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「エルサレム」 ゴンサロ・M・タヴァレス

木下眞穂 訳  河出書房新社

今日は5月28日、明日は5月29日。前に買った「エルサレム」の始まるのは5月29日の午前4時…読み始めてみようか…
(2022 05/28)

章の題とミリア


というわけで、読み始めたけれど、まだ手探り状態で…
とりあえず言及すべきは、全32章の章のタイトルが全て、登場人物の名前またはその列挙になっているということ…第15章、だいたい半分のところだけ「ヨーロッパ02」となっているが。

 そして、この日のミリアは朝の四時に家を出ることにしたのだった。夜、痛みは違う感じで身体の上に降りてくる。濃縮された化学物質が目ではわからないかすかな傾斜をゆっくりと滑るように。昼と夜とを渡す道は平らではない。ごくわずかに傾いている。
(p9)


最初に目を引いたのはこんな箇所。「傾き」にぞくぞく…この後どうこのテーマが変奏されるのだろうか。

 靴はまさに従うもの、みじめな奴隷。ああ、むかむかする。靴が人間にこびへつらう姿に。犬ですらこれほどまでにへつらう姿を見せはしない。
(p10)


これはミリアの独白というか心理状態。

 痛みが強い時には絶対にだれにも会わないようにしている。そんな姿をさらすのは人間性を失うに等しい。
(p16-17)


これもミリア。彼女はどうやらすぐ死ぬかもしれない病気に冒されているようだ。

テオドールと「恐怖の量的世界史」

続いて、別の登場人物、テオドール。彼は医者であり、なおかつミリアの元夫らしい。

 この夜、彼は興奮しており、同時に感傷的でもあった。感情の奇妙なカクテルだな、と思いついて薄く笑った。
 この時、窓はテオドールの抱える矛盾の媒体となっていた。窓の外からは強い力がテオドールを引っ張り出そうとし、階段を下り、今すぐに相手を見つけに行くのだと命令していた。
(p24)


ジンメルをぜひ参照したい…

 つまり生きものと活発なエネルギーとの間にある卑猥さとは対極にある第二の卑猥さには、興奮のかけらもなければ、身体を欲望のまなざしで見つめられる可能性も一切なく、あるのは、収まらぬ動揺、物質的な動揺、中庸の動揺であり、見る者の目に映るのは骨ばかりに痩せた、男でも女でもないほかのもの、ほかの物質、ほかの物体である。
(p43)


テオドールは強制収容所の写真やデータを見て、そこから「恐怖の量的世界史」を作ろうとしているらしい。そうしているテオドールと、接触しないくらいに離れているミリア(ここは結婚している時点の描写)。ミリアには第一の卑猥さの視線が耐えられなく、第二の視線で全てを見ているのだろうか。あるいはその逆?

 大きな恐怖とは、この歴史に終止符が打たれること-人間が死ぬと心電図の線がフラットになるように-ではなく、いちばん恐ろしいのは、グラフがある一定性を見せることだ、恐るべき一定性だ、時間の中で恐怖が常態的にある、恐怖が通常のものとなり、あらゆる希望に終止符が打たれるということだ。
(p51)


この二つの違いが未だ明確には掴めていない(本当は全く同じことなのではないか)のだけれど、また恐怖の常態化していない世の中など果たしてあったのだろうか、という気もする。テオドールは何を見極めようとしているのだろうか。
今のところ第4章まで。

ヒンネルクとハンナ

夜に第9章まで。
第7、8章はヒンネルクとハンナの章。ヒンネルクは戦争帰りで銃と恐怖がいつもともにある。この街に住んでからも、家の中で実弾訓練をして、(弾は込めないが)近くの子供を標的にとらえたりする。周りの子供達は最初は怖がっていたが、そのうち慣れてきてだんだん挑発的になってくる。
そんなヒンネルクに(何故だかはよくわからないが)娼婦の稼ぎの幾らかを渡すのがハンナ。ヒンネルクの恐怖がだんだん大きくなってきているのがハンナにはわかる。

 近いうちに何かが起こる、と。誰かが自分を捜している、と言った。
(p72)


誰も別にヒンネルクを探してたりはしていない。なのに彼はそう感じている。前の章でテオドールとすれ違ったハンナは急いでヒンネルクの家に向かう…がヒンネルクは既に出て行ったあとだった。
(2022 05/29)

カースと作家

 こことは全く違う機械の世界が、自分の長いまつ毛がたった一本闖入することでどうなるか。長針、短針、秒針が作る世界。たった一本のまつ毛で時間の世界が混乱し、そのせいで、こちらの日常までも崩れていくとしたら。
(p88)
 話しはじめると自制が利かなくなり、一つを言い終わる前に次の言葉が飛び出し、そのうち言葉を満載したちっぽけな舟がぐらぐら揺れて転覆しそうな様相を帯びてくる。
(p89-90)


テオドールの息子カースの章。p88の方は時計に目をくっつけて見ながら。p89の文は何か前に似たような文章を別の本で見たような気もする…今、思ったのだけど、書かずには精神が落ち着かないという作家タヴァレス自身に一番近いのがこのカースなのかも。とにかく、父テオドールが外出したのを見て、探しに彼も外へ出る。エルンストと同じように彼の歩き方も一癖あるらしい。

待機の文学

次の章はヒンネルクの章。

 食べるという行為はほかの行為とは違う、それは人を凡庸にする。待機するのと同じくらいつまらない行為だ。事実、食べるとは、待機するという行為の変形とも言えると思っていた。
(p99)


食べることが凡庸かどうかはさておき、食べるのと待機が同じという魅惑的な比喩に引っ張られそうなのに少し抵抗して。戦争において、一番重要なのは待機であることが多いのではないか、とも考える。闇雲に突進していたら全滅してしまう。ヒンネルクにおいて戦争とは、戦略とか以上に日常に居座っているもの(それは恐怖)なのではないか。

待機の文学というのも(だからかどうかはさておき)多く存在する。「ゴドーを待ちながら」とか「タタール人の砂漠」とか。まだ読んでないけど、確かノサックにずばり「待機」という作品もあったと思う。
そういえば、この「エルサレム」は「皆出て行く物語」とも言える。待機を皆拒否しているような。
そうしてヒンネルクも出かける。

 この夜、ヒンネルクは何かを捜していた。恐怖はなかった。
(p102)


何かを捜せば恐怖はなくなるのか…今日はここまで。
(2022 05/30)

ネズミの表象とサラマーゴとの比較

 もしも今、ネズミが一匹ここに入ってくれば、悠々ときみの肩に上ったり下りたりするだろう。長い尻尾が鼻先をかすめても、きみは気づきもしないだろう。いくら考えに耽ったところでなんの助けにもなりゃしない。だってネズミたちは、きみが考えるのをやめて行動を起こすのを待ってはくれないんだから。
(p124)


テオドールが妻ミリアを精神病院に連れて入院させ、その入院している間に妊娠してしまった(相手はあのエルンスト)。この報告を院長から聞くテオドールを見て、院長ゴンペルツが思いを巡らせているところ。ネズミがなんらかの比喩的に使われているように思えるのだが、何だろうか。思考から逃れ去る情念みたいなもの?

ポルトガル作家ということで、サラマーゴと比較してみると、ページ開いた時の印象(サラマーゴの黒々した文字が埋まっているページと、タヴァレスの空白や章の境の白紙のページと)は違うけれど、読んでいると結構似ている感触がある。タヴァレスは他の作品は違うのかもしれないが。

「ヨーロッパ02」


そしていよいよ折り返し地点のような第15章「ヨーロッパ02」。これはそういうタイトルの小説らしい。

 過ちを犯した人間は追放される。箱に閉じ込められる。外にいる人間には箱しか見えない。だが、閉じ込められている人間、追放された人間からは外が見える。全部見える。彼らはわれわれのすべてを見ている。
(p128)


数多くの断章からなる小説の、最初のブロックから。他人の心理はまるで見えない…ただ、「過ちを犯した人間」にはそれが見えるという。そして、そういう箱はあっても誰も気付かない。その箱の前を何百回と通っているのに…
ひょっとしたら、この「ヨーロッパ02」という小説内小説? ひょっとして、これはタヴァレスの若書きのものだったりして。そしてそこから物語が立ち上げて作品を構成した…とか。
(2022 05/31)

 その時にきみは吐き気を催す。義務的に行わなければならない拷問行為に対してよりも、数秒前に感じた喜び、自分は拷問される側ではないと知った時の安堵を思い出すからだ。その喜びは本能的なもので、どの命令に従ったものでもない。だからこそ、吐き気はしばらく続く。
(p138)
この文は「ヨーロッパ02」の最後のところから。安堵とその結果としての拷問者の立場に整合性が取れないのだろう。

歴史を進めるエンジンとしての悪

 このひらめきは、この瞬間、テオドールに重く響いた。悪の速度とその結果によってのみ、進歩が生まれる、とテオドールは一人で呟いた。
(p164)


今日読んだこの部分は、テオドールを中心に、彼の父(政治家らしい)が死の直前に息子カースが実の子ではないことを看破って怒り出す時点、それからその父の死を知らされてカースを連れていく時点、そして最後にこの物語の基準点ともいうべき5月29日のテオドールの深夜の家出とそれを追おうとするカースの時点、と3つの時点がシャッフルされ次々差し込まれている。

引用した文は、悪こそが歴史を動かす「エンジン」なのだという。善行は比べものにならないくらい小さい力しか出ない。となれば、進歩と称しているものは実は悪の成果なのではないか。
5月29日の基準点では、拳銃を持ち歩いているヒンネルクとそれから父を捜しているカースが出会う。カースは無事に父と会えるのか。かなり怪しくなってきた。
(2022 06/01)

制御できない自分のエネルギー

とりあえず、カースは全然無事ではなく、ヒンネルクに殺されてしまった…
と、まずは状況説明。一回も子供を見ることもなくテオドールに子供を取られてしまったミリア。それにどうやら子供を産めない身体に手術されていたようで、しかもそれが小説冒頭のミリアの「死病」の始まりだったという。この2年後、どのようにしてやったのかはわからないが、ミリアとエルンストは病院から逃げ出して、テオドールの家まで行く。が、子供は見せてもらえずただ門番に突き飛ばされただけだった。そして現在(5月29日)、ヒンネルクはカースを殺したあと、ハンナとテオドールに出会う。この時、さっき殺したカースがテオドールの息子であった(本当は違うけど)ことを知る。

 退屈とは危険なものだとミリアは知っていた。どんな戦争より危険だ。問いを持たなくなると、人は退屈するものだ。
(p167)
 ヒンネルクは、座礁船の残骸が漂着するようにハンナの人生にたどり着いたのだ。彼女との出会いは、わずかながらも安定と、人との接触と、落ちてしまうかもと恐れることなくよりかかれる場所を、ヒンネルクに与えたのだ。ハンナを通してヒンネルクは世界と、街とつながっていた。
(p186)
 かつてのある種のエネルギーは失われたか、あるいは体内のどこかにしまい込まれていて、しばらく自分では取り出せないかのようだった。
(p191)


2番目と3番目の文章は、自分の中の自分ではどうにもならない高いエネルギーについての文章。これもこの小説でのテーマなのだろう。
(2022 06/02)

捕まることのない子供

 エルンストは頭の中に堤防を築くことができず、ダムがあったとしても何も堰き止められなかった。ありとあらゆるものがぐるぐると巡り、ばらばらの思考が思いがけない形でくっついてしまい、時には危険な形を成した。彼の頭脳は、制御不能の混沌と化していた。冷静な思考ができず、何かと何かを分けて考えることがどうしてもできなかった。
(p202-203)


あとのp237の場面等でも繰り返される、暴力的な思考というか情念が無防備になだれ込んでくるエルンスト。

 追いかけられていることと同じくらい恐ろしいのが、絶対に捕まることがない、ということだ。
(p205)


悪者に追いかけられている子供が、振り返って「捕まえてよ」という図。それが読んでいるこちらの脳裏に焼き付いて離れない。

 こうして、テオドール・ブスベックは、受難者という烙印を背中に押されている人民も、つねに危害を及ぼす傾向がある人民というのも、存在しないということを研究によって明確にした。
(p211)


p51の文との呼応。「民族」ではなく「人民」という言葉(社会階級とかも意識している(「社会集団」とかの方がいいかも?それとも違うニュアンス?)。このテオドール理論は集団だけでなく、個人にも適用可能…
エルサレムがゴンペルツとの面会の日の夜、5月29日未明に屋根裏部屋で一人いる。

 窓を開けてもうだいぶ経っていたので、外気が狭い部屋に入ってきて家具に沁みこみ、目には見えない塵を室内の物の上に置いていった。ほんの少しの時間で、家の外部と内部を繋ぐ新しい有機体が見つかったかのように、両方が一つに融け合っていた。冷たく、いくぶん不快な夜気はもう入ってこなくなった。もう、外も内もなくなったからだ。
(p237)


ここで平衡状態に達したのか。自然描写のように見えて、ここがこの小説の核ではないかと、今は漠然とではあるが思う。

寓話とその後


こうして、ミリアからの電話が鳴り、エルンストが(どうしてそこに辿り着いたのか、ミリアの「同じ道をたどらない」とか、この辺りから小説の書き方が「奇跡」あるいは「寓話」じみてくる)…

そして、筋としては、テオドールとハンナが安娼館で一夜を過ごしている街の傍で、ミリアを助けているエルンストにヒンネルクが出会い、ミリアを休ませて回復させたあと、ヒンネルクは銃を見せる。ミリアが興にのって、ヒンネルクに銃口向けている(その直前、エルンストとミリアの実子であるカースをヒンネルクは惨殺している)…

ここまでが第30章で、第32章(最終章)の前に割り込む第31章においてミリアの48歳の医療刑務所にいる姿が描き出される。ミリアは死病から逃れ、着実に病にもヒンネルクを殺害した罪にも向き合って生きている。無味乾燥ではあるけれど、新たなゴンペルツはいない、こうしてミリアには奇跡は起こったのか?

と、感慨深げに最終章、第32章に入ってみると、実はヒンネルクを撃ったのはエルンスト(ヒンネルクの「(戦争で)もちろん殺したさ、当たり前だ」と言った瞬間)で、我に返ったエルンストは例の走り方で逃げ出してしまう。残されたミリアは、ようやく開いた教会の前に「人を殺しました」と告白する。もう一度問う、こうしてミリアには奇跡は起こったのか?
そして、エルンストはどこへ行ったのか。
(補足:note編集していて気づいたのだが、ヒンネルクのところで引用したp72の文は、実は第32章の伏線ではないか…)

いろいろおまけ。


第27章と第28章の書き出し1ページがまるまる同じ。p209とp219。ここはどうしてこうなっているのか、繰り返しの記述はこの小説の一つの味になっているのは確かだが、ここについてはまだ詳細考えきれていない。

この小説読んで思った率直な感想としては。、エルンスト、ミリア、テオドール、ヒンネルク…結局のところ皆同じところを回っているだけなのではというところ。結局、テオドールの恐怖の統計の一サンプルに過ぎないというのか。いや、それを越えて、内と外(p237)、ヒンネルクにも訪れた人を助けたことによる高揚感など、それらを踏まえて言うのか。

この小説において戦争とは(p210のテオドールの著書の「まえがき」とか参考)。戦争というのがこの作品の最重要テーマであることは間違いないとは思うのだが、それがまだ自分の中に明確に位置付けられていない。戦争は常に背後にあって、つい最近戦争が終わったらしい、それだけでなく何か背後にいつも戦争状態があるような。これはひょっとして著者タヴァレスがアンゴラ生まれというのも関係あったりして。

細かいところだが、第27章でテオドールの大部を批判して「貴殿もゲオルグ・ローゼンベルク精神病院に入院せよ」とのたまう「非常に高名な学者」って誰だろう? 前妻ミリアがそこに入院していたことを知っているようだし…物語内部にも捜してみたいし、何か現実にそういうモデルがあったのかも、とも想像してみる。タヴァレスはここでそれを引用してみせたとか…

その後の、テオドールの全5巻が急速に忘れ去られ、古本屋にばらばらに売られていく描写は、「古本屋情景あるある」で少し楽しい…

解説で木下氏が言っていた、アレントの文章ってどこ? どこかそんな匂いのするような文があったような(例えばp141から142とか)、そういう箇所はやはりテオドールの箇所が多いが…今、気づいたけれど、そういえばハンナという登場人物がこの小説には…
(2022 06/04)

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