば古来の多くの物語にもできる。しかし、矛盾を矛盾のままに論じるには小説という弁証法的な形式が必要になる。
(p234)


という観点からすれば、この短編はやはり「小説」なのか…
(2023 10/08)

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