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「ヴィーコ 学問の起源へ」 上村忠男

中公新書  中央公論新社

クリティカとトピカ


今日から上村氏の「ヴィーコ」(中公新書)を読み始め。序では上村氏がイタリア・ファシズムの研究から「学問とはそもそも何であろうか?」という疑問が浮かび、それを求める為にフッサールの晩年の「危機」書を読んでそこでヴィーコに出会ったとある。もうなんて言うか、上村氏と言えばヴィーコという図式が自分の中にはあるのだが、いろいろな紆余曲折があったらしい…さて…

 まっすぐな自分に物体を合わせるのではなく、でこぼこの物体に自分のほうを合わせていく、レスボスの柔軟な定規によって計測されなければならないのである
(p20)


レスボスの定規というのは古代にあった鉛の定規らしいのだが…ヴィーコのこの言葉は、当時学問界では優勢だったデカルトとその後継者の理論・理想主義的なものへの批判。まっすぐな方がクリティカ、でこぼこな方がトピカ…
今でも普通に言われている理論を現実に即して使う…ことへの批判というか不可能性が次のテーマ…なのか。

ヴィーコはデカルトのおよそ1世紀後、日本で言えば元禄?(今引用した文は1700年代にナポリ大学の開講講演の為に書かれたもの)
(2012 07/30)

病という実例


「ヴィーコ」は今日は自然学のところ。昨日も書いた通り、ヴィーコの思索はデカルトとその後継者への批判という面が強く、その意味ではデカルトのいい復習にもなる。

今回ではいい実例は病について。デカルト式演繹方では最初に原因を考える。それが病名とかだったりする。それが原因となってあらゆる病的兆候が現れる…と。
でもヴィーコは原因ではなく今現れている病状態から考える必要があると論じる。そして人間は因果応報の連鎖としてではなく、常に生まれ変わっている存在なのだ、と。

今思ったけど、このヴィーコの批判が必要なのは犯罪捜査・裁判関係ではないか。人が犯罪を犯すのは何か一つの原因がある為ではない(もちろん遺伝的あるいは特殊な人間だからではない)。その場その場の状況、そしてその場の自身の状態が犯罪という起結を導く…なのに裁判等ではなんか一つの動機に無理やり結びつけているような気も…
(2012 07/31)

進歩と制作


昨夜から今日にかけて第2章の後半から第3章の前半を。
第2章の後半では、古代と現代(ヴィーコの当時の)で、どちらがより進歩しているかなどとは言えない、という考えがあった。この時代辺りからヨーロッパでは進歩ということを強く意識し始めるのかな、と思っていたが、その当初からこういう議論があったとは…

第3章前半ではヴィーコの基本命題とされる「真理は制作されたものと置換される」(合ってる?)を…ってあんまりよくわかってないが、デカルトの生得概念の批判に使われているところをみると、どんなに(人間の手を離れても)真理っぽく見えても、それは人間が作り出したものなのだよということ?

こういう対立というか嗜好の違いというかは、ずっと思想史(その他)にあって、しかも2つで1セットのような気がしてるのだが…自分は…
思想も薬と同じで適度な服用を…
(2012 08/01)

自分で作ればなんでも可?


まずデカルト批判から。デカルトの有名な「我思うゆえに我有り」だが、ヴィーコは古代ローマの喜劇「アンフィトルオ」という作品で下僕が同じようなこと既に言ってる、という。なんかの妖精か誰かのいたずらかは知らないけど自分そっくりな他人に出会ったこの下僕は、いろいろ悩んだあげく、「ああ、でも自分はこうして考えているんだから存在しているんだ」と結論づける。まあ、確かにねぇ…

 人間における知識はわたしたちの知性の欠陥から生じている、すなわちあらゆる事物の外に存在していて、自分が知ろうとするものを自身のうちに含みもっておらず…(中略)…数学のように「神にならって」…(中略)…抽象の世界を仮構するか、自然学の場合でも、実験をつうじて「神における知識に似たものになる知識」を生み出す知識こそが、もっとも確実な知識なのだ、と。
(p82)


まあ、帰納と演繹と言えばそれまでだが…
とにかく「世界を作った神」の真似事をすれば神の知識に近づくであろう、という考え方、かな。自分的には、最初の部分、人間の知識の有り様は、人間の知性の欠陥から…というあたりも少し突っついてみたいなあ、とも思っている。
あと、同じような思想展開は、1世紀前のホッブズも行っているということも付け加えておかなくては…
(2012 08/02)

似てるからこそ?


「ヴィーコ」第4章読んだ。「新しい学」にある諸国民の世界は人間によって作られた…から、人間知性によって理解できるはずだ…というくだり、その語り口からしても、理論の進め方にしても、批判対象にしていたデカルトそっくりじゃない? ひょっとして似てるからこその…?
なのかな?
(2012 08/06)

諸国民の共通感覚?


「ヴィーコ」第5章から第6章にかけて。ここで何をしているのか、と言えば、大昔、原始時代の人間がどのようにして信仰や言語や感覚を身につけていったか、という考察。
随分「真理とは作られたものである」という次元からは離れてしまったようにも見えますが、信仰や言語や感覚が人間によって作られた以上、そこまで下りていかなくてはならなかったのか?
そんなことやっても仕方がない気もしないでもないが、未だに民族差別が横行しているのにこの時代に全人類の視野を持たせようとしたのには価値があるのでは。それはチョムスキーに通じるような共通言語(素)の考察にも現れている。

ヴィーコと宣長とレヴィ=ストロースとフッサールと


「ヴィーコ」第6章最後から。

 ヴィーコは世界をあたかも一冊のテクストのように見立てる。そして、そのテクストを織りなしている意味のコンテクストを「知性の内なる辞書」を頼りに読み解いていこうとするのである。
(p153)


ヴィーコの最初の人間に下りていく方法は、最初の人間になったつもりで感情移入するのでも、また現時点での知識や理性をそれに当てはめるのでもなく、昔の言葉を類似性によってマッピングしていく。レヴィ=ストロースの構造主義やフッサールの後期思想に通じるところがある…としている。また上村氏はこれはまた本居宣長の古典解釈にも近いと指摘している。

それから第7章の始め、最初の人間は言葉の起源を、世界を表象するのではなく理解を越えた強い感情…これを神の名前として名付けることにした…から起こったとしている。
(2012 08/07)

ガダマーと幼児


「ヴィーコ」から今日は第7章。
ここは言語起源説の章。前にトピカとクリティカで述べたような、類似性の拡大の時期と、それから拡大したものたちを類概念でまとめあげる時期の2つがあって、原始人類にとってはこの両者があったわけではなくトピカの方しかなかった…というのが概要(かな?)。これは人間の幼児を観察すれば推察できる…というけど、さて発達心理学的にはどうなのだろう?

また、この2つを区別しなくてはならない、ということは20世紀の哲学者ガダマーも述べている、とのこと。なんとなく似てるのか?ともちょっとだけ思ってたりしてたが…

でも、そもそも、原始人類にはクリティカがなかったという前提は合っているのだろうか。順番としてはそうなんだろうけど、ビッグバン的に?瞬時に(人類の歴史においては幼児の時期2、3年くらいは瞬時ではなかろうか)両者が出てきたのかも。
はたまた、その逆かも(動物にとっても敵味方などの判断の方が重要だから)。
(ま、どっちでも(笑)…)
(2012 08/08)

メタなんとか(笑)


今日で「ヴィーコ」を読み終え。最終章バロック人ヴィーコは、著者上村氏がこの本の前にそういう名前の本を出してることもあって、たぶん上村氏にとっては重要な側面であるとは思うのだけれど…

ポイントは2つ。画像(口絵)と修辞論。
前者はまさしく画像こそトピカ的知を代表しているのだ、ということ。
後者はアリストテレスの三段論法を越えて、禁じられている論理上の移行(メタ…)を多くヴィーコは用いているという指摘。離れているものを結びつけるという、なんというかシュルレアリスム(バロックと共通項あり?)を想起させる点と、ずっと弁論術の教授であったという点と。
あんまりいろいろ結びつけると結局どれも同じになってしまう気もする(笑)…
(2012 08/09)

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